毒入りチョコは、恋の味がする。

ショコラ・ド・ホームズ

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第二章

雪解けのフレーズは、白紙のままで。(後編)

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翌日、十七時五分。

 予報通りに降り始めた雪が、街を白く塗りつぶしていく。定刻通りに現れた老紳士は、昨日と同じように、震える指先で一粒の『ネージュ』を求めた。

 だが、今日は私が箱を差し出すより先に、累がカウンター越しに声をかけた。

「……もう、終わりにしませんか。冬の寒さを、チョコのせいににするのは」

 老紳士の動きが止まった。累は、昨日預かったあの紙切れを無造作に差し出した。
「『最後の音が見つからない』……。貴方が探しているのは楽譜の続きじゃない。十年前の冬、最愛の妻に聴かせられなかった、最後のフレーズでしょう。元天才ピアニスト、有馬(ありま)先生」

 老紳士――有馬は、深く被った帽子の下で目を見開いた。その瞳には、隠しきれない動揺と、深い悲しみが波のように押し寄せている。

「……なぜ、私が。私はただ、このチョコが、あいつの好きだった雪の色に似ていたから……」

「千果(ちか)、食え」

 累が、有馬のために用意された『ネージュ』を、私に差し出した。

「えっ、でもこれは……」

「いいから食え。お前のその『厄介な味覚』で、この男がチョコを口にできない理由を暴いてやれ」

 私は意を決して、真っ白なショコラを口に含んだ。

 舌の上でゆっくりと溶けていくカカオバター。だが、その瞬間に私の脳内に広がったのは、美しい雪景色ではなかった。

「……冷たい。……耳が痛くなるほど、何も聞こえない」

 私は涙が溢れるのを堪えながら、言葉を絞り出した。

「有馬さん。……貴方、このチョコを食べるたびに、自分の耳を塞いでいるんですね。奥様が亡くなったあの日の、静まり返った病室の記憶で。……貴方にとって、この真っ白なチョコは『雪』じゃない。音楽を、音そのものを遮断するための『壁』なんだ」

 有馬の肩が、激しく震え始めた。

「……あいつは、私のピアノを一番に愛してくれていた。なのに、最期の瞬間、私は……何も弾けなかった。あいつに聴かせるべき曲が、絶望で真っ白になって消えてしまったんだ! 以来、私の世界からは音が消えた。このチョコの白さだけが、私の虚無を埋めてくれる唯一のものだったんだ……」

 叫ぶような告白が、店内に響き渡る。累は、黙って有馬を見据えていた。

「……あんたは、自分に罰を与えていただけだ。音のない世界に閉じこもることでな。だが、うちのチョコをそんな『耳栓』代わりにされるのは心外だ」

 累は、店の隅に置かれた古いアップライトピアノへ歩み寄った。それは、彼がレシピを考える際に音のイメージを膨らませるために置いているものだ。

 累は、お世辞にも上手とは言えない指つきで、たどたどしく一つの和音を鳴らした。

「有馬先生。このチョコの隠し味、北欧産のカカオバターだと言ったな。……その産地では、雪が降ることを『天からの贈り物(フレーズ)』と呼ぶそうだ。雪は音を消すためのものじゃない。次に訪れる春の音を、より美しく聴かせるための準備なんだよ」

 累は、一粒の新しいショコラを有馬の手に握らせた。それは『ネージュ』ではない。中心に一滴の真っ赤なフランボワーズが透けて見える、情熱的なショコラだった。

「これは『プレリュード(前奏曲)』。春の訪れを告げる味だ。……あんたが探している最後の音は、後悔の中にはない。今、あんたの心の中で微かに鳴っている、その『寂しさ』そのものが、次の曲の最初の音なんじゃないのか?」

 有馬は、震える手でその赤いショコラを口に運んだ。

 ゆっくりと、咀嚼する。

 やがて、彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「……ああ。……甘い。……苦くて、ひどく温かい。……音が……聞こえる」

 数分後、有馬は力強い足取りで店を後にした。彼の背中は、昨日までの老いた影を脱ぎ捨てたように見えた。彼は最後に一度だけ振り返り、「明日は、楽譜を持ってくるよ」と微笑んだ。

 客が去り、再び静かになった店内で、私は大きくため息をついた。

「累さん……。あんなピアノまで弾けるなんて、反則ですよ」

「うるさい。ただのデタラメだ。……それより、千果。お前、さっきの『プレリュード』の感想を言ってみろ」

「ええと……。情熱的で、でもどこか累さんらしい、ぶっきらぼうな優しさの味がしました」

「……不合格だ。表現が主観的すぎる」

 累はそう言って顔を背けたが、彼はピアノの鍵盤を指先で優しくなぞっていた。

 外の雪はいつの間にか止み、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。

 石畳に積まった雪が少しずつ溶け、微かな水の音が聞こえる。

 それは、新しい季節を告げる、静かな前奏曲のように聞こえた。

(第二章・完)
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