つきが世界を照らすまで

kiri

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早春、梅に雀の事

肆 つきが世界を照らすまで

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 じわじわと視界が狭くなる。それでも以前よりは心が軽い。きちんと養生すればまた見えるようになった。今度もきっとそうなんだろうと思う。
 文展の審査があるから、それまでに治ればいい。

 つまらないのは絵を描けないこと。嫌なのは夜が来ることだ。
 昼の代々木はのんびりしていて、病気の療養にはいいところなのだ。だけど夜は本当にしんとしていて耳が痛いくらいに音がない。風があれば、ここは風の吹く世界なんだと思えるし、雨が降れば雨の音に包まれるのに。

 静かな夜は苦手だ。この世界にひとりで放り出されたように思ってしまう。病気の痛みも心の傷も抱えたまま、霧の中に放り出されるのはとても怖い。
 だから、そんな時は絵のことを考える。

 例えば、画材ひとつを取っても可能性は大きく広がっていくはずだ。絵筆も絵絹や和紙も、もっと描きやすいものが多くなるに違いない。

 絵の具も種類が増えないだろうか。岩絵の具が高価なのは仕方がない。西洋の顔料も悪くはないけれど、同じように発色するもっと安価なものとかね。手軽に混色できるものがあるといいかもしれない。

 例えば、そうだな……外国人が日本画を描くようになる、なんていうのはどうだろう。小泉八雲だって日本人として小説を書いているのだから。
 まあそれも、日本人としての心を掴めたなら、ということになるけれど。

 美術院の講評会のように同じ画題で描くとなったら、なにを描くのだろう。興味深い。目をぎらつかせる皆の顔が浮かぶようだ。絶対、自分がいい絵を描いてみせる。日本画とはこうだと見せてやる。きっとそんな風に思って筆をとるのだろう。

 こんな風に考えている時は時間が経つのが早い。
 気づけば朝になっている。朝の光と熱は心地よく感じる。今感じているこの熱だってまだ描ききれていないのだ。まだまだやれることがある。

 例えば、光や熱から感じ取る面白さではなく、もっと光そのもの、熱そのものを描けないだろうか。
 かまどで燃える火を、夏の陽射しを、こぼれる雫の輝きを、見たままに描いてみたい。

 自然以上の面白味を描かないものを芸術とは言えない。それは確かにそうだと思っている。その考えは変わらないけれど、それをも取り払って自然そのものを描くところから始めてみるのだ。

 西洋画を取り入れる時に一番始めにやったことと同じだ。もう一度写実に向き合うために全部をまっさらにする。
 例えば、葉の一枚、花の一片ひとひらを見たままに描いてみる。写真のように、筆の運びも消すほどに、もっと徹底的に写実を極めてみたい。

 描かない空間の工夫、描き込む対象の工夫。それをもって光琳のような装飾性にもう一歩踏み込んでみたらどうだろう。

「ねえ、千代さん。今度よくなったら描こうと思ってる絵があるんだ。今考えてるのを描けたら絶対面白いのができる」
「私にも見せてくれるんですか?」
「もちろんさ、一番に見せてあげるよ」

 この「こころもち」を忘れないようにしよう。大事にあたためて、もっと突き詰めていけば描きたいものが形を成す。
 できるかできないかなんて、やってみなければわからない。
 それこそ、今までやってきたことじゃないか。ひとつずつ考えを試してみよう。

「よう、千代さん」
「横山様、いらっしゃいませ」

 秀さんが来たのか。

「どうだい?」
「ええ、今は落ち着いてるようです」

 秀さんは今どんな絵を描いてるんだろう。

「ミオさん? 眠ったんですか」
「寝てるんならいいさ、ゆっくりさせてやろう」

 千代さんも秀さんも声が優しい。
 秀さんの最初の印象は嵐のようだったから、こんな気が合うとは思わなかったな。
 僕は新しい日本画に一番近いのは秀さんかもしれないと思っている。なにせあの貪欲な走りっぷりなのだから。きっと、この先は秀さんの絵が日本中に溢れて、そして世界にも飛び出すんだろう。

 まあ、僕も負ける気はしていないのだけれど。
 そう言ったらどんな顔するかは見なくてもわかる。最初は口をへの字に曲げて、その後は大きな声で笑って背中を叩いて、負けねえぞって言うんだろう。

「なんだか楽しそうな顔だなあ」
「そうですね」
「きっと、あんな絵描きてえとか、こんな工夫しようとか思ってんだろうな」

 そんなこと言ったら僕が絵を描きたいだけみたいじゃないか。
 秀さんのことは置いといても、千代さんや子ども達のことはちゃんと思ってるんだぞ。傍にいてくれるだけでも嬉しいのだから。

 ああ、そうだ。
 千代さん達と絵画の中で出会えたら面白いだろうなあ。

 例えば、花や葉に触れて匂いを、木々の幹に触れて暖かさを、空気や風を、音を感じる、そんな絵の中に誘ってみよう。
 鳥に乗って空の上からの景色を見ながら飛んでいこう。春野の中を歩いていこう。落葉を踏みしめて木々の先へも歩いていこう。

 そこでは、きっと誰とでも出会えて何でもできる。
 子どもの僕と、大人の子ども達が会えるかもしれない。

 波の一滴、一枚花びら、五浦の松、信州の雪、蝶の羽ばたき、散り落ちる病葉わくらば、一羽の雀にだってなれる。どうしたって猫は苦手だから、それだけは遠慮したいけれど。

 想像するだけでも変な感じだな。
 だけど、そんな風に絵画を味わえたら楽しそうだなあ。
 本当にそんな絵が描けたら、どれだけ面白いだろう。

「父様は寝ちゃった?」

 楽しみで眠ってなんていられないよ。これから面白い絵が描けそうなんだ。

「うん、静かにしてあげましょうね」

 そうだった。千代さんの言うように静かにして病気を治さなくてはいけない。治ったらたくさん絵を描くのだから。
 皆がそうだったように、今度は僕が心の中に住まう月になる。そんな絵を描こうと決めたのだから。

 月は世界を照らし出す。
 僕は月の光になろう。
 そうしてどこまでも進んでいこう。

 絵を描こう。
 僕の絵はまだ拙い。先へ行くためには、もっと絵を描かなければならない。

 心と空間の永遠を表現する、天壌無窮てんじょうむきゅうのその先へ行くのだから。

 先へ、もっと先へ。
 絵を描
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