オメガ学級委員長はド変態

明帆

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第3章

第52話 帰郷

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 久し振りの郷里は居心地が良いものの、真新しいスーツに着られて、身も心もぎこちない。
「りょう、写真撮ろ!」
「写真って…いいよ、撮らなくて」
「そんなこと言わない!ほら、武もこっち来て」

 実家の前で家族3人、肩を並べて写真を撮った。事ある毎にカメラと三脚を持ってくる優心は、今も変わらない。

 今日は俺の入社式だ。俺は日本の企業に就職した。シアトルで働くことも考えたが、ここ数年、少子化対策としてオメガ研究が進み、国内でも自分のやりたいことができる環境が整ったと感じたからだ。

 ……いや、その理由は建前だ。シアトルで1人、踏ん張って生きることに疲れてしまった。思った以上に早く武に辞令が下り、名津と別れた直後に両親は日本へ帰国した。

 名津も両親も一気に失い、俺は潰された空き缶のように、もう二度と立ち上がることができないほど憔悴した。そんな日々の中でも、研究だけが心の支えとなり、考究に心血を注ぐ数年を過ごした。

「よしっ!写真も撮ったし、スーツも……完璧!」
 優心は、不恰好に結ばれた俺のネクタイを整えながら胸を叩き、俺の緊張を解きほぐしてくれた。
「りょうもとうとう社会人か」
 ぐしゃっと笑う武の顔に、いつも俺は励まされてきた。多くを語らない武の優しさに、何度救われたか分からない。

 研究に集中していたこともあり、論文は一定の評価を得た。そのため、現地での就職も可能ではあったと思う。しかし優心に「帰っておいで」と言ってもらえた瞬間、全身の力が抜けてしまった。そして俺は帰郷を決めた。
 
「行ってきます」
 遅咲きの桜が散って、最寄駅までの道を薄紅色が埋め尽くしている。シアトルへ留学してからも、何度か日本に帰ってきていたので、特にこれといった特別な感情は湧き起こらない。ただ、日本の桜を見たのは非常に久しぶりで、感慨深い。

 少し肌寒く、薄手のコートを羽織ってちょうど良いくらいの気温だ。帰りは冷えるかもしれない。ぶるっと身震いし、首元を冷やさないように襟を立てた。

 ルークの噛み跡は、もうほとんど残っていなかった。凝視すれば薄らと分かるものの、一見したら何もなかったかのようだ。

 俺とルークの関係は発展しなかった。互いに発情期の乱れは起こらず、もちろん番にもならなかった。オメガに関するさまざまな文献をあたったが、オメガがオメガの首筋を噛んだ例を見つけることはできなかった。

 仕立て下ろしのスーツや制服に身を包んだ人々に流されるように、電車に乗って本社へ向かう。シアトルでは車移動が多く、こんなに長く人混みの中にいることはなかった。高校生のときは何の気無しに満員電車に揺られて通学していたのに、今はたった数分で気分が悪くなる。

 本社は都内一等地に聳え立っている。ビルの入り口には警備員が配備されていて、各自割り振られたICカードがないと入館することができない。粛然とした空気に圧倒される。

 俺は事前に配られたICカードを手に、建物内へ入って行った。入社式は1階で執り行われる。俺と同じようなぱりっとしたスーツに身を包み、周囲を伺うように見回す同年代の男女がすぐに目に付いた。

 係の案内に従って扉の奥に入ると、舞台が設置された大広間が広がっていた。何百ものパイプ椅子が並べられており、その1つに座るように促され、手近な椅子に着席した。視線の先には舞台上の吊り看板、『佐野製薬入社式』とある。

 俺は佐野名津の一族が経営する製薬会社に入社した。日本一の研究施設を持つ佐野製薬は、抑制剤の研究にも力を入れている。俺のやりたいことができる憧れの場所だ。

 佐野製薬に入社したことで、名津とよりを戻せるとは考えていない。むしろ名津の存在が、佐野製薬への入社を躊躇う要因の一つになっていた。だが、せっかく内定を貰えたのだから、自分のやりたいことができそうな会社へ入社することを決めた。それに、名津は全く会社経営に携わっていないだろうから、再び会うことなどないだろうと考えた。

 ざわついた会場が、しんと静まり返った。舞台上に、司会と思しき男性が登場した。
「一同、ご起立願います。ただいまより令和3年度の入社式を執り行います。一同、礼」
 会場の空気が張り詰め、参加者の緊張と熱気が伝わってくる。すぐに会社役員が登場し、さらに空気が引き締まった。

「佐野千秋社長より、ご挨拶をいただきます。新入社員、起立」
 佐野千秋社長、名津の父親が演台の前に立っている。ここにいる人の視線全てが、そこに集まっている感覚がある。
 やはり名津と同じように背が高く、顔立ちがはっきりしている。名津が歳を取ったら、こんな感じになるのかもしれない。

 佐野製薬に入社したことと、名津のことは関係ないと思ってはいても、ここにいると自然と名津を思い出してしまう。バスケをする真剣な姿や、俺へ見せてくれた柔らかな笑顔、全てが昨日見たかのように記憶からこぼれ落ちてきた。

 優心が締め直してくれたネクタイを、握りしめた。俺はここへきてよかったのだろうか。じわじわと後悔に襲われ始めた。

 式典はあっという間に終わり、配属先ごとに別室へ案内された。研究職はそれほど多くないようで、40人前後が同じ部屋へ入室した。

 収容人数50人程度の会議室に、長方形の机が左右に数十台置かれている。俺はちょうど中央辺りに着席した。同じテーブルに2人座るように椅子が配置されている。
「隣だね、よろしく」
 年は同じくらいだろう。紺色のスーツを身につけた男性が、俺と同じテーブルに居た。俺に向けられたその笑顔も、全てが名津に似ているように見えてしまう。
「あ、ああ……よろしく」
 人事部の先輩社員が前に出て、これから始まる研修について説明を始めた。

 そうだ、ここからが本当の意味でのスタートだ。やっとお金を稼いで、両親にも恩返しができる。また研究を通して、同じオメガの人の役に立てるかもしれない。社会人として頑張っていかなければならない。

 名津のことは、今まで通り考えないで生きていこう。
「……それではここで、東京研究所・所長の佐野悠(はる)さんにご挨拶を頂戴致します」

 配られた資料から顔を上げると、今し方見た社長よりもさらに名津にそっくりな人が目の前に立っていた。名津の兄だ。

 昔会ったことがある。あの事件の直後、俺のところに来た人だ。

「皆さん、入社おめでとうございます」
 自信に満ちた破顔が、試合中の名津を彷彿とさせる。名津と兄弟なのだから、似ているのは当たり前かもしれない。ただその微笑には、名津のような朗らかさは感じられず、少し神経質なものが混じっているような気がした。

 それでもその顔、声、仕草を感じ続けていると、ふたをしていた名津への思いが一気に溢れ出てきそうになる。朝から緊張し続けていた身体には刺激的で、この感情を上手くコントロールできる自信がない。

 音を立てないように足元のバッグへ手を伸ばし、常備していた抑制剤を取り出してポケットへしまった。この話が終わったら、少し離席して薬を飲もう。発情の兆候はないが、念には念を入れて飲んでおこう。

「……これから一緒に、頑張っていきましょう。改めて、入社おめでとうございます」
 拍手で埋まる会議室をそそくさと後にし、手洗い場へ急いだ。会議室の扉を閉めると、しんとした空気が流れてきてほっとした。

 良かった、何事もなく会議室を出ることができた。これで抑制剤を飲めれば一安心だ。

「おい、どこへ行く?」
「えっ」
 振り返ると、先ほどまで演台で話していた名津の兄、悠所長が廊下に居た。近くで見ると、やはり名津によく似ていた。
「向原りょうくんだろう。どうしたんだ、急に」
 俺の顔を覗き込む所長の眸子は、やはり名津のそれではない。目元にある優しさがそこにはなく、切れ長の眸子には鋭さがあった。
「すみません、薬を飲みたくてお手洗いに…」
「なんだ、体調が悪いのか。なら、休憩室を使うと良い」
 所長は迷うことなく振り返り、通路を歩き出した。
「えっ……いや、そこまで体調が悪いわけではないので、大丈夫です」
「いや、こういうのは早めに対処しておいた方が良いんだ」
「はあ……」

 少し離席するだけのつもりが、休憩室に行ってしまうと大事になってしまうのではないかと心配したが、所長の進言を無為にすることはできない。

 所長は廊下で繋がった別棟へ入っていき、ふいにある扉の前で止まった。部屋の表札には『休憩・仮眠室』とあり、入室すると、まるで漫画喫茶のように小部屋が何戸か連なっていた。
 所長はその中の1つの扉をノックし、返事がないことを確認して静かに戸を開けた。
「落ち着くまで、ここで休むと良い。人事には僕の方から伝えておく」
 と小声で、俺の入室を促した。

 中を覗くと、ベッドと人1人が座れるだけのスペースが確保されていた。一度、ユイの付き添いで入ったことがある漫画喫茶よりは、少し広く感じた。
「お気遣いありがとうございます」
「……じゃあ」

 そう言い残すとすぐに、その場を後にした。所長はいつも何かに急かされているかのように、素早く動く人なのかもしれない。そういえば、名津がバスケ以外でキビキビと動いているのを見た記憶がない。やはり兄弟でも違う個体なのだと感じる。

 ベッドを見たら気が抜けて、スーツのまま横になった。目を瞑ると、高校生の名津、大学生の名津、バスケをする名津、さまざまな名津の姿が鮮明に目の前に広がった。

 別れてからしばらくは立ち直れなかったが、研究に打ち込み始めてからは、全くといって良いほど名津を思い出すことはなかった。バスケのニュースが目に入ることもあったが、すぐに視線を逸らし、目の前のことに集中できた。

 だから、佐野製薬に入社しても問題ないと思っていたが、そうではないようだ。悠所長を目の前にすると、記憶の中の名津が蘇ってしまう。

 瞑る眸子から、自然と涙が溢れた。早く会議室に戻らなければならないことは分かっているのだが、瞼が重くなり、そのまま目を閉じて眠ってしまった。
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