つきが世界を照らすまで

kiri

文字の大きさ
69 / 72
早春、梅に雀の事

参 梅に雀

しおりを挟む
 頭痛が酷くなって、絵を描くのが難しくなってしまった。
 出かけることもできず家にいる。もう一度、小田原に行こうと思っていたのになあ。

 美術研精会の絵画展も、東京勧業博覧会も、せっかく審査委員の声をかけていただいたのに断らなくてはならなかった。

「多くの人に会って神経が高ぶるのはよくない」

 先生にそう言われては、残念だけれど仕方がない。当面は静かにしなくてはならない。

 本当に、なんでこんな病気になってしまったんだろう。こんな体ならいっそ壊れた臓器ごと半身を捨ててしまおうか。
 手さえ動けば絵は描ける。頭さえあれば僕の考えを表現できる。そうしたらずっと絵を描いていられる。

 ああ、なんていい考えなんだろう。そのまま絵の中にいられたらもっといい。
 そんなことばかり考えていた。

 鬱々うつうつとして眠れなくなる。ちゃんと休もう、眠ろう。そう思う程に眠れない。
 寝床の中で目を開ける。目の前がぼんやりし始めて、知らず涙が流れていた。

 いけない、少し具合が悪くなって気弱になっているんだろう。僕はまた絵を描くんだから病気を治さなくてはならないのに。

「眠れないんですか?」

 夜の中に千代さんの声がする。
 その声にすがっていないと僕自身がどこかへ行ってしまいそうだ。

「うん……目を閉じたら、そのまま見えなくなってしまいそうで」

 それならと千代さんは新聞を読んでくれたり、取り止めのない話をしてくれたりする。そうしていると、その声に安心するんだろう。痛みも薄らぐ気がしてくる。とろとろと瞼が重くなってくる。
 千代さんの声を聞きながら、やっと僕は少しの眠りにつく。

 病気はよくなったり悪くなったりを繰り返して、気持ちも上がったり下がったりを繰り返す。
 それでも最近は少し調子がよくなってきた。
 そうなると現金なもので、さて次の絵はなにを描こうかとむずむずしてくるんだ。

「昨夜は眠れたみたいですね」
「うん、少し散歩してこようと思う」

 気をつけてと千代さんに送り出される。春夫が僕の周りを走り回りながらついて来た。
 実は家を新築していて、そこを見に行こうと思っている。

 そういえば建物の中はほとんど描いたことがないな。
 ううん……家の外へ行こうとしている絵なら描くのもいいか。それでも木を家に見立てて飛び立とうとする鳥達、そんな絵になりそうだ。

 そこまで考えて苦笑が漏れる。いつもと同じじゃないか。ということは僕はいつも、どこかへ行きたいと思っているのかもしれない。
 いや、行きたい場所は確かにある。無限の広がりのその先を描こうと決めたのだ。

 草木が家なら、そこには千代さんが待っていてくれる。だから安心して飛び出せる。僕は必ず戻るから待っていておくれ。
 そんなことを思いながら、ゆるゆると散歩して帰ったその日も少し眠れた。

 眼病も全快には時間がかかるというけれど、また少しは動けるようになってきている。二、三ヶ月ほども静養すれば、もっと外に出られるようになるだろう。


 それからしばらくして新居に引っ越した僕は、縁側に並んで座る子ども達を見ている。
 ああ、ほら。梅に雀の図なんかどうだろう。竹はまっすぐ過ぎて面白くない。まだ視界は狭いままだけど、これくらいなら絵を描ける。

 絵絹を枠に張って礬水どうさを引く。大雑把に色を乗せて下絵を描く。地色の真ん中、雀のいる辺りはほんのり茜色にしよう。頭に浮かぶ構図に沿ってさっくりと色をのせていく。

「ミオさん、休みながらですよ」
「わかってるよ」

 右下から伸びる梅の木は、ごつごつと揺れながらも、雀に止まる場所を空けてくれる。

「今日はここだけにする」

 画面の先へと伸びる枝に咲く白梅。

「父様、お散歩行こうよ」
「そうだね、花をひとつ描いたら行くよ」

 雀達はなにを見ているんだろうか。縁側に並ぶ子ども達のように、やんちゃな相談でもしているのかもしれない。

「千代さん、絵の具溶いてくれるかい」

 今日も少しだけ描き足していく。
 視界が狭い。もう少しだけ見えたら描きやすいのに。
 悔しさと悲しさと、もどかしさと腹立たしさと。描くのを止めたら見えなくなりそうな怖さ。急に感情がこみ上げてきてじんわりと涙が溢れそうになる。

「ミオさん? 大丈夫ですか」
「うん、ありがとう」

 千代さんに見えないように目元を拭う。
 ほんの少しずつゆっくり描く。

 僕は時間をかけて描いた『梅に雀』の右端に落款を入れた。
 同じ方向を見ている雀達が、ぴいぴいちゅんちゅんと声を上げる。

春兄はるにい、御料地まで行こう」
「ぼくもいく!」
「駿も行くなら、御料地はちょっと遠いよ。もう少し近いとこにしよう」
「えええ、もう駿も大きくなったから大丈夫だよお。疲れたって言ったら僕がおぶってあげるからさ」
「やったあ! 秋兄あきにいにおんぶ」
「そう言って、結局僕がおんぶすることになるんだから」
「あはは、行こう!」
「いこう!」
「あっ、こら! 秋も駿も待ってよ!」

 縁側に座っていた子ども達が飛び出していく。
 画面の雀達がぱたぱたと羽の音をさせた。

 待ってくれ、僕も連れて行ってくれ。僕も行きたい。
 雀に向かって手を伸ばす。
 飛び出した雀は振り返ることもなく空へ舞い上がっていった。どこまでも広がる空の向こうへ。

 飛んで、飛んで。どこまで行くのだろう。どこまでも行けるのだろう。
 きっと永遠の彼方へも飛んでいけるのだろう。

 伸ばした僕の手が取られることはない。
 僕は筆を置いてため息をついた。

 八月、そんな僕の元に文展審査委員の話が舞い込む。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

夢幻の飛鳥~いにしえの記憶~

藍原 由麗
歴史・時代
時は600年代の飛鳥時代。 稚沙は女性皇族で初の大王となる炊屋姫の元に、女官として仕えていた。 彼女は豪族平群氏の額田部筋の生まれの娘である。 そんなある日、炊屋姫が誓願を発することになり、ここ小墾田宮には沢山の人達が集っていた。 その際に稚沙は、蘇我馬子の甥にあたる蘇我椋毘登と出会う。 だが自身が、蘇我馬子と椋毘登の会話を盗み聞きしてしまったことにより、椋毘登に刀を突きつけられてしまい…… その後厩戸皇子の助けで、何とか誤解は解けたものの、互いの印象は余り良くはなかった。 そんな中、小墾田宮では炊屋姫の倉庫が荒らさせる事件が起きてしまう。 そしてその事件後、稚沙は椋毘登の意外な姿を知る事に…… 大和王権と蘇我氏の権力が入り交じるなか、仏教伝来を機に、この国は飛鳥という新しい時代を迎えた。 稚沙はそんな時代を、懸命に駆け巡っていくこととなる。 それは古と夢幻の世界。 7世紀の飛鳥の都を舞台にした、日本和風ファンタジー! ※ 推古朝時に存在したか不透明な物や事柄もありますが、話しをスムーズに進める為に使用しております。 また生活感的には、聖徳太子の時代というよりは、天智天皇・天武天皇以降の方が近いです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...