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パラサイト
茶目
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「おいおい、ナナミさん謹製かよ」
久しぶりの弁当持参はロクの関心を引いた。
作ったのは姉ではないのだけれど、それを訂正すればじゃあ誰がということになるのでそこは黙っておいた。
濃縮還元のオレンジジュースを自販機で確保して学食のいつもの席に着いた。今日はシギもいる。
「可愛いお弁当箱だね」
黄色がまぶしい水玉模様の二段重ねはシギのみならず通りかかる女子の耳目も引いた。
「大人気だな」
ロクが羨望まじりの皮肉を口にする。上四元クシナ謹製だと知ったら、どういう顔をするのだろう。
ランチバンドを外し、ふたを開ける。なにやらずいぶんとシルキーな輝きを放つサンドイッチである。小粋なラップにでも包んであるのだと思った。それを一つ手に取ると、いとも簡単に広がった。サンドイッチはどこにもない。
「……………ずいぶん洒落たサンドイッチだな」
リアクションに困ったロクがやっとの思いで口を開いた。明らかに引いている。
「それ、お姉ちゃんの?」
不思議そうなシギの言葉が今は救いだった。
昼間の学食でシルクのパンティを広げて持つやつなどそうそういるものではない。
包装用のストラップだと思っていたものはサイドの紐であった。この手の下着は姉も持ってはいるけれど、これらは上四元クシナが持参したものであろう。手にした白以外はピンク、パープル、サックスなど実にカラフルである。
「お前、ナナミさんを怒らせるようなことしたのか」
姉のお手製だと思っているロクの目は同情に変わっていた。二重の意味で勘違いしているのだけれど、訂正する気にはならない。
それを丸めて元に戻すとオレンジを一気に啜った。シギは自分が食べていたピラフをあげると申し出てくれたけれど、今は何も食べる気になれず、辞退した。
「それ、処理しといてやろうか」
姉のものだと思っているロクが黄色のランチボックスに色目を使ってきた。思春期特有の劣情を包み隠さず披瀝する目の前の友に真実を告げる気にはなれず、かといって騙し通すのも気が引けるので必要最低限の情報だけ提示した。
「これ、姉さんのじゃないぞ」
ピカタを切っていたロクの動きが止まる。フォークとナイフをカチャカチャいわせているその様は正直、似合っていない。
「お母さんの?」
口を開いたのはシギ。
姉のじゃない下着の持ち主となればあとはただ今不在中の母しかいない。しかしそれも間違いである。そもそも母はこの手のシンプルなものではなくフリルだリボンだと派手目なものを好んで穿いている。しかしここはかりそめの持ち主になって貰うしかない。
「……そ、そう。母さんの」
話を聞いていたロクは――少なくとも当人にとっては――衝撃の真実を知り、大人しく昼食に取りかかり始めた。
なぜその母親のものがランチボックスに詰められていたのかを問い詰められることがないのが救いであった。
*
「ナギちゃん」
空き腹を抱えたまま午後の授業を乗り越え、放課後に何か食べて行こうかと商店街をぶらついていたときのこと。
振り返ると、懐かしい顔がそこにあった。
「イッちゃんか」
小学校まで一緒だった一月堂イケモチが人懐っこい笑顔を見せている。彼は小学校一年のときに同じクラスになって以降、六年間ほぼ一緒のクラスだった数少ない同級生である。ほぼというのは二学期開始前に学区外に越してしまったからである。やはり秋口に学区外へ引っ越してしまったシギと違ってそのまま学区内の小学校へ編入し、中学校は互いに別のところに進んだので、小学校以来になる。他に六年間同じクラスだった筆頭は左衛門三郎のお嬢様だ。その彼女は中学、そして高校の今も絶賛クラスメイト記録更新中である。
「ナギちゃんは……於牟寺に行ってるんだな」
制服を見て理解したらしい。
「イッちゃんは愛貴亜?」
「うん」
ブレザーのエンブレムには見覚えがある。シギの友人の八百板さんと同じだ。
「於牟寺は他に誰がいるの」
「シギもロクもいるよ。左衛門三郎のお嬢様も」
「ミカちゃんの周りの子たちも?」
左衛門三郎のお嬢様を名前で呼ぶのは三次とイッちゃんくらいだ。ちゃん付けとなるとイッちゃんしかいない。
「うん。三次も三苫さんも五百旗頭君たちも」
「みんな行ってるんだなあ……あの子もいるのかい。ロクちゃんと仲が悪い彼女」
とくんと胸がざわめく。
「羽二生さんのこと?」
ごく自然に意識しないようにその名前を口にする。
「そう、カヤノちゃん。モテたよねえ、彼女。告白してた連中、悉く玉砕してたけど」
イッちゃんのいうように羽二生さんはとてももてた。そして多くの男子が勇気もむなしく散っていった。
「いるよ」
「相変わらずきれいかい?」
イッちゃんの無邪気な顔を見ていると、たまにうらやましく感じることがある。当時こんな調子で気軽に羽二生さんと話す彼は大げさじゃなく勇者に見えた。
「……う、うん」
「そうか。彼氏はできたのかな」
羽二生さんの想い人を思えば、いないと断言できる。そして個人的願望としてはいて欲しくない。
「ナギちゃんはどうだい」
返答に窮していると、こちらに振ってきた。
「なにが?」
「彼女さ」
脳裏に燻っていた羽二生さんがふたたび鮮明に浮かび上がる。
「いないよ」
イッちゃんはそうなのかいと納得しかねる感じで首を傾げた。
「ナギちゃん、モテるのにねえ」
「どこの与太話だよ」
「本当さ。小学校の頃、他のクラスの女子がよく噂にしていたし、今だってウチの学校の女子でナギちゃんの話してる子がいる」
「それ違うナギちゃんだろ」
ちょっとドキドキしながらも呆れていると、イッちゃんは中性的な笑みを顔いっぱいに浮かべて目の前のナギちゃんのことさとこちらを指してみせた。優男風のイッちゃんはたまに女子に間違えられることがあった。そしてそれは今も変わらない。髪を伸ばして相応の服を着れば騙される人もいるだろう。嘘か誠か中学の頃、男子から告白された男子が愛貴亜中学にいると風の噂で聞いたけれど、イッちゃんだったのもしれない。
「イッちゃんの学校の女子が話してるって何かしたっけかな」
「別に悪名高いってわけではないよ。同じ市内なんだし、気になる男子がいたらチェックは怠らないのさ」
思いがけない話にうろたえていると、イッちゃんが意地の悪い声を出した。
「もしウチの女子に紹介してくれっていわれたら迷惑かい?」
ふたたび羽二生さんが浮かぶ。シリアスな顔でもしてしまったのか、イッちゃんが申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんごめん。ナギちゃんの気持ちも考えないで勝手に話しちゃってさ」
「……ああ、うん。気にしていないよ」
そのあとコンビニでフランクやらチキンを買い込み、近くの公園で旧交を温めるかのように昔話で盛り上がった。
きれいなお姉さんによろしくと悠然と立ち去るイッちゃんを見送りながら、思いがけない再会に口元が緩むのが押えられなかった。
明日はシギたちにイッちゃんのことを話したら喜ぶだろうなとひとりごちながら、羽二生さんに話しかける口実もできたと舞い上がっていた。
家に着き、今日の夕食はどうしようと考えながら、鍵のかかっていないドアを何の疑問も持たずに開けた。
一瞬で後悔に襲われる。
きれいに並べられたローファーの放つ隙のない艶が夢見心地だった僕を現実に引き戻した。
さっきまでの嬉々とした気分があえなく霧散する。
背中に沸き立つ恐怖に戦きながら、ノブに手をかけたままゆっくりと息を吐く。足を極力静かに後ろに運び、ドアを閉めようとした刹那、
「おかえり」
甘えた声が足枷となって僕の動きを止める。ダイニングキッチンから顔を覗かせた声の主はその声音とは裏腹に冷ややかな目をしていた。
「どうして入って来ないの」
くちびるに人差し指を添えた甘えるようなポーズでゆっくりとこちらに向かってくる。
「ここはナナギの家じゃない」
上がり框から三和土の端に置いてある自分の家から持参してきたというサンダルを器用に突っ掛け、僕の手を取り、引きずり込む。
後方でガチャリと施錠の冷たい音が響く。
上四元クシナはいつものように腕を絡め、いつものように顔を覗いてきた。
「ああ、そういえばあの女が家にいるんだった。姉さんが帰って来るまで時間を潰してくればよかった。そんな顔してる」
冗談抜きで泣きたい気分だった。恐怖で泣くという感覚は姉に半殺しにされて以来ない。
彼女は僕の胸元辺りに鼻を近づけてくんくんと鳴らした。
「フライドチキンでも食べてきたの?」
彼女と結婚したら絶対に浮気は不可能であろう。
「あの十鳥さんていう人と一緒だったのかな」
挑発とも嫉妬とも取れる色を目に浮かべながら、一気に腕を締めつけてくる。
「違うよ、彼女じゃない」
嘘はついていないけれど、だからといって本当のこと――イッちゃんのこと――はいいたくなかった。
ダイニングキッチンに入ると、上四元クシナはお弁当美味しかった? と訊いてきた。
鞄から黄色と小さな白の水玉がまぶしいランチボックスを取り出す。
「おかげでお昼食べ損なったよ」
無駄だと思いながらも皮肉をぶつける。もちろん彼女には通用しない。
「ダメじゃない、食べ残しちゃ」
サイドが紐になっているシルクを次々に取り出す。普段から姉と買い物に行っているだけあって下着の趣味も似るのだろうか。
「これ、お姉ちゃんのよ」
心を読んだように、そう答える。思わずテーブルに、彼女の手にあるシルクを見入る。
「私もこれ持ってるけれど、今日のはお姉ちゃんの」
私のなら脱ぎたてのがいいでしょうと付け加える。
手際よくアツミさんの下着を丸めながら、明日こそ食べてよねと今は自分の部屋である寝室へ戻っていった。
もはや上四元クシナは家族であった。
夕食のとき、姉と談笑する姿は見事なくらい我が家のダイニングキッチンに馴染んでおり、むしろ僕が客人で浮いているとさえ錯覚したほどであった。
深夜。
なるべく一階には行きたくはなかったけれど、生理現象には勝てずにトイレに向かう。鬼門の寝室を過ぎて用を足したあと、ローマ皇帝の格言を実行するかのように静かにゆっくりしかし急いで立ち去ろうとしたとき、背後に不穏な気配を感じた。
振り返るのと手を引かれるのと同時であった。
寝室に引っ張り込まれ、中央に置かれたダブルベッドにそのまま放られる。
廊下の明かりが差し込む寝室は薄暗くて判然としないけれど、僕を部屋に引きずり込んだ犯人はビスチェとガーダーを組み合わせた扇情的な格好のようだった。女子高生の寝巻きなど知りようもないけれど、これが普通なのであろうか。
「ナナギのために決まってるじゃない」
上四元クシナはベッドに沈む僕に当たり前のように被さり、胸に頭を乗せてくる。
ひとさし指を僕の顎から唇に這わせて、悩ましげに息を吐いてみせる。
逃げるように上半身を起こすと、それにつられるように彼女も起き上がり、胸に飛び込んでくる。
彼女を押し退け、ベッドから降りると、一気にドアに駆け寄る。ノブを掴んだ手に上四元クシナの手が重なり、ふたたび、部屋の中心に押し返される。
上四元クシナはすばやく僕の懐に潜り込み、右の拳で僕の顔を思い切り打ちつけた。
よろめく身体を追いかけて、左のフックを放つともう一度右の大砲を打ち込もうと右肩を大きくしならせた。
とっさに顔をガードする僕に上四元クシナは「フェイント」と甘く、狡猾に囁く。
鳩尾にきれいなボディブロウを受けて身体が折れ曲がる。そのあとは顔に腹にいいようにパンチを打ち込まれた。
腰を存分に捻り、左右の拳がふるわれる度に、んっ、んふっ、と悩ましげな息が漏れる。さながら鼻歌交じりに家事をこなす新妻のごとく、女子高生ボクサーは楽しげに僕の身体を陵辱し続けた。
彼女の無邪気で残酷な拳を受けたり流したりしていると、姉とのコミュニケーションを思い出すけれど、グローブをしていない分、痛みが剥き出しである。
「これくらいにしてあげる」
まだ物足りなげな上四元クシナにようやく解放されて部屋に戻ると、そのままぐったりと眠りの女神に身を任せた。
翌朝も上四元クシナは朝食と弁当の準備を済ませていた。僕の警戒を折り込み済みなのであろう、彼女が元気に家を出たあと確認のためにランチボックスを開けると、そこには脱ぎたての下着ではなく、見るからにボリューミーなサンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「今日はクラブハウスサンドか」
姉が目を輝かせる。
「昨日のツナタマゴも美味しかったから楽しみね」
昨日食べ損ねた幻のサンドイッチはよりによっていちばん好きな具材だったらしい。
ひょっとしたら。
それも彼女の計算なのかもしれないとぼんやりと思ったりした。
僕を翻弄するための、上四元クシナの幼稚だけれど、効果的な作戦。
そしてそれは上四元クシナの深遠なる再攻撃の端緒にすぎなかった。
久しぶりの弁当持参はロクの関心を引いた。
作ったのは姉ではないのだけれど、それを訂正すればじゃあ誰がということになるのでそこは黙っておいた。
濃縮還元のオレンジジュースを自販機で確保して学食のいつもの席に着いた。今日はシギもいる。
「可愛いお弁当箱だね」
黄色がまぶしい水玉模様の二段重ねはシギのみならず通りかかる女子の耳目も引いた。
「大人気だな」
ロクが羨望まじりの皮肉を口にする。上四元クシナ謹製だと知ったら、どういう顔をするのだろう。
ランチバンドを外し、ふたを開ける。なにやらずいぶんとシルキーな輝きを放つサンドイッチである。小粋なラップにでも包んであるのだと思った。それを一つ手に取ると、いとも簡単に広がった。サンドイッチはどこにもない。
「……………ずいぶん洒落たサンドイッチだな」
リアクションに困ったロクがやっとの思いで口を開いた。明らかに引いている。
「それ、お姉ちゃんの?」
不思議そうなシギの言葉が今は救いだった。
昼間の学食でシルクのパンティを広げて持つやつなどそうそういるものではない。
包装用のストラップだと思っていたものはサイドの紐であった。この手の下着は姉も持ってはいるけれど、これらは上四元クシナが持参したものであろう。手にした白以外はピンク、パープル、サックスなど実にカラフルである。
「お前、ナナミさんを怒らせるようなことしたのか」
姉のお手製だと思っているロクの目は同情に変わっていた。二重の意味で勘違いしているのだけれど、訂正する気にはならない。
それを丸めて元に戻すとオレンジを一気に啜った。シギは自分が食べていたピラフをあげると申し出てくれたけれど、今は何も食べる気になれず、辞退した。
「それ、処理しといてやろうか」
姉のものだと思っているロクが黄色のランチボックスに色目を使ってきた。思春期特有の劣情を包み隠さず披瀝する目の前の友に真実を告げる気にはなれず、かといって騙し通すのも気が引けるので必要最低限の情報だけ提示した。
「これ、姉さんのじゃないぞ」
ピカタを切っていたロクの動きが止まる。フォークとナイフをカチャカチャいわせているその様は正直、似合っていない。
「お母さんの?」
口を開いたのはシギ。
姉のじゃない下着の持ち主となればあとはただ今不在中の母しかいない。しかしそれも間違いである。そもそも母はこの手のシンプルなものではなくフリルだリボンだと派手目なものを好んで穿いている。しかしここはかりそめの持ち主になって貰うしかない。
「……そ、そう。母さんの」
話を聞いていたロクは――少なくとも当人にとっては――衝撃の真実を知り、大人しく昼食に取りかかり始めた。
なぜその母親のものがランチボックスに詰められていたのかを問い詰められることがないのが救いであった。
*
「ナギちゃん」
空き腹を抱えたまま午後の授業を乗り越え、放課後に何か食べて行こうかと商店街をぶらついていたときのこと。
振り返ると、懐かしい顔がそこにあった。
「イッちゃんか」
小学校まで一緒だった一月堂イケモチが人懐っこい笑顔を見せている。彼は小学校一年のときに同じクラスになって以降、六年間ほぼ一緒のクラスだった数少ない同級生である。ほぼというのは二学期開始前に学区外に越してしまったからである。やはり秋口に学区外へ引っ越してしまったシギと違ってそのまま学区内の小学校へ編入し、中学校は互いに別のところに進んだので、小学校以来になる。他に六年間同じクラスだった筆頭は左衛門三郎のお嬢様だ。その彼女は中学、そして高校の今も絶賛クラスメイト記録更新中である。
「ナギちゃんは……於牟寺に行ってるんだな」
制服を見て理解したらしい。
「イッちゃんは愛貴亜?」
「うん」
ブレザーのエンブレムには見覚えがある。シギの友人の八百板さんと同じだ。
「於牟寺は他に誰がいるの」
「シギもロクもいるよ。左衛門三郎のお嬢様も」
「ミカちゃんの周りの子たちも?」
左衛門三郎のお嬢様を名前で呼ぶのは三次とイッちゃんくらいだ。ちゃん付けとなるとイッちゃんしかいない。
「うん。三次も三苫さんも五百旗頭君たちも」
「みんな行ってるんだなあ……あの子もいるのかい。ロクちゃんと仲が悪い彼女」
とくんと胸がざわめく。
「羽二生さんのこと?」
ごく自然に意識しないようにその名前を口にする。
「そう、カヤノちゃん。モテたよねえ、彼女。告白してた連中、悉く玉砕してたけど」
イッちゃんのいうように羽二生さんはとてももてた。そして多くの男子が勇気もむなしく散っていった。
「いるよ」
「相変わらずきれいかい?」
イッちゃんの無邪気な顔を見ていると、たまにうらやましく感じることがある。当時こんな調子で気軽に羽二生さんと話す彼は大げさじゃなく勇者に見えた。
「……う、うん」
「そうか。彼氏はできたのかな」
羽二生さんの想い人を思えば、いないと断言できる。そして個人的願望としてはいて欲しくない。
「ナギちゃんはどうだい」
返答に窮していると、こちらに振ってきた。
「なにが?」
「彼女さ」
脳裏に燻っていた羽二生さんがふたたび鮮明に浮かび上がる。
「いないよ」
イッちゃんはそうなのかいと納得しかねる感じで首を傾げた。
「ナギちゃん、モテるのにねえ」
「どこの与太話だよ」
「本当さ。小学校の頃、他のクラスの女子がよく噂にしていたし、今だってウチの学校の女子でナギちゃんの話してる子がいる」
「それ違うナギちゃんだろ」
ちょっとドキドキしながらも呆れていると、イッちゃんは中性的な笑みを顔いっぱいに浮かべて目の前のナギちゃんのことさとこちらを指してみせた。優男風のイッちゃんはたまに女子に間違えられることがあった。そしてそれは今も変わらない。髪を伸ばして相応の服を着れば騙される人もいるだろう。嘘か誠か中学の頃、男子から告白された男子が愛貴亜中学にいると風の噂で聞いたけれど、イッちゃんだったのもしれない。
「イッちゃんの学校の女子が話してるって何かしたっけかな」
「別に悪名高いってわけではないよ。同じ市内なんだし、気になる男子がいたらチェックは怠らないのさ」
思いがけない話にうろたえていると、イッちゃんが意地の悪い声を出した。
「もしウチの女子に紹介してくれっていわれたら迷惑かい?」
ふたたび羽二生さんが浮かぶ。シリアスな顔でもしてしまったのか、イッちゃんが申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんごめん。ナギちゃんの気持ちも考えないで勝手に話しちゃってさ」
「……ああ、うん。気にしていないよ」
そのあとコンビニでフランクやらチキンを買い込み、近くの公園で旧交を温めるかのように昔話で盛り上がった。
きれいなお姉さんによろしくと悠然と立ち去るイッちゃんを見送りながら、思いがけない再会に口元が緩むのが押えられなかった。
明日はシギたちにイッちゃんのことを話したら喜ぶだろうなとひとりごちながら、羽二生さんに話しかける口実もできたと舞い上がっていた。
家に着き、今日の夕食はどうしようと考えながら、鍵のかかっていないドアを何の疑問も持たずに開けた。
一瞬で後悔に襲われる。
きれいに並べられたローファーの放つ隙のない艶が夢見心地だった僕を現実に引き戻した。
さっきまでの嬉々とした気分があえなく霧散する。
背中に沸き立つ恐怖に戦きながら、ノブに手をかけたままゆっくりと息を吐く。足を極力静かに後ろに運び、ドアを閉めようとした刹那、
「おかえり」
甘えた声が足枷となって僕の動きを止める。ダイニングキッチンから顔を覗かせた声の主はその声音とは裏腹に冷ややかな目をしていた。
「どうして入って来ないの」
くちびるに人差し指を添えた甘えるようなポーズでゆっくりとこちらに向かってくる。
「ここはナナギの家じゃない」
上がり框から三和土の端に置いてある自分の家から持参してきたというサンダルを器用に突っ掛け、僕の手を取り、引きずり込む。
後方でガチャリと施錠の冷たい音が響く。
上四元クシナはいつものように腕を絡め、いつものように顔を覗いてきた。
「ああ、そういえばあの女が家にいるんだった。姉さんが帰って来るまで時間を潰してくればよかった。そんな顔してる」
冗談抜きで泣きたい気分だった。恐怖で泣くという感覚は姉に半殺しにされて以来ない。
彼女は僕の胸元辺りに鼻を近づけてくんくんと鳴らした。
「フライドチキンでも食べてきたの?」
彼女と結婚したら絶対に浮気は不可能であろう。
「あの十鳥さんていう人と一緒だったのかな」
挑発とも嫉妬とも取れる色を目に浮かべながら、一気に腕を締めつけてくる。
「違うよ、彼女じゃない」
嘘はついていないけれど、だからといって本当のこと――イッちゃんのこと――はいいたくなかった。
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鞄から黄色と小さな白の水玉がまぶしいランチボックスを取り出す。
「おかげでお昼食べ損なったよ」
無駄だと思いながらも皮肉をぶつける。もちろん彼女には通用しない。
「ダメじゃない、食べ残しちゃ」
サイドが紐になっているシルクを次々に取り出す。普段から姉と買い物に行っているだけあって下着の趣味も似るのだろうか。
「これ、お姉ちゃんのよ」
心を読んだように、そう答える。思わずテーブルに、彼女の手にあるシルクを見入る。
「私もこれ持ってるけれど、今日のはお姉ちゃんの」
私のなら脱ぎたてのがいいでしょうと付け加える。
手際よくアツミさんの下着を丸めながら、明日こそ食べてよねと今は自分の部屋である寝室へ戻っていった。
もはや上四元クシナは家族であった。
夕食のとき、姉と談笑する姿は見事なくらい我が家のダイニングキッチンに馴染んでおり、むしろ僕が客人で浮いているとさえ錯覚したほどであった。
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振り返るのと手を引かれるのと同時であった。
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ひとさし指を僕の顎から唇に這わせて、悩ましげに息を吐いてみせる。
逃げるように上半身を起こすと、それにつられるように彼女も起き上がり、胸に飛び込んでくる。
彼女を押し退け、ベッドから降りると、一気にドアに駆け寄る。ノブを掴んだ手に上四元クシナの手が重なり、ふたたび、部屋の中心に押し返される。
上四元クシナはすばやく僕の懐に潜り込み、右の拳で僕の顔を思い切り打ちつけた。
よろめく身体を追いかけて、左のフックを放つともう一度右の大砲を打ち込もうと右肩を大きくしならせた。
とっさに顔をガードする僕に上四元クシナは「フェイント」と甘く、狡猾に囁く。
鳩尾にきれいなボディブロウを受けて身体が折れ曲がる。そのあとは顔に腹にいいようにパンチを打ち込まれた。
腰を存分に捻り、左右の拳がふるわれる度に、んっ、んふっ、と悩ましげな息が漏れる。さながら鼻歌交じりに家事をこなす新妻のごとく、女子高生ボクサーは楽しげに僕の身体を陵辱し続けた。
彼女の無邪気で残酷な拳を受けたり流したりしていると、姉とのコミュニケーションを思い出すけれど、グローブをしていない分、痛みが剥き出しである。
「これくらいにしてあげる」
まだ物足りなげな上四元クシナにようやく解放されて部屋に戻ると、そのままぐったりと眠りの女神に身を任せた。
翌朝も上四元クシナは朝食と弁当の準備を済ませていた。僕の警戒を折り込み済みなのであろう、彼女が元気に家を出たあと確認のためにランチボックスを開けると、そこには脱ぎたての下着ではなく、見るからにボリューミーなサンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「今日はクラブハウスサンドか」
姉が目を輝かせる。
「昨日のツナタマゴも美味しかったから楽しみね」
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ひょっとしたら。
それも彼女の計算なのかもしれないとぼんやりと思ったりした。
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「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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