68 / 72
早春、梅に雀の事
弐―続
しおりを挟む
薬をやめたら、また目が見えなくなるんじゃないだろうか。
先生は狼狽える僕に、落ち着きなさいと穏やかに言われた。
「薬にも相性というのがあるのだよ。今の症状が落ち着くまで眼病の投薬は中止したほうがいい。そうしないと君の体に負担がかかる。まずは体を休ませる。その後また様子を見ながら、ということだよ」
そこまで言われてようやく安堵の息を吐く。
「症状が落ち着けば大丈夫みたいですね。よかったです。暖かくして休んで下さいな」
千代さんの顔も明るくなって僕も心が落ち着いてきた。
疲れているだろうに、千代さんの元気な声につい甘えてしまう。
「そうだな、早く治さないと。絵が展覧会に間に合わなくなる」
「もう! ミオさんがそれじゃいけません。横山様もやり過ぎないように見ておけって、言っておられたんですからね。告げ口してしまいますよ」
叱られて心配されていることを確認するのは子どもっぽかったな。ごめん、千代さん。僕はまだ少し気弱なままのようだ。
「焦っちゃいけないのはわかってるよ」
わかっているのだけれど。
皆どんな絵を描いているのかなあ。会いに行って絵を見てみたい。きっと僕よりたくさんの技法や表現ができているんだろう。ひとりで描くだけではなく、皆の絵を参考にできるなら僕の考えも進むだろうに。
「大丈夫です、元気になって描けますから」
秀さんみたいだな。僕にとっては良いまじないの言葉だ。なんだか本当に大丈夫な気がしてくる。
腹痛の薬が効いてきたのか、体が楽になったら少し眠くなってきた。
起きたら……よくなっていると……いいなあ……
以前に描いて表装を頼んでおいた『月四題』が届いた。
体調が悪くて受け取るどころではなかったし、銀次郎さんの仕事だから確認するまでもないのだけれど。四幅揃いで季節を並べて見る。
春夏秋冬の月と、その光の中の樹木。
春霞の中から桜に降る月の光、夏の柳には雲間から差す。秋に葡萄の葉の向こうから煌々と輝く月は、冬には雪の被った老梅を照らしている。
本当の主役は後ろから全体を照らす満月なのだ。
樹木に焦点を当てて月は遠くからぼんやり見えるように。そうするとその空気は奥行きを出す。
葉や雲はにじみを利用しているのだけど、宗達のたらしこみの技はこういう時に面白味が出る。
思い返せば、僕らは線を捨て、空刷毛でぼかしを入れることで湿潤な空気や光を描き出した。
それから色彩での濃淡や明暗の表現。描く対象の構成を工夫することでの空間の表現。線を捨てても、また線を取り戻す。
そういえば喜多川相説だったか。手前に焦点を当てて距離を、明暗で対比させて立体的に見せたりもしていた。
昔々、平面的な絵が当たり前だった時代でも、様々な表現を思いついて描いていた人がいる。僕らと同じじゃないか。
つまるところ絵描きの考えることは、昔も今も洋の東西もあまり関係ないのかもしれない。工夫を重ねて自分の表現したいものを描く。その工夫の仕方が違うだけなのだ。
この先の僕らが描く絵は、日本画としてのこころもちで描かれるならそれは日本画だろうし、西洋画との違いは顔料の差だけになるだろう。
想いの中に沈みながら僕は眠りの中に落ちていった。
だいぶ体も楽になった。養生したおかげで起き上がっていてもそれほど疲れない。これなら絵筆を持てそうだ。本調子ではないけれどこのくらいなら絵を描ける。
うきうきと弾む心で道具を取り出す僕に千代さんは釘を刺す。
「描くなら審査のことは気になさらずに。休みながらですよ」
「わかってるよ、展覧会開始までは五日しかないんだ。さすがに今からじゃ審査には間に合わない。それは仕方がないからね」
少しほっとした顔の千代さんには悪いけれど、そんなことかまっちゃいられない。
絵を描けるのだから。
下手くそな鼻歌を歌いながら小下絵を描いていく。
なにより注文の品なのだ。待ってくださっているのだし、それには応えなくてはならない。
また休むことになったら、これほどの金屏風を誂えて描くのはしばらくできないだろうな。だけどそれでもいい。
僕は今、絵を描ける。
右隻に南天、左隻に八つ手。互いに屏風の端と端に対称的にこれを描く。
南天の赤い実と八つ手の黒い実も。
本当なら南天が実をつけるのは冬、八つ手は春。四季を散りばめる草花図のように、ほんの少し季節を進める。
南天は枝分かれした先のほうに葉をつけるから、屏風の金地が透けて光が溢れ出る。
八つ手の大きな葉は正面を見せて堀塗りにする。これは金地と対比させると色の見え方が変わって面白い。単色で少しずつ色調を変えて塗っていく。金が透けて葉の重なりが浮き出してくる。
飛び立つ鵯も配置をよく考えないと。屏風を立てた時に飛んでいくように。右隻から左隻へと渡る時間を見せる。
冬から春へ鵯が飛ぶ。
冬の実を啄んで飛んでいく。春の木に休んで飛び上がる。そうして、どこまでも飛んで行くだろう。
ひと月ほどの開催期間の閉幕間際になってしまったけれど、三月十二日、巽画会第十一回絵画展覧会に『早春』を出展した。
先生は狼狽える僕に、落ち着きなさいと穏やかに言われた。
「薬にも相性というのがあるのだよ。今の症状が落ち着くまで眼病の投薬は中止したほうがいい。そうしないと君の体に負担がかかる。まずは体を休ませる。その後また様子を見ながら、ということだよ」
そこまで言われてようやく安堵の息を吐く。
「症状が落ち着けば大丈夫みたいですね。よかったです。暖かくして休んで下さいな」
千代さんの顔も明るくなって僕も心が落ち着いてきた。
疲れているだろうに、千代さんの元気な声につい甘えてしまう。
「そうだな、早く治さないと。絵が展覧会に間に合わなくなる」
「もう! ミオさんがそれじゃいけません。横山様もやり過ぎないように見ておけって、言っておられたんですからね。告げ口してしまいますよ」
叱られて心配されていることを確認するのは子どもっぽかったな。ごめん、千代さん。僕はまだ少し気弱なままのようだ。
「焦っちゃいけないのはわかってるよ」
わかっているのだけれど。
皆どんな絵を描いているのかなあ。会いに行って絵を見てみたい。きっと僕よりたくさんの技法や表現ができているんだろう。ひとりで描くだけではなく、皆の絵を参考にできるなら僕の考えも進むだろうに。
「大丈夫です、元気になって描けますから」
秀さんみたいだな。僕にとっては良いまじないの言葉だ。なんだか本当に大丈夫な気がしてくる。
腹痛の薬が効いてきたのか、体が楽になったら少し眠くなってきた。
起きたら……よくなっていると……いいなあ……
以前に描いて表装を頼んでおいた『月四題』が届いた。
体調が悪くて受け取るどころではなかったし、銀次郎さんの仕事だから確認するまでもないのだけれど。四幅揃いで季節を並べて見る。
春夏秋冬の月と、その光の中の樹木。
春霞の中から桜に降る月の光、夏の柳には雲間から差す。秋に葡萄の葉の向こうから煌々と輝く月は、冬には雪の被った老梅を照らしている。
本当の主役は後ろから全体を照らす満月なのだ。
樹木に焦点を当てて月は遠くからぼんやり見えるように。そうするとその空気は奥行きを出す。
葉や雲はにじみを利用しているのだけど、宗達のたらしこみの技はこういう時に面白味が出る。
思い返せば、僕らは線を捨て、空刷毛でぼかしを入れることで湿潤な空気や光を描き出した。
それから色彩での濃淡や明暗の表現。描く対象の構成を工夫することでの空間の表現。線を捨てても、また線を取り戻す。
そういえば喜多川相説だったか。手前に焦点を当てて距離を、明暗で対比させて立体的に見せたりもしていた。
昔々、平面的な絵が当たり前だった時代でも、様々な表現を思いついて描いていた人がいる。僕らと同じじゃないか。
つまるところ絵描きの考えることは、昔も今も洋の東西もあまり関係ないのかもしれない。工夫を重ねて自分の表現したいものを描く。その工夫の仕方が違うだけなのだ。
この先の僕らが描く絵は、日本画としてのこころもちで描かれるならそれは日本画だろうし、西洋画との違いは顔料の差だけになるだろう。
想いの中に沈みながら僕は眠りの中に落ちていった。
だいぶ体も楽になった。養生したおかげで起き上がっていてもそれほど疲れない。これなら絵筆を持てそうだ。本調子ではないけれどこのくらいなら絵を描ける。
うきうきと弾む心で道具を取り出す僕に千代さんは釘を刺す。
「描くなら審査のことは気になさらずに。休みながらですよ」
「わかってるよ、展覧会開始までは五日しかないんだ。さすがに今からじゃ審査には間に合わない。それは仕方がないからね」
少しほっとした顔の千代さんには悪いけれど、そんなことかまっちゃいられない。
絵を描けるのだから。
下手くそな鼻歌を歌いながら小下絵を描いていく。
なにより注文の品なのだ。待ってくださっているのだし、それには応えなくてはならない。
また休むことになったら、これほどの金屏風を誂えて描くのはしばらくできないだろうな。だけどそれでもいい。
僕は今、絵を描ける。
右隻に南天、左隻に八つ手。互いに屏風の端と端に対称的にこれを描く。
南天の赤い実と八つ手の黒い実も。
本当なら南天が実をつけるのは冬、八つ手は春。四季を散りばめる草花図のように、ほんの少し季節を進める。
南天は枝分かれした先のほうに葉をつけるから、屏風の金地が透けて光が溢れ出る。
八つ手の大きな葉は正面を見せて堀塗りにする。これは金地と対比させると色の見え方が変わって面白い。単色で少しずつ色調を変えて塗っていく。金が透けて葉の重なりが浮き出してくる。
飛び立つ鵯も配置をよく考えないと。屏風を立てた時に飛んでいくように。右隻から左隻へと渡る時間を見せる。
冬から春へ鵯が飛ぶ。
冬の実を啄んで飛んでいく。春の木に休んで飛び上がる。そうして、どこまでも飛んで行くだろう。
ひと月ほどの開催期間の閉幕間際になってしまったけれど、三月十二日、巽画会第十一回絵画展覧会に『早春』を出展した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる