つきが世界を照らすまで

kiri

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落葉の先、黒き猫を追いかけるの事

捌―続

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 目を丸くした千代さんは、クスクスと笑いながら口に手を当てた。

「美校の時みたいですね」

 うわあ! 恥ずかしいことを思い出してしまって思わず手で顔を覆った。
 あの時は名前も聞かないで飛んで帰ってしまったんだよなあ。だから次の日は本当に来てくれるか心配で、ずいぶん早くから待っていたんだ。

「私は、ミオさんが名前も聞かずに行ってしまわれたから、どうでも次の日参ってお助けしないと、って思っていましたよ」
「そうだったんだ。ありがとう、あの時は本当に助かったんだよ」

 千代さんの助けがなかったら今の僕はなかったかもしれない。ああ、それは今もそうだな。

「さあ、春草先生。どうすればいいんでしょう」
「そうだな……下駄と傘を持ってきてくれるかな」

 座敷の中で下駄を履いて雨傘を差して。少し歩いたところで止まってもらう。
 そのまま何枚も紙に写す。少し角度を変えて。止まって。紙に写す。そう、片足だけ変えて。下駄の前歯だけ下につけて。そのままで。また紙に写す。

「そのまま、体だけもう少し右を向いて。そう、そのままじっとして」

 後はこっちの傘の向きを……
 バタンと大きな音がした。驚いて顔を上げると千代さんがいない。

「千代さん?」

 倒れてる! しまった、夢中になってた。

「千代さん、しっかりして」 

 水だ、水をんでこよう。

「大丈夫かい」

 ううん、と頭を押さえて顔をしかめている千代さんに水を差し出す。

「ちょっと目がくらんだだけです。大丈夫ですよ」
「ごめんよ、暑いのに夢中になってた」
「絵は描けました?」
「うん、大丈夫。描けたよ」

 それならよかったと言いながら、千代さんはやっぱり疲れた顔をしていた。
 しまったなあ、描き出すと夢中になってしまう。気をつけてたつもりだったんだけど。ともかく絵を進めよう。せっかく千代さんが手伝ってくれたんだから。

 下絵も進めて『雨中美人うちゅうびじん』と題した。
 色を塗り出したけれど手が止まる。違う、着物はこの色じゃない。それに描き始めてみると構図にも、もう一捻ひとひねり欲しくなる。

「今度は駄目ですよ。来られても本当に屏風はありませんからね」

 銀次郎さんが言った。
 表装をお願いしようと思っていた絵があって、連絡をしたら今日は仕事で代々木のほうへも来るという。それならと家にも寄ってもらったのだけれど。
 まったく。釘を刺さなくてもわかっているさ。

「それより、そこの描きかけの落葉の屏風も持って帰ってくれないかい? もう破っても売ってもいいから」

 はいはい、と屏風を動かし始めた銀次郎さんは、開いて中を確認すると慌てて言った。

「春草先生、これ、ほとんど描けてるじゃないですか。続き描かないんですか?」
「描かない」
「ええっ!? 春草先生ならサクッと描けるでしょう。そしたら売れると思いますけど」
「描かないよ。描いても納得いくものはできないから」

 そんなもんですかと、ため息をつきながら銀次郎さんは屏風を運び出した。
 納得できないものを描いていても楽しくない。そんなの洗い流して捨てた方がいいくらいだ。それよりこっちの屏風が問題だ。思った色が出ないのは楽しくないぞ。

 そうやって僕が着物の色と格闘している間に岡倉先生の波士敦ボストン行きが決まったとの知らせが来た。美術館勤務になるから、しばらくお戻りにならないらしい。
 ご挨拶に伺うと、久しぶりにお会いした先生は変わらずお元気なご様子だった。

「体の調子はどうだね」

 やはり外に出て仕事をされるのが、この方に合っていらっしゃるんだろう。溌剌はつらつとしたお声が聞けて嬉しく思う。

「おかげさまで、ゆっくりやらせていただいています」

 先生はそうか、と改まった様子で僕に頷かれた。

「実は文展の審査委員を君に頼めないかと思っているんだが」
「僕に、ですか」
「出立が文展よりも前になるから必然的に審査は欠席するしかないのだよ。体調次第と思っていたんだが、どうだね?」

 これは大きな責任だぞ。先生はこれを僕に任せてくださるのか。

「……わかりました。精一杯務めます」

 僕が緊張した顔で応えると、これで肩の荷が降りたと笑顔になられた。

「ところで、『落葉』見せてもらったよ。あれは本当に素晴らしかった。君の絵は情趣巧緻じょうしゅこうちも一番だが、あれは名品だね」

 僕はあたふたと頭をさげる。
 どうしよう、嬉しくて言葉が出ない。こんな風に先生から手放しで褒めていただけることなんてあまりなかったから。どうしよう、頬が緩む。

「あ、ありがとうございます!」

 やっとそれを言った僕は緩みそうになる口元をへの字に曲げる。それでも緩む顔をこっそり着物の袖で隠した。

「君の絵は実験室のようだから、次の試験で何を描いてくるのか胸がおどる。楽しみにしているよ」

 そのお言葉を残して岡倉先生は米国へと旅立たれた。
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