青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第2章》 西新宿のエウリュディケ

ファミレスでの攻防1

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 眠りたりないまま電車に揺られて、うとうとした気分で自宅にようやく辿りつくと、昼前になっていた。

 アパートの隣に錆びたトタンでつくられた、今にも崩れおちそうな駐輪場に自転車をとめる。一歩踏みしめるごとにミシミシいう割れたコンクリート階段をのぼると、自宅ドアの前に人が立っていた。

 ラインの太いピンストライプのスーツ。エラのはった、愛嬌のよい顔立ち。顔は笑っているのに、目は笑っていない。山根の姿を目にした瞳子は、瞬時にして睡魔が霧散した。

「瞳子ちゃん! どこ行ってたの?」

 気さくそうに手をあげた彼の目は、探るような色を帯びていた。

「土曜の朝から、暇なんですね」彼女は辺りを見まわして、別の男が潜んでいないか警戒した。

「これ、お土産。ケーキなんだけど」

 昨晩新たな借金の件で電話してきたというのに、なぜ。彼は、店のロゴが入っている紙袋を掲げてみせた。

「…………どういうことですか」

 声をワントーン下げて応えた瞳子は、不信感に満ちあふれている。山根は険のある彼女の対応を、いつもの猫なで声で気づかなかったように振る舞った。

「借金の件で、新しく分かったこともあるんだ。立ち話できることでもないから、ちょっとお邪魔させてくれない?」

「でしたら、近くにファミレスがありますので」

 突き放すように、にべもなく冷たく言った。話を聞くだけありがたいと思ってほしい。その反面、「新しく分かったこと」に引っかかりを覚えたのも事実だった。

 自宅から徒歩でもさほど遠くないレストランに二人は入った。奥まったボックス席に腰かける。

「昨晩から外出してたみたいだけど、どこ行ってたの?」

 アイスコーヒーを頼んだところで、山根は切りだした。瞳子の顔が顰(しか)められ、険のある声になる。

「ひょっとして……わたしのこと見張ってますか? 昨日の夜、電話してきただけじゃなくて、家にも来たってことですか?」

「見張ってるとか、そういうんじゃなくて、あんな治安の悪そうなアパートに一人暮らしだから、近くに来る用事があるときは、ちょっと前を通ってるだけだよ」

「その割に、この前のときは、無理やり開けようとしたじゃないですか。さっさと本題に入ってください」

「すぐ話すから、昨晩どこにいたかぐらい教えてよ。心配してたんだよ」

 ――心配? どの口が言ってるわけ。バカバカしい。

 瞳子は、乾いた皮肉笑いを浮かべた。

「大学の友達の家で、中間レポートです」

 ――バーカ。せいぜい騙されろ。あんたに本当のことなんて、絶対に言わない。

 しかし山根も、粘ついた笑顔を崩さない。この雑談を、楽しんでいるようにさえ見える。

「学生さんも結構、大変なんだね」

「別に、普通のことですから」

「まずさ、僕もこの前のこと申し訳ないなって気持ちもあって、瞳子ちゃんのこと気にかけているんだ。世界に出ていける実績があった子なのに、今あんな生活をしていて辛いんだろうなって思うよ」

 訳知り顔に山根が話しはじめた瞬間、うんざりしてたまらなくなった。

 同情されるような言葉は、もう誰からも聞きたくない。特にこんな、彼女の過去を利用してドブに沈めようというゲスな人間からは。

 苛立ちのまま鼻に皺をよせ、邪険に手を振って彼女は話をさえぎった。四〇代前後とおぼしき山根に対しては、失礼すぎる振る舞いである。分かっていて、あえて無礼な態度をとった。

「そーゆーの、もういいですから。本題と、先日の完済証明書をお願いします」

「書類は、いま作ってもらっている途中」

「もう二週間も経ってるんですけど」

「あとは君のお母さんのもう一つの借金、というか、債権だね。ウチも最近他所よそから手に入れたものだから、精査しているところ」

「他所ってどこですか? わたしが直接問い合わせますから、会社名とか関係者名教えてください」

「それは言えないな。だから、今日は提案があって来たんだ」

「提案?」

「ウチの会社の支援を受けない? 支援っていうのは、お金とか貸すよって意味なんだけど」

「………は? 意味分かんないです。わたし今、あなた方への借金返しおわって、バイトもあるし、学費も困ってないです」

「でも瞳子ちゃん、国際関係学科だっけ? 語学力もあるんだろうし、留学とかしたいでしょ? 医療費だってまだかかってるの、僕は知ってるよ。お金、本当はもっと稼ぎたいんじゃない? いま大学三年なら就職活動をするにしても、スーツ買ったり交通費だったり、お金かかるよ」

「…………」

 つけこまれたくなければ、即座に椅子を蹴って席を立たなければいけなかった。なのに出来なかった。彼の指摘はすべて事実だったからだ。

 彼女の苦い沈黙を、山根は利用した。

「だからさ、アルバイト代わりに、週一とかでもウチの会社の撮影に協力してくれないかな。パン工場の一〇倍は出せるよ。それに働くとかじゃなくても、僕だったら個人的に君におこづかいあげられるし」

「…………」

 ――さっきから黙って聞いてれば。

 瞳子は胃の底からフツフツと怒りが湧きあがってくるのを感じた。

 一度でも誘いにのってしまったら、後は脅しと惰性のままズブズブに沈められてしまう。そして身体を搾取されて、永遠にセックス産業で生きつづけることになる。冷笑して、手元のアイスコーヒーを一口だけ啜った。

「話になりませんね。お断りします」

 伝票を手に立とうとすると、彼女の細い手首を山根がつかんだ。

 咄嗟に振り払おうとする。だが、力が強くて振りほどけない。睨みつけると、山根もまた下から薄笑いで見つめていた。

「瞳子ちゃん、その自信はどこからくるの? お金ないのは本当でしょう。バレエとも縁切りして、君が頼れる大人なんて、そうそういない筈だよね。それとも、誰かパトロンでも見つけたかな? この前の五〇〇万は、新しいパパが支払ってくれたの? バレエしててもしてなくても、大人のオジサンに取り入るのが上手いんだね」

 好色で下卑た眼差しが、彼女を侮辱していた。
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