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第3章
第50話 懐かしいキス
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久しぶりに訪れた寮は、名津がいたときとあわり変わっていなかった。すでに別の学生が入室しているようで、名津がいた場所には見知らぬ雑貨などが置いてあった。
井沢には、ルークをベッドに寝かせて部屋を出て行ってもらった。発情しているオメガから離れれば、井沢は問題ないだろう。だがルークは相変わらず苦しそうに呼吸しており、早めに抑制剤を飲ませてやらないとさらに状態が悪化しそうだ。
ルークには悪いが、勝手にバッグを開けさせてもらうことにした。しかしバッグの前ポケットに抑制剤を見つけたので、メインの収納部を漁らずに済んだ。やはり自分のものとは種類が異なるようだが、見たことがある薬だった。
すぐにルークを少し起こして、その抑制剤と水を飲ませた。これで一安心だ。しばらくすればルークは落ち着くだろう。
ほっとすると同時に、ルークが噛んだ傷痕が脳裏を捩った。
ルークはオメガだった。オメガ同士で番になることなんて、あるのだろうか。
「んっ……」
「ルーク、大丈夫か?」
先ほどまで赤らんでいた頬も、以前のような白さに戻っている。呼吸も落ち着いているようだ。
「リオ……」
「よかった。薬が効いているみたいだな。寮の前で倒れたから、井沢に部屋まで運んでもらった」
「……ありが、とう」
そう言うと、ルークはそのまま黙って天井を見つめていた。
しばらくして、ルークは「んっ」と声を上げながら上半身を起こした。まだ身体が重いのか、動きは鈍い。
ルークは、そのまま俺の顔面に顔を近づけてきた。
「なっ、なんだ?!」
まだ薄らと赤みを帯びた肌を間近で見ると、彼に対して何の感情もないものの、ドキッとしてしまった。
「首の裏、見せて欲しい」
ルークからこの話題を出してくるとは思わず、心臓が驚いたかのように跳ねた。
いろいろと言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、今は黙って傷ついた首裏を見せることにした。
振り向いてルークに背中を向け、少し首を下げた。
「……」
首から背中にかけて視線を感じる。ルークは黙って、その噛み痕を見つめるだけだ。
数秒かもしれないが、数分かもしれない。とにかく静まり返った時間が流れた。気づくと、じんわりと熱いルークの指先が首筋を撫でていた。そしてそのまま、ルークが唐突に話し始めた。
「僕、本当はリオのこと、ずっと前から知ってた」
「……あの、事件で?」
「うん。まさかこんなところで会うなんて、本当にびっくり」
「それは、そうだな…」
ルークは井沢から聞いたのではなく、あくまでもネットニュースで、俺の存在や俺がオメガだということも知ったらしい。井沢がルークに教えたのではないかと勘繰り、責めてしまったことを後悔した。
ルークがサイドテーブル上にあったペットボトルを手に取り、口に含んだようだ。背後から、ペチャッと水が揺れる音が聞こえる。
「僕は、自分がオメガだということを、隠してきた。それはとても大変なことだった」
「そうだよな、大変だと思う」
ルークの苦労は計り知れない。スポーツ選手の中にはアルファが多いため、自身がオメガであることへの劣等感や緊張感があっただろう。発情期があるオメガがスポーツで成績を残すためには、想像を絶する刻苦があったに違いない。
「僕はいつも1人ぼっち。そう思っていたときにリオを知った。同い年のオメガ。僕の励みになった」
あの事件以来、俺はインターネット上に本名や写真を晒され、世間から批判された。逃げるようにアメリカへ留学したが、俺の存在がルークの『励み』になっていたのだとしたら、あの時の自分が少しは救われたような気がした。
「そう思ってくれていたなら、なぜこんなことをしたんだ。ますます理解できないが…」
“I’m different from you”(僕と君は違う)
ルークの刺すような視線を浴びて、身体が動かなくなった。
「家族、友人、恋人からも愛されて、守られて。僕とどこが一緒?」
「確かに周囲の人には恵まれていると思うが……だからといって、なぜ噛まれなければならないんだ」
「……」
ルークは口をつぐんで、俺の目を凝視している。ルークの薄翠色の眸子が、台風が過ぎ去った後の川底のように澱んで見える。その奥には、俺が知ることのできない暗闇があるような気がした。
「……もう、いいよ。ルークが噛んだことをなかったことにはできないが、忘れることにする。……俺が言っていること、伝わっているか?」
ルークに甘えてずっと日本語で話し続けてきたが、話が込み入ってきた。流石に英語を話そうとしたとき、ルークが何かを発した。
「え?悪い、聞き取れなかった。今なんて言った?」
「僕は、ナツが好きだ」
はっと息を飲み込んだまま、吐き出せなくなってしまった。そのとき俺はなぜか、高校の体育の授業を思い出していた。井沢にバスケットボールを頭に当てられて、倒れたことがあった。ルークの言葉は、そのときの衝撃を思い出すほどの破壊力があった。
「でもナツは、リオのことしか見ていない。僕の気持ちなんて、一生伝わらない。だから……」
「だから俺を噛んだっていうのか!?」
そう叫びながら、いつの間にかルークの胸倉を掴んで、ベッドに押し倒していた。
ルークは、名津よりは線が細いとはいえ、俺よりは遥かにがたいがいい。俺の力む両手なんて、簡単に振り払うことができるだろう。
だがルークは、全てを受け入れたかのように微動だにしない。
「やり方が汚いだろう!こんなことをしても、名津の気持ちは変わらないはずだ」
そう言いながらも、いまいち自信を持てていない自分がいる。番になれなかった俺と名津に、未来はあるのだろうか。
「そんなこと、分かってる。でも、リオのこと羨ましかった。名津に、僕を見て欲しかった……ごめん、なさい……」
消え入るような声だが、しかしはっきりと聞き取れた。ルークは、俺と番になりたかったわけではない。名津を誰にも渡したくなくて、俺の首裏を狙ったんだ。
「でも、オメガとオメガじゃ、番にならないはずなのに……」
ルークが不安そうに俺の首辺りを見つめている。
そうだ、オメガ同士が番になるなど、聞いたことがない。またルークが噛んだときに性交をしていないことや、噛まれた後に俺が名津に対して発情していることも考慮すると、番が成立していないと考えるのが自然だ。だがルークの噛み痕は未だに消えない。これは何を意味しているのだろう。
「俺とルークは番にはなっていないと思う。ただ、噛み痕が消えない以上、何らかの関係になったのは間違いないと思う」
「なんらかの……関係?」
「研究資料をあたってみるが……」
自分で言っておきながら、この関係性に全く心当たりがない。
「ねえ……キス、してみない?」
「え……?」
ルークの口から「キス」という言葉が出てきた途端、心臓が激しく動き始めた。ルークの薄翠色の眸は、揺らぐことなくこちらを真っ直ぐ見つめている。
「その、『なんらかのかんけい』なら、キスしたら何か起きるかも」
ルークの言うことも一理ある。触れ合えば、何か起こるかもしれない。いやしかし、それで俺が発情してしまったら一体どうなってしまうのか、想像しただけで恐ろしい。
恐ろしいが、確かめてみたい気持ちも湧き上がってきている。それに何故だか自身の前も起き上がり始めている。
「じゃ、じゃあ……1回だけ……」
いや俺は何を言っているのだろうか。発情していないのに、抑えることができない何かが俺を支配し始めている。
頬にそっと触れたルークの手は、名津のそれよりは少し華奢で、冷たかった。目を閉じながらルークが近づいてくる。もうこれ以上目を開けていられず、自身の瞼も下げた。
やや間があって、唇に生温かな感触があった。鼓動だけが鼓膜を振るわせ、他の音が何も聞こえない。緊張が最高潮に達しているが、自身の前は落ち着き始めている。
10秒、いや20秒ほど経っただろうか。その控えめな口付けを感じている間、高校入学時に見た校庭の桜の花びらが、眸子の奥で舞っていた。懐かしくて、戻りたくて、どうしようもなく切なくなった。
気づいたら、頬を温かい雫が伝っていた。
何とも表現し難い感情に浸っていたそのとき、「ドンッ」と左耳を打ち付ける衝撃音に驚いて目を開けた。
「……何してんの、りょう」
濡れた頬を冷やす風が、出入り口の扉から入ってくる。そこには、井沢と名津が立っていた。
井沢には、ルークをベッドに寝かせて部屋を出て行ってもらった。発情しているオメガから離れれば、井沢は問題ないだろう。だがルークは相変わらず苦しそうに呼吸しており、早めに抑制剤を飲ませてやらないとさらに状態が悪化しそうだ。
ルークには悪いが、勝手にバッグを開けさせてもらうことにした。しかしバッグの前ポケットに抑制剤を見つけたので、メインの収納部を漁らずに済んだ。やはり自分のものとは種類が異なるようだが、見たことがある薬だった。
すぐにルークを少し起こして、その抑制剤と水を飲ませた。これで一安心だ。しばらくすればルークは落ち着くだろう。
ほっとすると同時に、ルークが噛んだ傷痕が脳裏を捩った。
ルークはオメガだった。オメガ同士で番になることなんて、あるのだろうか。
「んっ……」
「ルーク、大丈夫か?」
先ほどまで赤らんでいた頬も、以前のような白さに戻っている。呼吸も落ち着いているようだ。
「リオ……」
「よかった。薬が効いているみたいだな。寮の前で倒れたから、井沢に部屋まで運んでもらった」
「……ありが、とう」
そう言うと、ルークはそのまま黙って天井を見つめていた。
しばらくして、ルークは「んっ」と声を上げながら上半身を起こした。まだ身体が重いのか、動きは鈍い。
ルークは、そのまま俺の顔面に顔を近づけてきた。
「なっ、なんだ?!」
まだ薄らと赤みを帯びた肌を間近で見ると、彼に対して何の感情もないものの、ドキッとしてしまった。
「首の裏、見せて欲しい」
ルークからこの話題を出してくるとは思わず、心臓が驚いたかのように跳ねた。
いろいろと言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、今は黙って傷ついた首裏を見せることにした。
振り向いてルークに背中を向け、少し首を下げた。
「……」
首から背中にかけて視線を感じる。ルークは黙って、その噛み痕を見つめるだけだ。
数秒かもしれないが、数分かもしれない。とにかく静まり返った時間が流れた。気づくと、じんわりと熱いルークの指先が首筋を撫でていた。そしてそのまま、ルークが唐突に話し始めた。
「僕、本当はリオのこと、ずっと前から知ってた」
「……あの、事件で?」
「うん。まさかこんなところで会うなんて、本当にびっくり」
「それは、そうだな…」
ルークは井沢から聞いたのではなく、あくまでもネットニュースで、俺の存在や俺がオメガだということも知ったらしい。井沢がルークに教えたのではないかと勘繰り、責めてしまったことを後悔した。
ルークがサイドテーブル上にあったペットボトルを手に取り、口に含んだようだ。背後から、ペチャッと水が揺れる音が聞こえる。
「僕は、自分がオメガだということを、隠してきた。それはとても大変なことだった」
「そうだよな、大変だと思う」
ルークの苦労は計り知れない。スポーツ選手の中にはアルファが多いため、自身がオメガであることへの劣等感や緊張感があっただろう。発情期があるオメガがスポーツで成績を残すためには、想像を絶する刻苦があったに違いない。
「僕はいつも1人ぼっち。そう思っていたときにリオを知った。同い年のオメガ。僕の励みになった」
あの事件以来、俺はインターネット上に本名や写真を晒され、世間から批判された。逃げるようにアメリカへ留学したが、俺の存在がルークの『励み』になっていたのだとしたら、あの時の自分が少しは救われたような気がした。
「そう思ってくれていたなら、なぜこんなことをしたんだ。ますます理解できないが…」
“I’m different from you”(僕と君は違う)
ルークの刺すような視線を浴びて、身体が動かなくなった。
「家族、友人、恋人からも愛されて、守られて。僕とどこが一緒?」
「確かに周囲の人には恵まれていると思うが……だからといって、なぜ噛まれなければならないんだ」
「……」
ルークは口をつぐんで、俺の目を凝視している。ルークの薄翠色の眸子が、台風が過ぎ去った後の川底のように澱んで見える。その奥には、俺が知ることのできない暗闇があるような気がした。
「……もう、いいよ。ルークが噛んだことをなかったことにはできないが、忘れることにする。……俺が言っていること、伝わっているか?」
ルークに甘えてずっと日本語で話し続けてきたが、話が込み入ってきた。流石に英語を話そうとしたとき、ルークが何かを発した。
「え?悪い、聞き取れなかった。今なんて言った?」
「僕は、ナツが好きだ」
はっと息を飲み込んだまま、吐き出せなくなってしまった。そのとき俺はなぜか、高校の体育の授業を思い出していた。井沢にバスケットボールを頭に当てられて、倒れたことがあった。ルークの言葉は、そのときの衝撃を思い出すほどの破壊力があった。
「でもナツは、リオのことしか見ていない。僕の気持ちなんて、一生伝わらない。だから……」
「だから俺を噛んだっていうのか!?」
そう叫びながら、いつの間にかルークの胸倉を掴んで、ベッドに押し倒していた。
ルークは、名津よりは線が細いとはいえ、俺よりは遥かにがたいがいい。俺の力む両手なんて、簡単に振り払うことができるだろう。
だがルークは、全てを受け入れたかのように微動だにしない。
「やり方が汚いだろう!こんなことをしても、名津の気持ちは変わらないはずだ」
そう言いながらも、いまいち自信を持てていない自分がいる。番になれなかった俺と名津に、未来はあるのだろうか。
「そんなこと、分かってる。でも、リオのこと羨ましかった。名津に、僕を見て欲しかった……ごめん、なさい……」
消え入るような声だが、しかしはっきりと聞き取れた。ルークは、俺と番になりたかったわけではない。名津を誰にも渡したくなくて、俺の首裏を狙ったんだ。
「でも、オメガとオメガじゃ、番にならないはずなのに……」
ルークが不安そうに俺の首辺りを見つめている。
そうだ、オメガ同士が番になるなど、聞いたことがない。またルークが噛んだときに性交をしていないことや、噛まれた後に俺が名津に対して発情していることも考慮すると、番が成立していないと考えるのが自然だ。だがルークの噛み痕は未だに消えない。これは何を意味しているのだろう。
「俺とルークは番にはなっていないと思う。ただ、噛み痕が消えない以上、何らかの関係になったのは間違いないと思う」
「なんらかの……関係?」
「研究資料をあたってみるが……」
自分で言っておきながら、この関係性に全く心当たりがない。
「ねえ……キス、してみない?」
「え……?」
ルークの口から「キス」という言葉が出てきた途端、心臓が激しく動き始めた。ルークの薄翠色の眸は、揺らぐことなくこちらを真っ直ぐ見つめている。
「その、『なんらかのかんけい』なら、キスしたら何か起きるかも」
ルークの言うことも一理ある。触れ合えば、何か起こるかもしれない。いやしかし、それで俺が発情してしまったら一体どうなってしまうのか、想像しただけで恐ろしい。
恐ろしいが、確かめてみたい気持ちも湧き上がってきている。それに何故だか自身の前も起き上がり始めている。
「じゃ、じゃあ……1回だけ……」
いや俺は何を言っているのだろうか。発情していないのに、抑えることができない何かが俺を支配し始めている。
頬にそっと触れたルークの手は、名津のそれよりは少し華奢で、冷たかった。目を閉じながらルークが近づいてくる。もうこれ以上目を開けていられず、自身の瞼も下げた。
やや間があって、唇に生温かな感触があった。鼓動だけが鼓膜を振るわせ、他の音が何も聞こえない。緊張が最高潮に達しているが、自身の前は落ち着き始めている。
10秒、いや20秒ほど経っただろうか。その控えめな口付けを感じている間、高校入学時に見た校庭の桜の花びらが、眸子の奥で舞っていた。懐かしくて、戻りたくて、どうしようもなく切なくなった。
気づいたら、頬を温かい雫が伝っていた。
何とも表現し難い感情に浸っていたそのとき、「ドンッ」と左耳を打ち付ける衝撃音に驚いて目を開けた。
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