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拳塔町に行くの巻
情景
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月光りを受けて碧い海面には無数のきらめきがたゆたっていた。日中でも人気の少ない洞穴と呼ぶには奥行きのあまりない岩場に腰を下ろすと、コンビニで買った白桃の缶チューハイを開けた。
煌々と周辺を照らす月を眺めながら、子供の頃にこの衛星が年単位で地球から3センチづつ遠ざかっていると教えてくれた人のことを考えていた。もっと他にも勉強のこと以外でいろんなことを教えてくれていたはずなのに、あまり憶えていない。
思い出すのは手入れの行き届いた長い髪、いつも絶やされることのなかった笑み、透き通ったきれいな声……狭い町ゆえ、そのスタイルのよさも手伝って彼女を知らない男はいないんじゃないかってくらいよく噂を聞いた。妬みもあったのか、流言飛語、今考えるとばかげた内容ばかりだったが、そんな空言が堪えないくらいの美女だったということだ。
こんな夜にそんなことを鮮明に思い出したのはまぎれもなく、昼間に出会った彼女が原因だ。もう忘れていた、忘れかけていたはずのあの人のことで悶々とすることになるとはな。桃姐によって陵辱されまくった口内を癒すかのようにゆっくりと広がるほんのりとした甘さと鼻を突き抜ける桃の、薄いくせに輪郭のしっかりとした風味を受け止めながら、なぜか苦味まで感じ始めて苦笑する。
――その原因。
イベントが大盛況だった昼過ぎに起こった事件とその顛末を舌に乗った甘さとともにアタマの中でゆっくりと反芻した。
*
思わぬ展開に赤湖は機嫌がよかった。
イベント開始から数え切れないほどの女たちがこんなふざけたイベントに参加しているが、それらすべてを蹴散らすほどの美貌の女が相手だ。個人的に憧れだったユウコ先生に似ていることもあって、実は俺も落ち着かない。
ニノマエナナミと名乗った女はさっそくリングシューズを所望した。
「やる気満々でうれしいねえ」
赤湖はニノマエナナミのカタチのいいヒップに釘づけになっている。気持ちは分かるが、ここは控えろ。
サイズが同じなので、桃姐愛用のリングシューズを新品の靴下と共に渡すと女は丁寧にアタマを下げた。その仕草に意味もなく胸が高鳴る。鼻歌でも歌うかのように流暢にリングシューズを履き終えると、今度はバンテージをリクエストしてきた。
「これじゃダメですか?」
緑池がワンタッチタイプのを示すと、あるのなら普通のがいいのですがと笑った。
さっきのロクタンゾノ君KOの余波が薄れつつある中、ふたたび緊張が走ったのは、ニノマエナナミがバンテージを巻きはじめたときだった。
手にしたバンテージをすばやく手のひらに巻きつけていく様は、どう見ても素人のそれではなかった。理解したのだろう、にやけていた赤湖の顔から余裕が一瞬で消えた。
「グローブもこれだけたくさんあると迷っちゃいますね」
うれしそうにひと指し指であごをつつきながら女が選んだのは、ロクタンゾノ君がさっきまで装着していた、そして今自分が身につけている水着と同じピンク色のグローブだった。選ぶふりをしながらその実、これ以外は眼中になかったはずだ。それは意思表示、これこそがニノマエナナミがリングに上がる理由。絶賛失神中のロクタンゾノ君が知ったら、その心遣いにさぞかし感激するだろう。
ニノマエナナミはグローブを大事そうに抱えると、清楚な白ビキニの少女の前ではめて、そっと突き出した。
「お願い」
それがどういう意味なのか、理解はしてるんだろうが、彼女がリングに立つことが納得できないらしく、少女はやめてくださいと何度も懇願していた。
「大丈夫」
アタマを撫でながら、なんとか宥めすかすと、ようやく観念した少女に紐を巻きつけてもらい、ニノマエナナミは拳の武装を終えた。
ぎゅっと力を込めて握ると、今度はばすんばすんとつき合わせる。ボクシングのグローブを装着したなら、誰でも一度はやるごく普通の行為だが、笑みを湛えた彼女のそれはどこか優雅でどこかエロティックで、そしてどこか威厳があった。
静まり返った室内にリングシューズが鉄製の階段を踏みしめるカツンカツンという渇いた音を響かせた。
そんなわけはないのに、なぜだかそれが赤湖の死刑宣告に思えて仕方がなかった。
ぐいっとロープを真ん中から割ってリングに上がる仕草は腹立たしいくらい妖艶で様になっている。冗談抜きで本気で惚れてしまいそうだった。なによりボクシンググローブを装着してリングに佇む姿が似合っている。グローブ姿でリングに立つのが様になる女なんて桃姐以外にいるわけないと信じていたのに。
「なんだか経験者みたいじゃねえ? おねーさん、ボクシングやってるのかい」
すでに不埒な目的でイベントを始めた親友の姿はそこにはなかった。むりやり笑顔を作ろうとしているのは、自分を奮い立たせる意味なのか、ぎこちなさだけが際立っている。
「こういうリングに上がるのは初めてです」
もの珍しげに周辺に目を走らせる。こういうリングに上がるのは、か。正直な女だ。
「提案なんですけど」
赤湖と相対したニノマエナナミの表情に別段、変化はなかった。
「なんだい」
「ルールは撤廃してもらえませんか」
「………は?」
「そちらが手を出さないというルールはこの際やめて、普通の試合形式にしていただきたいんです」
「……ナ、ナナミさん!」
憧れだったユウコ先生によく似たその女がとんでもないこといい出す。連れの少女が取り乱すのも無理はない。しかし、ずっと大人しかったカメラ小僧だけはニノマエナナミがイベントに名乗りを上げてからは出番がきたとばかりに熱心に撮影を始めていた。
「おねーさん、正気か」
「はい」
その即答ぶりに、赤湖の顔が引きつるのが分かる。
「ずいぶんとなめられたもんだねえ」
気色ばむ赤湖にもニノマエナナミはずっと笑顔のままだ。それが赤湖の神経をさらに逆撫でし、それのみならず、今度はこんなことまでいい出すのだった。
「私、思うんです。手は出されないはずなのに、何かの拍子でバッティングを受けた挙句、ノックアウトされたら悔しいじゃないですか」
赤湖が息を呑むのが分かった。ニノマエナナミはあれに気づいていたのだ。ロクタンゾノ君をノックアウトする前に、赤湖が彼に浴びせた肘打ちに。
「それよりは最初からボクシングの試合として臨んだ方がいいと思ったんですが、気を悪くされたのならすみません」
「ひょっとして、あの少年のことでまだ怒ってるってのかい。そのことに関しちゃ本当にすまなかったと思ってるし、あれは不幸な事故だったんだぜ」
しかし、ニノマエナナミは引く気はないのか、笑顔のままだ。いい女だけに、こういう態度は最高にムカつく。かわいさ余ってなんとやら、だ。
「……いいぜ、普通の試合でやってやるよ。勝負は1ラウンド、時間は3分でいいか」
「ええ」
「ナナミさん、やめてください、ナナミさんッ!」
エプロンに駆け寄った少女はいちばん下のロープを揺すりながら絶叫していた。
「ナナミ殿、最高です、ナナミ殿ォ!」
もうひとりの連れ、さっきからシャッター音を淀みなく響かせているカメラ小僧もニノマエナナミにレンズを向けながら、やはり絶叫しているがその内容ははまるで別物だ。
ユウコ先生によく似たチャレンジャーの女は、涙目で無茶なことをやめるよう訴え続ける連れの少女を言葉を発することなく、やさしく――グローブ越しではあったが――撫でることで落ち着かせ、その一方で半狂乱でシャッターを切り続けているカメラ小僧には手を振り、ウインクまでしてみせていた。
「いや、さすがにまずいだろ、赤湖」
「このおねーさんがいいっつてんだよ」
ドン引きしている黄沼に赤湖がイラついたように吐き捨てる。
「だよな?」
「はい。よろしくお願いします」
両手を前で重ねながら丁寧な辞儀を見せる姿は育ちのいいお嬢さんだ。しかし、ここはリングでそのしなやかで誰のことも殴り飛ばしたことなどなさそうな手にはボクシングのグローブがはまっている。異様なシチュエーションだが、そのギャップにはなかなかどうしてクるものがある。なにより、その手の重ね方。ニノマエナナミは右手を上にしていた。基本的に武士は右手、つまり利き手で刀を抜くので、その手を抑えるという意味で左手を上に添えるのが常識だと聞いたことがある。戦闘の意思がないという態度表明。
それを教えてくれたのは誰であろう、ユウコ先生だ。
一貫して慇懃な言動なようで、しっかりと戦闘準備は万端らしい。怖い女だ。
「後悔すんなよ、おねーさん」
後悔するのは赤湖。そんな気がして、何度もそれを必死に振り払おうとするが、疑念はそう簡単に消えるとはない。
それをごまかすみたいに、赤湖の代わりにゴングを鳴らすよう、俺が黄沼に促した。
どうなっても知らないからな。室内の空気を揺るがす破壊音といってもいいくらいの怒りをにじませた強大な鐘の音は黄沼のぶつけようのない苛立ちでもあった。
コンセントレーションのつもりか、開始のゴングがなるまでの数秒、じっと自分のコーナーに向き合い、両手でロープを掴んでいたニノマエナナミが振り返った。窓から入り込む午後の日差しを浴びた長い髪がきらきらと輝くように靡く。
流れるようにゆっくりとした動きでファイティングポーズを作る。ガードの腕、足の位置、その構えだけで玄人はだしの腕を持っていると分かった。
これまでの一方的な受けとは違い、赤湖が本来の力を堂々と発揮できる試合形式のはずだ。しかし、やつはノーガードだった。
「なにしてんだ、あいつ」
緑池じゃなくとも奇異に映るだろう。戦法とも挑発とも思えない。慌てて指示を出す。
「赤湖、ゴング鳴ってんぞ、ぼさっとすんな!」
「……お、おう」
様子見とかとも訝ったが、完全に飲まれていたようだ。こんな赤湖は見たことがない。
現われては消え、消えては現われる胸騒ぎが次第に大きくなっていく。
きゅっ。
キャンバスを蹴り上げ、ニノマエナナミがようやく構えた赤湖に向かっていく。
「………ッ!」
反応した赤湖が腰を右に振った。追い払うように放った左のショートフックをかいくぐるとニノマエナナミは赤湖の懐に潜り込んた。前傾姿勢のままボディを狙う。そう思った。しかし、パンチどころかフェイントの類も見せることなく、姿勢を戻しながら後方に足を滑らせた。試合前からずっと浮かべている笑みはまったく崩れることはない。もし、それが途切れたとすれば、さっきロクタンゾノ君を寝かせていた、あのときにおそらく。
「お美しいです、お美しいですなァ、ナナミ殿ォ!」
絶え間なくシャッターを切り続けているカメラ小僧は器用にフロアを転がり回りながら、舐めるようにニノマエナナミの姿態を自慢の一眼にメモリーしていく。
「リングに舞うそのお姿は唯一無二、ナナミ殿以上にリングが似合う女性は他に存在し得ませんぞォ!」
リングが似合うという表現を喜ぶ奇特な女がこの世にいるとは思えないが、まあ、いっていることは概ね理解はできる。
「ワンダフォー! ビューティフォー! エキサイティンッッッッッ!」
………うるせえな。
専属カメラマンが奮闘している最中もニノマエナナミは赤湖に迫ってはやつの攻撃を巧みにかわすだけで一切手は出さなかった。挑発しているのは明白だった。
探り針すら使わず、フットワークのみだけで牽制し続けるニノマエナナミをずっと攻めあぐねていた赤湖が動いたのは、ゴングが鳴ってから二分は経った頃だと思う。
ステップを巧妙に駆使して相手との距離を縮めると、ジャブとフックの左の連係を仕掛けた。とどめに右の大砲を織り交ぜる、赤湖が学生時代に好んで使っていたコンビネーションの一つだ。
ニノマエナナミはヘッドスリップとパーリングで左をやり過ごすと、フックの捻りによって生み出される腰の乗った赤湖の右が繰り出されるのを察知したのだろう、すばやく左腕を伸ばして大砲を封じ込んだ。
「………ッ」
渾身のコンビネーションを無効化され、赤湖の焦燥が手に取るように分かる。大砲を止められたということは、その勢いを利用したリターンが飛んでくることを意味する。
しかし、ニノマエナナミはリターンどころかせっかく握った主導権すら放棄し、ふたたび距離を置くように後方へ退いた。
今、この瞬間を楽しむように佇むニノマエナナミと翻弄され続けている赤湖ではすでに勝負はついたようなものだった。しかし、それで納得しないことはふたりとも同じのはずだ。片や敵討ち、片やプライドのために。
「ぉりゃッ」
挑戦者を睨みつけていた赤湖が気合いを入れるように短く叫ぶとステップインから左のショートアッパーを打った。流麗なスウェーを見せるニノマエナナミに今度は右が伸びる。手本にしたくなるようなパーリングでそれを弾く。しかし、それは内側に払うインサイドパリーではなく、外側へ逸らすアウトサイドパリーだった。アウトサイドはガードが開くゆえ、攻撃を呼び込みやすい。普通ならこんなハイリスクな方法は取らないだろうが、ニノマエナナミが普通じゃないのは、このわずかな時間で理解したつもりだった。
案の定、コンビネーションの締めである、左のフックが一向に変化のない整った相貌に襲いかかる。やはりそれもウィービングでかわされたが、すでに赤湖は右肩を下げて次なる大砲の打ち上げ準備を整えた。
シュッ。
空を切り裂くようなするどい右アッパーが相手のあごを目がけて突き上げられる。
これもスウェーでかわす。しかし、華麗なディフェンスを披露しているニノマエナナミの後方にはスペースがない。コーナーを背にした相手に、むしろ赤湖が追い詰められているように見えるのはなぜだろう。
赤湖の軸足とニノマエナナミのステップが同時にキャンバスを擦った。
赤湖のジャブとフックをダッキングで回避したニノマエナナミはそのまま相手にタックルの姿勢で抱きつき、身体を振りながら互いの位置を入れ替えた。
そうそう味わえない美女のクリンチにも赤湖の表情は弛緩することはない。
「なんだ、あいつ。無理しやがって」
緑池は笑うが、今の赤湖には水着ギャルと一戦交えながらナイスバディを楽しみ、クリンチに興奮する余裕などないのだ。
互いに身体を離した直後だった。ファイティングポーズを作るごく自然の流れの中でそれは起こった。見間違えでなければ、ニノマエナナミは右手を握り込む寸前、それを上に向け、くいくいっと動かしてみせたのだ。かろうじて俺にさえ分かった小さな動きだったが、眼前の赤湖が気づかないはずもない。
「……………ッ」
舌打ちしたか、何ごとかをつぶやいたか。いずれにしろ、赤湖を殺気立たせるのに成功したのは間違いない。
本気じゃない相手は攻撃できないってことか、ニノマエナナミさんよ。
ジャブ。フック。アッパー。ストレート。単発。コンビネーション。ガードもフェイントも忘れてあらゆる攻撃を仕掛ける。
ガードを放棄したのはニノマエナナミも同様だった。腕を下げ、フットワークと上半身の動きだけで赤湖の凶暴な拳をひらひらと往なしていた。
「っざけんな、ざけんなよァァァ!」
着弾することのない赤い拳をむなしく振り回している赤湖は完全に逆上せ上がっていた。あいつがリングでこんなに熱くなったのは初めて見た。
乱打の寸隙、ニノマエナナミが微笑んだ。いや、彼女はずっと微笑んではいた。それは別種のものなのだが、あえて違いを説明しようとしても、上手くできる気がしない。
赤湖が大砲を打ち込む。しかしそれはむやみに放っていた今までのものとは違っていた。腕を引きながらそのままステップインで間合いを詰め、さらに右のアッパーへ繋げる。正気を失っていたようで、こいつはまだ冷静さを残していたのだ。右の連携を最小限の動きで避けられた赤湖は本命の左を被せにかかる。そのフックはしかし、ニノマエナナミをがら空きの下腹部へと容易に誘うダッキングを招いたに過ぎなかった。
戦闘モードに突入していたニノマエナナミは確実にボディを狙うと思った。それは赤湖も同じだったのだろう。しかし、やられると考えていた俺と、やれると考えていた赤湖ではその意味合いも違ってくる。
だが、彼女は狙わなかった。
ニノマエナナミの両眼が赤湖を捉える。
赤湖も眼下のニノマエナナミを捉えている。
ふたりが微笑んだように見えたのは気のせいか。
赤湖の打ち下ろしが標的を確実に屠るためだけに打ち出された。ボディを犠牲に放った赤湖の必殺の右だった。だが、ニノマエナナミは目の前の餌には見向きもせずに、膝によって沈んでいた下半身を元に戻しながら、右肩を隆起させる。彼女は俺たちが考えているよりもずっと上手だったのだ。
赤湖の計画ならボディを攻撃していたニノマエナナミを砕いていたはずのチョッピングは彼女の右頬をかすめ、右肩を擦り、インパクトすることなく頭打ちとなった。
ぎゅっ。
聞こえるはずのない、彼女のピンクのグローブが鳴った気がした。
ダッキングの勢いをたっぷりと乗せたニノマエナナミの右が、伸び切ったまま彼女の肩で所在なさげに乗っかっている赤湖の右腕と入れ替わるようにすばやく伸び、目標を確実に破壊すべく着弾する。
まるでリングが、集会所全体が震えるような衝撃。
肉と骨を叩き潰すような音がした。赤湖がロクタンゾノ君を仕留めたときよりも何十倍も嫌な、何度でも夢に出てきそうな音だった。
赤湖の顔面に食い込んだニノマエナナミのグローブが離れたとき、ぬちゃっと、やはり嫌な水音を立てた気がした。
鍛え上げられた屈強な身体が宙を舞い、キャンバスに沈むのと同時に終了のゴングが鳴る。見計らったようなタイミングだが、赤湖を一発KOしたニノマエナナミは相手のダウンを確認する前にすでにコーナーに戻り、半べそをかいている少女を慰めていた。
間違いない。この女は3分という限られた時間を有効に使ったのだ。与えられた時間のほとんどはあの右のカウンターを打つまでの前座に過ぎなかったのだ。まったくもってムカつく女だ。そして、最高の―――。
「なあ、ニノマエナナミさんよ」
なぜそんなことを思いついたのか、自分でも分からなかった。幼い恋心を捧げたユウコ先生に似ていたからなのか、桃姐以上にボクシングが様になっていたからなのか、赤湖を翻弄した抜群のボクシングテクニックに惹かれたからなのか、単純にいい女だったからなのか、あるいはもっと別の理由なのか。
たった一発で顔面を無残に潰され、すでに魂があの世へ逝きかけている赤湖が緑池たちによってリングから降ろされるのを眺めながら、俺はニノマエナナミに声をかけていた。
「俺と勝負してくれ。赤湖みたいに時間のほとんどを遊びで使うのはなしだぜ。一発であいつを沈めた最後の右ストレートみたいな本気のパンチがどんなものか自分の肌で感じてみたいんだ。1ラウンドがダメなら1分だけでいい。あんたと一戦交えたいんだ。ああ、俺は青川っつんだ。よろしく頼む」
まるで告白だった。それは決して実を結ばない果実、永遠の憧れ。
ユウコ先生しかり、中学で初めて隣の席になったあいつしかり、そして―――。
ニノマエナナミは黙って俺の青くさい告白にもなっていない告白を聞いていた。そして腹が立つくらいすごくいい笑顔でこういった。
「分かりました。お互い悔いのないよう、全力でぶつかり合いましょう。よろしくお願いしますね、青川さん」
煌々と周辺を照らす月を眺めながら、子供の頃にこの衛星が年単位で地球から3センチづつ遠ざかっていると教えてくれた人のことを考えていた。もっと他にも勉強のこと以外でいろんなことを教えてくれていたはずなのに、あまり憶えていない。
思い出すのは手入れの行き届いた長い髪、いつも絶やされることのなかった笑み、透き通ったきれいな声……狭い町ゆえ、そのスタイルのよさも手伝って彼女を知らない男はいないんじゃないかってくらいよく噂を聞いた。妬みもあったのか、流言飛語、今考えるとばかげた内容ばかりだったが、そんな空言が堪えないくらいの美女だったということだ。
こんな夜にそんなことを鮮明に思い出したのはまぎれもなく、昼間に出会った彼女が原因だ。もう忘れていた、忘れかけていたはずのあの人のことで悶々とすることになるとはな。桃姐によって陵辱されまくった口内を癒すかのようにゆっくりと広がるほんのりとした甘さと鼻を突き抜ける桃の、薄いくせに輪郭のしっかりとした風味を受け止めながら、なぜか苦味まで感じ始めて苦笑する。
――その原因。
イベントが大盛況だった昼過ぎに起こった事件とその顛末を舌に乗った甘さとともにアタマの中でゆっくりと反芻した。
*
思わぬ展開に赤湖は機嫌がよかった。
イベント開始から数え切れないほどの女たちがこんなふざけたイベントに参加しているが、それらすべてを蹴散らすほどの美貌の女が相手だ。個人的に憧れだったユウコ先生に似ていることもあって、実は俺も落ち着かない。
ニノマエナナミと名乗った女はさっそくリングシューズを所望した。
「やる気満々でうれしいねえ」
赤湖はニノマエナナミのカタチのいいヒップに釘づけになっている。気持ちは分かるが、ここは控えろ。
サイズが同じなので、桃姐愛用のリングシューズを新品の靴下と共に渡すと女は丁寧にアタマを下げた。その仕草に意味もなく胸が高鳴る。鼻歌でも歌うかのように流暢にリングシューズを履き終えると、今度はバンテージをリクエストしてきた。
「これじゃダメですか?」
緑池がワンタッチタイプのを示すと、あるのなら普通のがいいのですがと笑った。
さっきのロクタンゾノ君KOの余波が薄れつつある中、ふたたび緊張が走ったのは、ニノマエナナミがバンテージを巻きはじめたときだった。
手にしたバンテージをすばやく手のひらに巻きつけていく様は、どう見ても素人のそれではなかった。理解したのだろう、にやけていた赤湖の顔から余裕が一瞬で消えた。
「グローブもこれだけたくさんあると迷っちゃいますね」
うれしそうにひと指し指であごをつつきながら女が選んだのは、ロクタンゾノ君がさっきまで装着していた、そして今自分が身につけている水着と同じピンク色のグローブだった。選ぶふりをしながらその実、これ以外は眼中になかったはずだ。それは意思表示、これこそがニノマエナナミがリングに上がる理由。絶賛失神中のロクタンゾノ君が知ったら、その心遣いにさぞかし感激するだろう。
ニノマエナナミはグローブを大事そうに抱えると、清楚な白ビキニの少女の前ではめて、そっと突き出した。
「お願い」
それがどういう意味なのか、理解はしてるんだろうが、彼女がリングに立つことが納得できないらしく、少女はやめてくださいと何度も懇願していた。
「大丈夫」
アタマを撫でながら、なんとか宥めすかすと、ようやく観念した少女に紐を巻きつけてもらい、ニノマエナナミは拳の武装を終えた。
ぎゅっと力を込めて握ると、今度はばすんばすんとつき合わせる。ボクシングのグローブを装着したなら、誰でも一度はやるごく普通の行為だが、笑みを湛えた彼女のそれはどこか優雅でどこかエロティックで、そしてどこか威厳があった。
静まり返った室内にリングシューズが鉄製の階段を踏みしめるカツンカツンという渇いた音を響かせた。
そんなわけはないのに、なぜだかそれが赤湖の死刑宣告に思えて仕方がなかった。
ぐいっとロープを真ん中から割ってリングに上がる仕草は腹立たしいくらい妖艶で様になっている。冗談抜きで本気で惚れてしまいそうだった。なによりボクシンググローブを装着してリングに佇む姿が似合っている。グローブ姿でリングに立つのが様になる女なんて桃姐以外にいるわけないと信じていたのに。
「なんだか経験者みたいじゃねえ? おねーさん、ボクシングやってるのかい」
すでに不埒な目的でイベントを始めた親友の姿はそこにはなかった。むりやり笑顔を作ろうとしているのは、自分を奮い立たせる意味なのか、ぎこちなさだけが際立っている。
「こういうリングに上がるのは初めてです」
もの珍しげに周辺に目を走らせる。こういうリングに上がるのは、か。正直な女だ。
「提案なんですけど」
赤湖と相対したニノマエナナミの表情に別段、変化はなかった。
「なんだい」
「ルールは撤廃してもらえませんか」
「………は?」
「そちらが手を出さないというルールはこの際やめて、普通の試合形式にしていただきたいんです」
「……ナ、ナナミさん!」
憧れだったユウコ先生によく似たその女がとんでもないこといい出す。連れの少女が取り乱すのも無理はない。しかし、ずっと大人しかったカメラ小僧だけはニノマエナナミがイベントに名乗りを上げてからは出番がきたとばかりに熱心に撮影を始めていた。
「おねーさん、正気か」
「はい」
その即答ぶりに、赤湖の顔が引きつるのが分かる。
「ずいぶんとなめられたもんだねえ」
気色ばむ赤湖にもニノマエナナミはずっと笑顔のままだ。それが赤湖の神経をさらに逆撫でし、それのみならず、今度はこんなことまでいい出すのだった。
「私、思うんです。手は出されないはずなのに、何かの拍子でバッティングを受けた挙句、ノックアウトされたら悔しいじゃないですか」
赤湖が息を呑むのが分かった。ニノマエナナミはあれに気づいていたのだ。ロクタンゾノ君をノックアウトする前に、赤湖が彼に浴びせた肘打ちに。
「それよりは最初からボクシングの試合として臨んだ方がいいと思ったんですが、気を悪くされたのならすみません」
「ひょっとして、あの少年のことでまだ怒ってるってのかい。そのことに関しちゃ本当にすまなかったと思ってるし、あれは不幸な事故だったんだぜ」
しかし、ニノマエナナミは引く気はないのか、笑顔のままだ。いい女だけに、こういう態度は最高にムカつく。かわいさ余ってなんとやら、だ。
「……いいぜ、普通の試合でやってやるよ。勝負は1ラウンド、時間は3分でいいか」
「ええ」
「ナナミさん、やめてください、ナナミさんッ!」
エプロンに駆け寄った少女はいちばん下のロープを揺すりながら絶叫していた。
「ナナミ殿、最高です、ナナミ殿ォ!」
もうひとりの連れ、さっきからシャッター音を淀みなく響かせているカメラ小僧もニノマエナナミにレンズを向けながら、やはり絶叫しているがその内容ははまるで別物だ。
ユウコ先生によく似たチャレンジャーの女は、涙目で無茶なことをやめるよう訴え続ける連れの少女を言葉を発することなく、やさしく――グローブ越しではあったが――撫でることで落ち着かせ、その一方で半狂乱でシャッターを切り続けているカメラ小僧には手を振り、ウインクまでしてみせていた。
「いや、さすがにまずいだろ、赤湖」
「このおねーさんがいいっつてんだよ」
ドン引きしている黄沼に赤湖がイラついたように吐き捨てる。
「だよな?」
「はい。よろしくお願いします」
両手を前で重ねながら丁寧な辞儀を見せる姿は育ちのいいお嬢さんだ。しかし、ここはリングでそのしなやかで誰のことも殴り飛ばしたことなどなさそうな手にはボクシングのグローブがはまっている。異様なシチュエーションだが、そのギャップにはなかなかどうしてクるものがある。なにより、その手の重ね方。ニノマエナナミは右手を上にしていた。基本的に武士は右手、つまり利き手で刀を抜くので、その手を抑えるという意味で左手を上に添えるのが常識だと聞いたことがある。戦闘の意思がないという態度表明。
それを教えてくれたのは誰であろう、ユウコ先生だ。
一貫して慇懃な言動なようで、しっかりと戦闘準備は万端らしい。怖い女だ。
「後悔すんなよ、おねーさん」
後悔するのは赤湖。そんな気がして、何度もそれを必死に振り払おうとするが、疑念はそう簡単に消えるとはない。
それをごまかすみたいに、赤湖の代わりにゴングを鳴らすよう、俺が黄沼に促した。
どうなっても知らないからな。室内の空気を揺るがす破壊音といってもいいくらいの怒りをにじませた強大な鐘の音は黄沼のぶつけようのない苛立ちでもあった。
コンセントレーションのつもりか、開始のゴングがなるまでの数秒、じっと自分のコーナーに向き合い、両手でロープを掴んでいたニノマエナナミが振り返った。窓から入り込む午後の日差しを浴びた長い髪がきらきらと輝くように靡く。
流れるようにゆっくりとした動きでファイティングポーズを作る。ガードの腕、足の位置、その構えだけで玄人はだしの腕を持っていると分かった。
これまでの一方的な受けとは違い、赤湖が本来の力を堂々と発揮できる試合形式のはずだ。しかし、やつはノーガードだった。
「なにしてんだ、あいつ」
緑池じゃなくとも奇異に映るだろう。戦法とも挑発とも思えない。慌てて指示を出す。
「赤湖、ゴング鳴ってんぞ、ぼさっとすんな!」
「……お、おう」
様子見とかとも訝ったが、完全に飲まれていたようだ。こんな赤湖は見たことがない。
現われては消え、消えては現われる胸騒ぎが次第に大きくなっていく。
きゅっ。
キャンバスを蹴り上げ、ニノマエナナミがようやく構えた赤湖に向かっていく。
「………ッ!」
反応した赤湖が腰を右に振った。追い払うように放った左のショートフックをかいくぐるとニノマエナナミは赤湖の懐に潜り込んた。前傾姿勢のままボディを狙う。そう思った。しかし、パンチどころかフェイントの類も見せることなく、姿勢を戻しながら後方に足を滑らせた。試合前からずっと浮かべている笑みはまったく崩れることはない。もし、それが途切れたとすれば、さっきロクタンゾノ君を寝かせていた、あのときにおそらく。
「お美しいです、お美しいですなァ、ナナミ殿ォ!」
絶え間なくシャッターを切り続けているカメラ小僧は器用にフロアを転がり回りながら、舐めるようにニノマエナナミの姿態を自慢の一眼にメモリーしていく。
「リングに舞うそのお姿は唯一無二、ナナミ殿以上にリングが似合う女性は他に存在し得ませんぞォ!」
リングが似合うという表現を喜ぶ奇特な女がこの世にいるとは思えないが、まあ、いっていることは概ね理解はできる。
「ワンダフォー! ビューティフォー! エキサイティンッッッッッ!」
………うるせえな。
専属カメラマンが奮闘している最中もニノマエナナミは赤湖に迫ってはやつの攻撃を巧みにかわすだけで一切手は出さなかった。挑発しているのは明白だった。
探り針すら使わず、フットワークのみだけで牽制し続けるニノマエナナミをずっと攻めあぐねていた赤湖が動いたのは、ゴングが鳴ってから二分は経った頃だと思う。
ステップを巧妙に駆使して相手との距離を縮めると、ジャブとフックの左の連係を仕掛けた。とどめに右の大砲を織り交ぜる、赤湖が学生時代に好んで使っていたコンビネーションの一つだ。
ニノマエナナミはヘッドスリップとパーリングで左をやり過ごすと、フックの捻りによって生み出される腰の乗った赤湖の右が繰り出されるのを察知したのだろう、すばやく左腕を伸ばして大砲を封じ込んだ。
「………ッ」
渾身のコンビネーションを無効化され、赤湖の焦燥が手に取るように分かる。大砲を止められたということは、その勢いを利用したリターンが飛んでくることを意味する。
しかし、ニノマエナナミはリターンどころかせっかく握った主導権すら放棄し、ふたたび距離を置くように後方へ退いた。
今、この瞬間を楽しむように佇むニノマエナナミと翻弄され続けている赤湖ではすでに勝負はついたようなものだった。しかし、それで納得しないことはふたりとも同じのはずだ。片や敵討ち、片やプライドのために。
「ぉりゃッ」
挑戦者を睨みつけていた赤湖が気合いを入れるように短く叫ぶとステップインから左のショートアッパーを打った。流麗なスウェーを見せるニノマエナナミに今度は右が伸びる。手本にしたくなるようなパーリングでそれを弾く。しかし、それは内側に払うインサイドパリーではなく、外側へ逸らすアウトサイドパリーだった。アウトサイドはガードが開くゆえ、攻撃を呼び込みやすい。普通ならこんなハイリスクな方法は取らないだろうが、ニノマエナナミが普通じゃないのは、このわずかな時間で理解したつもりだった。
案の定、コンビネーションの締めである、左のフックが一向に変化のない整った相貌に襲いかかる。やはりそれもウィービングでかわされたが、すでに赤湖は右肩を下げて次なる大砲の打ち上げ準備を整えた。
シュッ。
空を切り裂くようなするどい右アッパーが相手のあごを目がけて突き上げられる。
これもスウェーでかわす。しかし、華麗なディフェンスを披露しているニノマエナナミの後方にはスペースがない。コーナーを背にした相手に、むしろ赤湖が追い詰められているように見えるのはなぜだろう。
赤湖の軸足とニノマエナナミのステップが同時にキャンバスを擦った。
赤湖のジャブとフックをダッキングで回避したニノマエナナミはそのまま相手にタックルの姿勢で抱きつき、身体を振りながら互いの位置を入れ替えた。
そうそう味わえない美女のクリンチにも赤湖の表情は弛緩することはない。
「なんだ、あいつ。無理しやがって」
緑池は笑うが、今の赤湖には水着ギャルと一戦交えながらナイスバディを楽しみ、クリンチに興奮する余裕などないのだ。
互いに身体を離した直後だった。ファイティングポーズを作るごく自然の流れの中でそれは起こった。見間違えでなければ、ニノマエナナミは右手を握り込む寸前、それを上に向け、くいくいっと動かしてみせたのだ。かろうじて俺にさえ分かった小さな動きだったが、眼前の赤湖が気づかないはずもない。
「……………ッ」
舌打ちしたか、何ごとかをつぶやいたか。いずれにしろ、赤湖を殺気立たせるのに成功したのは間違いない。
本気じゃない相手は攻撃できないってことか、ニノマエナナミさんよ。
ジャブ。フック。アッパー。ストレート。単発。コンビネーション。ガードもフェイントも忘れてあらゆる攻撃を仕掛ける。
ガードを放棄したのはニノマエナナミも同様だった。腕を下げ、フットワークと上半身の動きだけで赤湖の凶暴な拳をひらひらと往なしていた。
「っざけんな、ざけんなよァァァ!」
着弾することのない赤い拳をむなしく振り回している赤湖は完全に逆上せ上がっていた。あいつがリングでこんなに熱くなったのは初めて見た。
乱打の寸隙、ニノマエナナミが微笑んだ。いや、彼女はずっと微笑んではいた。それは別種のものなのだが、あえて違いを説明しようとしても、上手くできる気がしない。
赤湖が大砲を打ち込む。しかしそれはむやみに放っていた今までのものとは違っていた。腕を引きながらそのままステップインで間合いを詰め、さらに右のアッパーへ繋げる。正気を失っていたようで、こいつはまだ冷静さを残していたのだ。右の連携を最小限の動きで避けられた赤湖は本命の左を被せにかかる。そのフックはしかし、ニノマエナナミをがら空きの下腹部へと容易に誘うダッキングを招いたに過ぎなかった。
戦闘モードに突入していたニノマエナナミは確実にボディを狙うと思った。それは赤湖も同じだったのだろう。しかし、やられると考えていた俺と、やれると考えていた赤湖ではその意味合いも違ってくる。
だが、彼女は狙わなかった。
ニノマエナナミの両眼が赤湖を捉える。
赤湖も眼下のニノマエナナミを捉えている。
ふたりが微笑んだように見えたのは気のせいか。
赤湖の打ち下ろしが標的を確実に屠るためだけに打ち出された。ボディを犠牲に放った赤湖の必殺の右だった。だが、ニノマエナナミは目の前の餌には見向きもせずに、膝によって沈んでいた下半身を元に戻しながら、右肩を隆起させる。彼女は俺たちが考えているよりもずっと上手だったのだ。
赤湖の計画ならボディを攻撃していたニノマエナナミを砕いていたはずのチョッピングは彼女の右頬をかすめ、右肩を擦り、インパクトすることなく頭打ちとなった。
ぎゅっ。
聞こえるはずのない、彼女のピンクのグローブが鳴った気がした。
ダッキングの勢いをたっぷりと乗せたニノマエナナミの右が、伸び切ったまま彼女の肩で所在なさげに乗っかっている赤湖の右腕と入れ替わるようにすばやく伸び、目標を確実に破壊すべく着弾する。
まるでリングが、集会所全体が震えるような衝撃。
肉と骨を叩き潰すような音がした。赤湖がロクタンゾノ君を仕留めたときよりも何十倍も嫌な、何度でも夢に出てきそうな音だった。
赤湖の顔面に食い込んだニノマエナナミのグローブが離れたとき、ぬちゃっと、やはり嫌な水音を立てた気がした。
鍛え上げられた屈強な身体が宙を舞い、キャンバスに沈むのと同時に終了のゴングが鳴る。見計らったようなタイミングだが、赤湖を一発KOしたニノマエナナミは相手のダウンを確認する前にすでにコーナーに戻り、半べそをかいている少女を慰めていた。
間違いない。この女は3分という限られた時間を有効に使ったのだ。与えられた時間のほとんどはあの右のカウンターを打つまでの前座に過ぎなかったのだ。まったくもってムカつく女だ。そして、最高の―――。
「なあ、ニノマエナナミさんよ」
なぜそんなことを思いついたのか、自分でも分からなかった。幼い恋心を捧げたユウコ先生に似ていたからなのか、桃姐以上にボクシングが様になっていたからなのか、赤湖を翻弄した抜群のボクシングテクニックに惹かれたからなのか、単純にいい女だったからなのか、あるいはもっと別の理由なのか。
たった一発で顔面を無残に潰され、すでに魂があの世へ逝きかけている赤湖が緑池たちによってリングから降ろされるのを眺めながら、俺はニノマエナナミに声をかけていた。
「俺と勝負してくれ。赤湖みたいに時間のほとんどを遊びで使うのはなしだぜ。一発であいつを沈めた最後の右ストレートみたいな本気のパンチがどんなものか自分の肌で感じてみたいんだ。1ラウンドがダメなら1分だけでいい。あんたと一戦交えたいんだ。ああ、俺は青川っつんだ。よろしく頼む」
まるで告白だった。それは決して実を結ばない果実、永遠の憧れ。
ユウコ先生しかり、中学で初めて隣の席になったあいつしかり、そして―――。
ニノマエナナミは黙って俺の青くさい告白にもなっていない告白を聞いていた。そして腹が立つくらいすごくいい笑顔でこういった。
「分かりました。お互い悔いのないよう、全力でぶつかり合いましょう。よろしくお願いしますね、青川さん」
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