毒入りチョコは、恋の味がする。

ショコラ・ド・ホームズ

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第二章

雪解けのフレーズは、白紙のままで。(前編)

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季節が巡るのは早い。

 『ル・プティ・パレ』の窓の外では、街路樹が冬の装いを始め、冷たい風が石畳を吹き抜けていく。店のショーケースには、冬限定の純白のショコラが並び始めていた。

「累さん、あの方がまたいらっしゃいました」

 私が小声で告げると、累は作業台から顔を上げることなく、鼻を鳴らした。

「……正確に十七時五分か。時計代わりにするには、あまりに静かな客だな」

 カラン、と控えめなベルの音が鳴る。

 入ってきたのは、仕立ての良い、けれど少し時代遅れのコートを着た老紳士だった。彼は一言も発さず、カウンターへと歩み寄る。その足取りは、まるで壊れ物を運ぶかのように慎重だ。

 彼は指を一本だけ立て、ショーケースの端にある『ネージュ』――フランス語で雪を意味する、真っ白な一粒のショコラを指差した。

 私がそれを丁寧に箱に詰めようとすると、彼は「そのままで」と、掠れた声で制した。

 彼は手渡された袋に詰められた一粒のチョコを、愛おしそうにコートのポケットにしまい、千円札を一枚置いて、お釣りを受け取らずに店を去っていく。

 これが、ここ一週間毎日繰り返されている光景だった。

 名前も名乗らず、会話もせず、ただ一粒の白いチョコだけを買い求める「名前のない客」。

「累さん。あの方、今日もチョコを召し上がらないで持ち帰りました」

「……ああ。ポケットに入れたままでは、家に着く頃には体温で表面が溶け出すだろう。繊細なテンパリングが台無しだ。あんなのは美食家のすることじゃない」

 累は毒づきながらも、その目は去っていった老紳士の後ろ姿をじっと見つめていた。

「でも、変なんです。あの方から漂う『味』……」

 私は、彼が去った後の空気の中に残る微かな余韻を、自身の味覚の記憶(メモリー)と照らし合わせる。

「普通、美味しいチョコを買う時って、ワクワクするような『期待の甘さ』がするものなんです。でもあの方からは……まるで、冷え切った冬の夜に独りで震えているような、透明で、あまりに潔癖な『静寂の味』がするんです。まるで、そのチョコを食べることを自分に禁じているみたいに」

 累の手が止まる。彼はヘラを置き、私に向き直った。

「……千果。お前、さっきあいつが金を置いた時、手元を見たか?」

「え? いえ、お顔を見ていたので……」

「爪だ。彼の左手の爪だけが、異常に短く切り揃えられていた。それも、まるで弦楽器を弾く者のようにな。そして、あの独特の指の形……あれは、相当な年月をピアノに捧げた者の手だ」

 累は店の奥から、一通の古い音楽雑誌を取り出してきた。

「数日前から気になっていた。この街にはかつて、世界を席巻した天才ピアニストがいたはずだ。だが、十年前、最愛の妻を亡くした直後の演奏会を最後に、忽然と姿を消した」

「まさか、あの方がその……?」

「確信はない。だが、彼が求めている『ネージュ』には、僕が隠し味として、ある特殊な地方のカカオバターを使っている。それは、かつて『冬のソナタ』の聖地と呼ばれた北欧の小島でしか採れない代物だ」

 その時、私はハッとして、老紳士が座っていたはずの椅子に目を落とした。

 そこには、小さな白い紙切れが落ちていた。

 慌てて拾い上げると、そこには震えるような筆致で、たった一行だけ、楽譜のような記号と文字が書かれていた。

『――最後の音が、どうしても見つからない』

 私はその紙を累に差し出した。

 紙を指先でなぞった瞬間、私の口の中に、強烈な「苦み」が広がった。

 それは以前の事件のような憎悪ではない。もっと深くて、自分自身を許せないという絶望に近い、深い深い、エスプレッソのような「拒絶」の苦みだ。

「……累さん。あの方は、チョコを買いに来ているんじゃない。何かを……自分の魂の一部を、この店に捨てに来ているのかもしれません」

 外の風が、一段と激しさを増し、窓を叩いた。

 真っ白なショコラに隠された、老ピアニストの沈黙の真相。

 そして、なぜ彼が「食べるためではないチョコ」を一粒だけ買い続けるのか。

 私たちは、その答えを探すために、彼が去っていった雪の坂道を見つめていた。

(後編へ続く)
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