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第一章
毒入りチョコは、恋の味がする。(後編)
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「……残酷なこと、だと?」
累(るい)が、私の顔を覗き込む。至近距離にあるその瞳は、凍てつくような冷たさを保ちながらも、獲物を追い詰める猛禽類のような鋭い知性を宿していた。
私は、喉の奥にこびりつく、どろりとした不快なえぐみを堪えながら言葉を紡いだ。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が総毛立つ。これが、犯人がチョコに込めた「味」なのだ。
「この味は、純粋な『殺意』なんかじゃない。もっと重くて、粘りつくような執着……そう、誰の手にも渡したくないという狂気的な『独占欲』。そして、その裏側に張り付いている、泣きたくなるほど強くて暗い『後悔』の味がするんです。犯人は、佐藤さんを殺したいわけじゃない。ただ、彼を誰の手にも届かない場所へ引きずり込んで、壊してしまいたいだけ……」
依頼人の女性――佐藤夫人は、あまりの衝撃に膝をつき、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「そんな……。主人の周りに、そんなに深く彼を想う人がいるなんて。私たちは、誰もが羨むおしどり夫婦だと思っていたのに」
累はふんと鼻を鳴らし、割れたショコラの断面をルーペで観察し始めた。銀色のピンセットを操るその指先は、外科医のように正確で、一切の迷いがない。
「千果(ちか)。お前が感じた『後悔』の味。それは単なる抽象概念じゃない。物質としての正体があるはずだ」
彼はカウンターの下から、使い込まれた一冊のレシピノートを取り出した。それは、この店に代々伝わる禁断の調合録でもあった。
「佐藤さん。旦那さんは最近、特定の香水、あるいは花の匂いをさせて帰宅したことはありませんでしたか? 記憶の底を浚ってみろ」
「ええ、確かに……」
夫人は震える声で答えた。
「一度だけ、雨の日に帰ってきた主人の上着から、少し古風な、鼻を突くような沈丁花(じんちょうげ)の香りがしたことがありました。私はてっきり、年配の取引先の方と会っていたのかと……」
「やはりな。沈丁花じゃない、それは『そのように似せて調合された毒』の残り香だ」
累は、ピンセットでチョコのガナッシュの中から、目に見えないほど小さな「乾燥した破片」を取り出した。それは、金箔の輝きに紛れて付着していた、押し花のような花びらの一部だった。
「これは一般的な毒物じゃない。トリカブトの根を微量、独自の製法でアルコールに溶かし込み、カカオの脂質に馴染ませたものだ。一粒食ったところで死ぬことはないが、激しい動悸と手足の痺れ、そして死への恐怖に似たパニックを引き起こす。……だが、犯人の最大の誤算は、このショコラの繊細さを、そして僕の店の従業員の舌を甘く見ていたことだ」
累は夫人に、冷ややかな、けれど容赦のない真実を射抜く視線を向けた。
「犯人は、旦那さんの行きずりの愛人などではない。――三年前まで、この店で僕の背中を追っていた元弟子だ。彼女は才能があったが、ある日突然店を去った。旦那さんとの不倫に溺れ、身を引くことを強要されたからだ。だが、旦那さんは彼女を捨て、元の鞘に収まった。……このチョコは、彼女が自分自身の存在を、旦那さんの脳髄に永遠に刻みつけるための『呪い』だ」
「呪い……?」
私が聞き返すと、累は静かに、しかし重々しく頷いた。
「トリカブトの花言葉を知っているか? 『復讐』、そして『騎士道』だ。彼女は自分を裏切った男を罰すると同時に、自分という女がかつて隣にいた証を、痛みと共に一生残そうとした。千果、お前が感じた後悔は、彼女自身が愛を選び、人生を狂わせたことへの魂の叫びだったんだ」
店内は静まり返り、冷房の音だけが虚しく響いた。夫人は、崩れそうな手でショコラの箱をそっと閉じた。その手はもう震えていなかった。
「……主人がこの箱を隠していたのは、彼女を愛していたからではなく、彼女の執念が、いつか自分を壊すことを予感して怯えていたからなのですね」
「真実はいつも、甘いオブラートに包まれているとは限らない。……帰って旦那さんに伝えるんだな。このチョコの味は、あんたが一生かけて償うべき、消えない傷の味だ、と」
夫人が、幽霊のような足取りで店を去った後、店内には再び静寂が訪れた。夕暮れの光が窓から差し込み、店内の銅製の器具を赤く染め上げている。
私は緊張の糸が切れたようにカウンターに突っ伏し、まだ痺れが残る舌先を必死にさすった。
「……累さん。犯人がお弟子さんだって、いつからわかってたんですか?」
「最初に箱を開けた瞬間だ。あのリボンの結び方は、僕が教えた癖が抜けていなかった。……まったく、教えた通りにやるべきなのは菓子の作り方であって、復讐の作法じゃない」
累はぶっきらぼうに吐き捨てると、銀色のトレイに乗った小さなクリスタルグラスを私の前に置いた。中には、温かいミルクに一滴の琥珀色の液体、そして微かなスパイスの香りが漂う飲み物が入っている。
「飲め。毒で馬鹿になった舌を洗え」
「これ……」
一口飲むと、さっきまでの喉を焼くような憎悪の苦みが、魔法のように溶けて消えていった。代わりに広がったのは、優しくて、どこか懐かしい、陽だまりの中で包まれているような深い甘さ。
「……あ。累さん、これ『心配』の味がします。すごく温かくて、千果、頑張ったな、って言われてるみたいな……」
「……黙れ、千果。ただの余った試作品だ。変な妄想を味覚に変換するな、これだから素人は困る」
累はぷいと顔を背け、忙しそうに大理石の台の上でチョコのテンパリングを始めた。ヘラが刻む規則正しい音。けれど、その白いコックコートから覗く耳たぶが、夕日のせいだけではなく、ほんの少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
毒入りチョコから始まった、私たちの奇妙な関係。
ショコラ・ド・ホームズの推理は、まだ始まったばかりだ。
次に店を訪れるのは、どんな「甘くて苦い」謎なのだろうか。
(第一章・完)
累(るい)が、私の顔を覗き込む。至近距離にあるその瞳は、凍てつくような冷たさを保ちながらも、獲物を追い詰める猛禽類のような鋭い知性を宿していた。
私は、喉の奥にこびりつく、どろりとした不快なえぐみを堪えながら言葉を紡いだ。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が総毛立つ。これが、犯人がチョコに込めた「味」なのだ。
「この味は、純粋な『殺意』なんかじゃない。もっと重くて、粘りつくような執着……そう、誰の手にも渡したくないという狂気的な『独占欲』。そして、その裏側に張り付いている、泣きたくなるほど強くて暗い『後悔』の味がするんです。犯人は、佐藤さんを殺したいわけじゃない。ただ、彼を誰の手にも届かない場所へ引きずり込んで、壊してしまいたいだけ……」
依頼人の女性――佐藤夫人は、あまりの衝撃に膝をつき、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「そんな……。主人の周りに、そんなに深く彼を想う人がいるなんて。私たちは、誰もが羨むおしどり夫婦だと思っていたのに」
累はふんと鼻を鳴らし、割れたショコラの断面をルーペで観察し始めた。銀色のピンセットを操るその指先は、外科医のように正確で、一切の迷いがない。
「千果(ちか)。お前が感じた『後悔』の味。それは単なる抽象概念じゃない。物質としての正体があるはずだ」
彼はカウンターの下から、使い込まれた一冊のレシピノートを取り出した。それは、この店に代々伝わる禁断の調合録でもあった。
「佐藤さん。旦那さんは最近、特定の香水、あるいは花の匂いをさせて帰宅したことはありませんでしたか? 記憶の底を浚ってみろ」
「ええ、確かに……」
夫人は震える声で答えた。
「一度だけ、雨の日に帰ってきた主人の上着から、少し古風な、鼻を突くような沈丁花(じんちょうげ)の香りがしたことがありました。私はてっきり、年配の取引先の方と会っていたのかと……」
「やはりな。沈丁花じゃない、それは『そのように似せて調合された毒』の残り香だ」
累は、ピンセットでチョコのガナッシュの中から、目に見えないほど小さな「乾燥した破片」を取り出した。それは、金箔の輝きに紛れて付着していた、押し花のような花びらの一部だった。
「これは一般的な毒物じゃない。トリカブトの根を微量、独自の製法でアルコールに溶かし込み、カカオの脂質に馴染ませたものだ。一粒食ったところで死ぬことはないが、激しい動悸と手足の痺れ、そして死への恐怖に似たパニックを引き起こす。……だが、犯人の最大の誤算は、このショコラの繊細さを、そして僕の店の従業員の舌を甘く見ていたことだ」
累は夫人に、冷ややかな、けれど容赦のない真実を射抜く視線を向けた。
「犯人は、旦那さんの行きずりの愛人などではない。――三年前まで、この店で僕の背中を追っていた元弟子だ。彼女は才能があったが、ある日突然店を去った。旦那さんとの不倫に溺れ、身を引くことを強要されたからだ。だが、旦那さんは彼女を捨て、元の鞘に収まった。……このチョコは、彼女が自分自身の存在を、旦那さんの脳髄に永遠に刻みつけるための『呪い』だ」
「呪い……?」
私が聞き返すと、累は静かに、しかし重々しく頷いた。
「トリカブトの花言葉を知っているか? 『復讐』、そして『騎士道』だ。彼女は自分を裏切った男を罰すると同時に、自分という女がかつて隣にいた証を、痛みと共に一生残そうとした。千果、お前が感じた後悔は、彼女自身が愛を選び、人生を狂わせたことへの魂の叫びだったんだ」
店内は静まり返り、冷房の音だけが虚しく響いた。夫人は、崩れそうな手でショコラの箱をそっと閉じた。その手はもう震えていなかった。
「……主人がこの箱を隠していたのは、彼女を愛していたからではなく、彼女の執念が、いつか自分を壊すことを予感して怯えていたからなのですね」
「真実はいつも、甘いオブラートに包まれているとは限らない。……帰って旦那さんに伝えるんだな。このチョコの味は、あんたが一生かけて償うべき、消えない傷の味だ、と」
夫人が、幽霊のような足取りで店を去った後、店内には再び静寂が訪れた。夕暮れの光が窓から差し込み、店内の銅製の器具を赤く染め上げている。
私は緊張の糸が切れたようにカウンターに突っ伏し、まだ痺れが残る舌先を必死にさすった。
「……累さん。犯人がお弟子さんだって、いつからわかってたんですか?」
「最初に箱を開けた瞬間だ。あのリボンの結び方は、僕が教えた癖が抜けていなかった。……まったく、教えた通りにやるべきなのは菓子の作り方であって、復讐の作法じゃない」
累はぶっきらぼうに吐き捨てると、銀色のトレイに乗った小さなクリスタルグラスを私の前に置いた。中には、温かいミルクに一滴の琥珀色の液体、そして微かなスパイスの香りが漂う飲み物が入っている。
「飲め。毒で馬鹿になった舌を洗え」
「これ……」
一口飲むと、さっきまでの喉を焼くような憎悪の苦みが、魔法のように溶けて消えていった。代わりに広がったのは、優しくて、どこか懐かしい、陽だまりの中で包まれているような深い甘さ。
「……あ。累さん、これ『心配』の味がします。すごく温かくて、千果、頑張ったな、って言われてるみたいな……」
「……黙れ、千果。ただの余った試作品だ。変な妄想を味覚に変換するな、これだから素人は困る」
累はぷいと顔を背け、忙しそうに大理石の台の上でチョコのテンパリングを始めた。ヘラが刻む規則正しい音。けれど、その白いコックコートから覗く耳たぶが、夕日のせいだけではなく、ほんの少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
毒入りチョコから始まった、私たちの奇妙な関係。
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