毒入りチョコは、恋の味がする。

ショコラ・ド・ホームズ

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第三章

王妃のレシピと、百年の孤独(前編)

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その日は、朝から不穏な空気が街を包んでいた。

 冬の低い雲が垂れ込め、石畳を濡らす霧雨が『ル・プティ・パレ』の窓ガラスを白く濁らせている。開店直後の店内に、いつもの甘い香りに混じって、場違いな「鉄と硝煙」の匂いが忍び込んできた。

 店の前に停まったのは、外交官ナンバーをつけた漆黒のリムジンだった。

 中から降りてきたのは、完璧な三つ揃いのスーツに身を包んだ、銀髪の初老の紳士。その背後には、耳にインカムを装着した屈強な男たちが二人、鋭い眼光で周囲を警戒している。

「……累さん、なんだか大変なことになってます」

 私が裏から顔を出すと、累は珍しく厳しい表情で、磨き上げたばかりのボウルを置いていた。

「千果、下がっていろ。……こいつは、僕たちが普段相手にしている『日常の謎』とは、次元が違う」

 カラン、というベルの音が、まるで審判の合図のように響いた。

 入ってきた紳士は、優雅な動作で帽子を脱ぎ、累の前で深く頭を下げた。

「唐突な訪問をお許し願いたい。私は中央ヨーロッパの小国、エストヴァニア王国の全権大使、バレンティンと申します。……若き天才、累・ハミルトン殿。貴方の『血』に眠る記憶を頼りに参りました」

 累の眉がピクリと動いた。

「……ハミルトン? 僕はそんな大層な名前じゃない」

「隠しても無駄です。貴方の祖父は、我が国の王室専属ショコラティエだった。そして百年前、王妃マリー・アントワネットの再来と謳われたマリア様が処刑される直前、ある『禁断のレシピ』を貴方の家系に託したはずだ」

 バレンティン大使は、震える手で懐から一通の封筒を取り出した。

 中から現れたのは、経年劣化で黒ずんだ、羊皮紙の断片だ。そこには、血のような赤いインクで、見たこともない複雑な紋章と、暗号のような数行の文字列が記されていた。

「現在、我が国は王位継承を巡り、二つの勢力が一触即発の状態にあります。国民を納得させ、真の王位を示す唯一の手段は、建国記念日の晩餐会で、伝説の『マリアの涙』と呼ばれるショコラを再現すること……。だが、レシピの核心部分は失われ、貴方の血筋にしか解けない仕掛けが施されているというのです」

 累は、その羊皮紙を無言で受け取った。

 その瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。

 まだ誰も口にしていない、ただそこにあるだけの羊皮紙から、強烈な「味」が流れ込んできたのだ。

「……っ、うああ!」

 私は思わずカウンターに手をついた。

「千果!? どうした!」

「累さん……これ、苦い……苦いなんてもんじゃない。冷たい氷の中に、煮え繰り返るような怒りと、底なしの孤独が詰まってる。……これを作った人は、世界中を呪いながら、同時に誰か一人の助けを待っていた。……そんな、引き裂かれそうな味がします」

 大使の目が驚愕に見開かれた。「……信じられない。ただ紙に触れただけで、百年前の王妃の絶望を読み取るとは……。貴女は、一体?」

「彼女は僕の……大切な、従業員だ」

 累は私の肩を支え、大使を射抜くような視線で見据えた。

「この依頼、引き受けよう。ただし、これは単なる菓子の再現じゃない。歴史に殺された女の『呪い』を解く作業だ。……失敗すれば、僕たちの命も、貴方の国も、ただでは済まないだろうがな」

 累は私を振り返り、不敵な笑みを浮かべた。その瞳の奥には、見たこともない情熱の炎が揺らめいている。

「行くぞ、千果。僕たちの店を飛び出して、本物の『毒』を喰らいにな」

 翌朝、私たちは店の入り口に『臨時休業』の札を掲げた。

 手元にあるのは、半分に破られた王妃のレシピと、千果の鋭敏すぎる感覚。

 目指すは、霧に包まれた欧州の古城。

 百年の眠りについていた、世界で最も甘く、最も残酷な謎がいま、動き出そうとしていた。

(中編へ続く)
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