つきが世界を照らすまで

kiri

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早春、梅に雀の事

参 梅に雀

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 頭痛が酷くなって、絵を描くのが難しくなってしまった。
 出かけることもできず家にいる。もう一度、小田原に行こうと思っていたのになあ。

 美術研精会の絵画展も、東京勧業博覧会も、せっかく審査委員の声をかけていただいたのに断らなくてはならなかった。

「多くの人に会って神経が高ぶるのはよくない」

 先生にそう言われては、残念だけれど仕方がない。当面は静かにしなくてはならない。

 本当に、なんでこんな病気になってしまったんだろう。こんな体ならいっそ壊れた臓器ごと半身を捨ててしまおうか。
 手さえ動けば絵は描ける。頭さえあれば僕の考えを表現できる。そうしたらずっと絵を描いていられる。

 ああ、なんていい考えなんだろう。そのまま絵の中にいられたらもっといい。
 そんなことばかり考えていた。

 鬱々うつうつとして眠れなくなる。ちゃんと休もう、眠ろう。そう思う程に眠れない。
 寝床の中で目を開ける。目の前がぼんやりし始めて、知らず涙が流れていた。

 いけない、少し具合が悪くなって気弱になっているんだろう。僕はまた絵を描くんだから病気を治さなくてはならないのに。

「眠れないんですか?」

 夜の中に千代さんの声がする。
 その声にすがっていないと僕自身がどこかへ行ってしまいそうだ。

「うん……目を閉じたら、そのまま見えなくなってしまいそうで」

 それならと千代さんは新聞を読んでくれたり、取り止めのない話をしてくれたりする。そうしていると、その声に安心するんだろう。痛みも薄らぐ気がしてくる。とろとろと瞼が重くなってくる。
 千代さんの声を聞きながら、やっと僕は少しの眠りにつく。

 病気はよくなったり悪くなったりを繰り返して、気持ちも上がったり下がったりを繰り返す。
 それでも最近は少し調子がよくなってきた。
 そうなると現金なもので、さて次の絵はなにを描こうかとむずむずしてくるんだ。

「昨夜は眠れたみたいですね」
「うん、少し散歩してこようと思う」

 気をつけてと千代さんに送り出される。春夫が僕の周りを走り回りながらついて来た。
 実は家を新築していて、そこを見に行こうと思っている。

 そういえば建物の中はほとんど描いたことがないな。
 ううん……家の外へ行こうとしている絵なら描くのもいいか。それでも木を家に見立てて飛び立とうとする鳥達、そんな絵になりそうだ。

 そこまで考えて苦笑が漏れる。いつもと同じじゃないか。ということは僕はいつも、どこかへ行きたいと思っているのかもしれない。
 いや、行きたい場所は確かにある。無限の広がりのその先を描こうと決めたのだ。

 草木が家なら、そこには千代さんが待っていてくれる。だから安心して飛び出せる。僕は必ず戻るから待っていておくれ。
 そんなことを思いながら、ゆるゆると散歩して帰ったその日も少し眠れた。

 眼病も全快には時間がかかるというけれど、また少しは動けるようになってきている。二、三ヶ月ほども静養すれば、もっと外に出られるようになるだろう。


 それからしばらくして新居に引っ越した僕は、縁側に並んで座る子ども達を見ている。
 ああ、ほら。梅に雀の図なんかどうだろう。竹はまっすぐ過ぎて面白くない。まだ視界は狭いままだけど、これくらいなら絵を描ける。

 絵絹を枠に張って礬水どうさを引く。大雑把に色を乗せて下絵を描く。地色の真ん中、雀のいる辺りはほんのり茜色にしよう。頭に浮かぶ構図に沿ってさっくりと色をのせていく。

「ミオさん、休みながらですよ」
「わかってるよ」

 右下から伸びる梅の木は、ごつごつと揺れながらも、雀に止まる場所を空けてくれる。

「今日はここだけにする」

 画面の先へと伸びる枝に咲く白梅。

「父様、お散歩行こうよ」
「そうだね、花をひとつ描いたら行くよ」

 雀達はなにを見ているんだろうか。縁側に並ぶ子ども達のように、やんちゃな相談でもしているのかもしれない。

「千代さん、絵の具溶いてくれるかい」

 今日も少しだけ描き足していく。
 視界が狭い。もう少しだけ見えたら描きやすいのに。
 悔しさと悲しさと、もどかしさと腹立たしさと。描くのを止めたら見えなくなりそうな怖さ。急に感情がこみ上げてきてじんわりと涙が溢れそうになる。

「ミオさん? 大丈夫ですか」
「うん、ありがとう」

 千代さんに見えないように目元を拭う。
 ほんの少しずつゆっくり描く。

 僕は時間をかけて描いた『梅に雀』の右端に落款を入れた。
 同じ方向を見ている雀達が、ぴいぴいちゅんちゅんと声を上げる。

春兄はるにい、御料地まで行こう」
「ぼくもいく!」
「駿も行くなら、御料地はちょっと遠いよ。もう少し近いとこにしよう」
「えええ、もう駿も大きくなったから大丈夫だよお。疲れたって言ったら僕がおぶってあげるからさ」
「やったあ! 秋兄あきにいにおんぶ」
「そう言って、結局僕がおんぶすることになるんだから」
「あはは、行こう!」
「いこう!」
「あっ、こら! 秋も駿も待ってよ!」

 縁側に座っていた子ども達が飛び出していく。
 画面の雀達がぱたぱたと羽の音をさせた。

 待ってくれ、僕も連れて行ってくれ。僕も行きたい。
 雀に向かって手を伸ばす。
 飛び出した雀は振り返ることもなく空へ舞い上がっていった。どこまでも広がる空の向こうへ。

 飛んで、飛んで。どこまで行くのだろう。どこまでも行けるのだろう。
 きっと永遠の彼方へも飛んでいけるのだろう。

 伸ばした僕の手が取られることはない。
 僕は筆を置いてため息をついた。

 八月、そんな僕の元に文展審査委員の話が舞い込む。
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