姉はすべてを支配する。さればわれらも姉に従おう。

さいきごそ

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姉の居ぬ間に

決闘・転

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 姉からスパーリング名目でボクシングの相手はさせられてはいるけれど、セコンドの真似事はもちろん、未知の領域だった。
 とりあえず、タオルで十鳥さんの顔を拭くと、水を口に含ませてうがいをさせる。目の腫れなどは見当たらなかったけれど、たった今、パンチの連打によって鼻血を流したのはまぎれもない事実だ。震える手で彼女のマウスピースを受け取り、丁寧に洗う。
「痛いところはない? 意識はしっかりしてる? 吐き気は? 痛いところはある?」
 初めてリングに上がり、打撃を受けた十鳥さんよりも明らかに動揺していた。
「何の問題もないわね」
 そういうと、マウスピースをはめるよう、要求してきた。
「一君には対等な立場でいて欲しいの。彼女のフォローもしっかりとお願いするわ」
 樹脂をくわえ込む直前、突き放すようないい方で僕を一瞥する十鳥さんはとても同学年の女子には思えなかった。
 上四元クシナはコーナーポストと向き合うように、両腕を広げてロープを掴んでいた。
 身体を軽く前後に揺らしながら、リズムを取るみたいに、集中している。
「上四元さん」
 僕の声に何の反応も見せない。
「上四元さん、マウスピース」
 彼女は顔に一発も貰ってはいない。洗浄の必要があるとは思えないけれど、何もしないというのも気が引ける。
 ゆっくりとこちらを向くと、僕の顔を見つめる。感情が乗っていない冷めた視線。それから逃げたい衝動に駆られていると、突然、ぱくっと口を広げた。美人の彼女はこういうコミカルな仕草も妙にしっくりくる。
 おそるおそる彼女の口からマウスピースを剥がすと、水で洗う。
「必要ないのにご苦労なことね」
 なんだか良家の奥様に仕える使用人にでもなった気分だった。
「十鳥さんにいわれたからっていちいち私に気を使わなくていいのよ」
 防戦一方の十鳥さんとは違い、パンチを無数に打ち込んでいたはずの上四元クシナは汗ひとつ掻いていなかった。空調が効いているとはいえ、ダウンした十鳥さんはけっこうな汗を流していたことを思うと、こんなところにも力量の差みたいなものが現われている気がして怖くなってくる。
 赤いコーナーポストに背中を預けて腕を伸ばして佇む様は本当にきれいで見惚れてしまう優雅さにあふれていた。腹立たしいくらいの余裕。
 洗浄の済んだ透明な樹脂をそっと口の中へはめ込むと、彼女はむとぐむぐグローブで口元を押さえながら馴染ませていた。そんな動作ですらなんともいえない色香を漂わせる。
 上四元クシナはその場で数回、飛び跳ねるとシャドーをはじめた。十鳥さんもいつでも飛び出せるとアピールするかのように両腕を後方に伸ばしてロープを掴んでいた。
 リングから降りると、第2ラウンドの鐘を打ち鳴らす。
 サービスタイムは終わった、ここからが本番とばかりに上四元クシナは十鳥さんに襲いかかった。熟達したフットワークで翻弄したかと思えば老獪なフェイントで虚を衝く。腰の捻りとウエイトのたっぷり乗った素早いパンチ――素人同然の彼女を慮っているからなのか、じっくりと楽しむつもりだからなのか、僕たち男子を相手にしたときのように本気で仕留めるつもりで放つ重い打撃ではないのは手に取るように分かった――は十鳥さんの足を何度も止め、顔面や鳩尾を容赦なく叩いた。
 一方、タイミングが掴めないのか、リングを一方的に支配している上四元クシナに飲まれているのか、十鳥さんは一向に攻撃に転じる気配がない。ただ黙って相手のパンチを受けるだけのサンドバッグ状態。やっぱり最初から無理のある試合だったのだ。
 キャンバスを擦る音は絶え間なく鳴りつづけ、その合間を縫って聞こえるのは残酷な打擲音とふたりの息づかい。
 そんな異様な音に支配された室内の空気に耐え切れなくなった僕は首から下げていたタオルをリングに放った。もうこんなことは止めにすべきだ。僕はどちらのセコンドというわけではないけれど、嬲られるだけの十鳥さんなどもう見ていたくはない。
 タオルがキャンバスに舞い落ちる途中で腕を伸ばして掴んだのは十鳥さんだった。嬉々と拳をふるっていた上四元クシナは黙ってそれを眺めている。
 僕に向かってタオルを突き出した十鳥さんは明らかに怒っていた。受け取ろうとしない僕を見つめていた彼女はタオルをロープに引っ掛けると、対戦者に向き直った。くいくいっと手のひらを上にしてかかって来いと挑発する。上四元クシナが瞳を大きく見開き、嬉々と殴りかかろうとしたのと同時、リングから飛び降りると、小槌を掴むのももどかしく思い切り鐘を殴りつけた。興を殺がれた格好の上四元クシナは不満を隠そうともせずに気色ばんだ視線を僕に投げつける。まるで本当に殴り飛ばすような激しさでもって僕を無遠慮に目だけで甚振る。
 ラウンド終了までまだ三十秒ほどあったけれど、今は構ってられない。コーナーに戻る十鳥さんに駆け寄ると口の中に指をねじ込んでマウスピースを取り出した。
「一君」
 開口一番、険相と共に放たれたその声音は僕に緊張を強いた。
「どうしてあんな真似をしたのかしら」
 タオル投入のことだろう。若干、まぶたが赤く腫れはじめていて痛々しいけれど、目は死んではいなかった。
「十鳥さんこそ、どうして突き返すようなことを」
「理不尽な真似には断固、拒否の姿勢を取らせて貰うわ」
 僕の言葉を遮ってそういい放つ十鳥さんにはどんな言動も今は通用しないのだろう。
「昔のボクシングの試合でタオル投入に納得いかなかったある選手がそれを掴んで投げ返したことがあったそうよ」
 十鳥さんはそういう文献まで熱心に読み漁ったのだろうか。こういうところにはつくづく感心する。
「そして試合は続行されたと聞くわ」 
 でもそれは厳格なルールが確立するまえの話だろうし、安全を前提に試合を運営する現代においてはあり得ないことだ。
「それとラウンド終了が早く感じられたのは気のせいではないわね」
 返答に詰まった僕を見限るみたいに、マウスピース装着を急く十鳥さんは出会った頃の、あの図書館裏での素っ気ない態度以上に頑なで他人行儀な気がした。次に機嫌を損ねるようなことをしたら、二度と口を利いてもらえなくなる緊張感が全身に嫌な汗をかかせる。
 やはり今ラウンドもパンチを浴びなかった上四元クシナもマウスピースを取り出した瞬間、不愉快そうな言動でもって僕を容赦なく責め立てた。
「ああいう舐めた真似をしたら、彼女の前にあなたをノックアウトするわよ」
 タオルと前倒しゴング、両方のことだろう。右の拳を僕の鼻先に突き出した上四元クシナは本気で怒っていた。皮革が収縮する際に発せられる、ぐぐっという何かをねじ切るような音が僕を威嚇する。
 明白な脅迫を受けながら、未だ汚れを知らないマウスピースの洗浄を終えると、上四元クシナの口へと運ぶ。怒気のみを凝縮した熱くて烈しい視線を僕に固定したままもごもごする仕草はとても愛らしいけれど、今は隠れているであろう残酷さの裏返しだと思うと、ゾッとするのも事実だった。
 ゴングを鳴らすのは躊躇われたけれど、泣いても笑ってもこれが本人たちが取り決めた最終ラウンドだ。艶かしいまでの艶と輝きを放つ金色に向かって小槌を振り下ろした。
 錐のように尖った音が静謐な室内に溶けて消える前にキャンバスを蹴ったのは意外にも十鳥さんだった。飛びかかるように上四元クシナもリングシューズを鳴らした。
 そんな勇ましい女子たちを眺めながら、さっき十鳥さんが引き合いにだした昔の試合のことを反芻していた。それなりに有名なエピソードなのか、子供の頃にテレビ、スポーツ系バラエティだったかもしれないけれど、その中で紹介されていた。そして記憶に間違いがなければ、タオルを突き返した選手はけっきょく負けたはずだ。十鳥さんはそれを知っていて引き合いにだしたのだろうか。
 ――いや、知らないわけはない。むしろ、結果がどうとかいう問題ではないんだという十鳥さんの決意表明みたいなものなのだ。自分はまだやれる、と。
 上四元クシナのフェイントを巧みに駆使したコンビネーションが十鳥さんに襲いかかる。それを膝を上手く使ったウィービングで全弾をかわした、と思った刹那、最後の一発が十鳥さんの頬からあごの辺りを掠めた。オンスが上がるに従ってグローブの容積は大きくなり対象へのダメージは軽減されることにはなるのだけれど、それは逆にいえばヒットする面積が増えるということにもなるわけで、オンスの大きさ=ダメージ緩和ということにはならないのが悩ましいところだったりする。そしてそれが仇となった。
 擦った程度の一撃は案の定、効いたようで、十鳥さんの足元は若干、ふらついているようにも見えた。倒れ込むみたいに相手の懐に潜った十鳥さんはそのまま上四元クシナに抱きついてしっかりとホールドする。意地でも離さないといった体で相手の腰にしがみつく十鳥さんは上手く身体を休めることに専念にしていた。ふうふうと荒い息づかいがリング上を支配する中、思わぬクリンチに上四元クシナは剥がしにかかるでもなく、黙ってされるがままであった。まるで甘える子供と母親の図に見えなくもない。どこか微笑ましい構図に顔がにやけてしまったのか、目が合った上四元クシナは侮蔑混じりの冷めた視線を容赦なく僕に投げかけてきた。
 どれくらい経ったのか、艶かしくも感じるその絡み合いに終止符が打たれるときがきた。十鳥さんはまるでプロレスの投げ技みたく上四元クシナの身体を放り出すと、ガードを崩した敵の顔に向けてパンチを放った。経験の差か、突然の離脱と強襲にも上四元クシナは冷静だった。十鳥さんのストレート気味の一発を弾いてカウンターを合わせてきた。見事なほどきれいなストレートを顔面に受けた十鳥さんはダウン、しなかった。まるで想定済みといわんばかりに腕ごと押し返すように十鳥さんはぐいぐいと前に身体を倒してゆく。
 信じられないものでも目の当たりにしたように上四元クシナが怯むと、ぐりゅん、と十鳥さんの顔が横に逸れた。食い込んでいた拳が外れたその瞬間、ぎゅっと十鳥さんの10オンスが鳴った。それはこの好機を待っていたかのような、低く、しかし鋭い唸り。
 赤い皮革が見せたわずかな変転のすぐあと、上体を前に運びながら十鳥さんは前方に小さくジャンプしたように見えた。
 低く鈍い打擲の音が辺りに響いたと同時に十鳥さんの拳は相手の端正な相貌に食い込んでいた。体重を乗せた重い一発。後方へ吹き飛んだ上四元クシナはロープを掴むと、体勢の立て直しもままならない状態で中腰のままキャンバスを蹴った。すでに十鳥さんが二の矢を打ち込むべく襲ってきたからだ。
 十鳥さんはカウンターによる鼻血もかまうことなく、今まで防戦一方だったのが嘘のように相手に向かってパンチをどんどん打ち込んでゆく。逆に一転して防御に専念するはめになった上四元クシナはガードを強固にして身を守るので精一杯のようだった。さっきの十鳥さんによる会心の一撃が効いているのかもしれない。
 あごの一撃狙いなのか、ガードを崩すのが目的なのか、十鳥さんは左右のショートアッパーを上四元クシナの肘辺りに執拗に打ち込み続ける。あの近距離では反撃のつもりでガードを解けばたちまち大砲の餌食になるだろう。一旦、距離を取るしかないのだけれど、十鳥さんはアッパーの連打をやめない。スポーツの経験は皆無だといっていた彼女の無酸素運動ぶりを見ていると、それは嘘だと思いたくなってくる。
 痺れを切らしたのか、上四元クシナはガードしていた腕ごと執拗に連打を浴びせてくる相手を押しやって体勢の立て直しを図ろうと試みるも、十鳥さんの動きの方が早かった。
 伸びた腕の隙間めがけて、十鳥さんが身を屈めた。上四元クシナは打ち下ろし気味の右、チョッピングライトを潜り込んできた相手に向かって放つ。
 ゴッ、と低い音がインパクトを知らせる。上四元クシナの14オンスは十鳥さんの手首、グローブのロゴが縫いつけてある辺りで止まっていた。打ち下ろしをガードをしたまま上体を右に捻ると、反動を乗せた拳を相手の顔面めがけて一気に繰り出す。十鳥さん渾身の右はそのまま目標を捉えたと思った。しかし上四元クシナのスウェーの方がわずかに早く反応し、着弾が叶わなかった十鳥さんの右はむなしく伸び切ったまま、動きを止めていた。
 上四元クシナにとっては絶好のチャンス、一方で十鳥さんは観念したはずだった。それは見ていた僕も同じ。しかし、赤コーナーの王者はこの好機をいとも簡単に捨ててなぜか攻撃には転じず、唐突に挑戦者に抱きついた。クリンチではなく、ハグ、どう見ても抱擁だ。
 突然の奇行――といっても差し支えないだろう――に十鳥さんが困惑しているのは手に取るように分かった。身体を密着、というか擦り合せるようにしながら傍からみても痛そうに感じられるくらいの強度で抱きすくめている。ただでさえブルマとフリル付きレオタードという格好に加えて、この状況はすごく官能的でそして滑稽でもあった。
 慮外の合体をしたままコーナーポストにぶつかったふたりは、おそらくは上四元クシナの主導の元、ゆるやかにキャンバスに十鳥さんを押し倒す格好で倒れ込んだ。
 時間が止まった。そのとき、そう感じたのはきっと僕だけではなかったと思う。
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