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《第5章》 ロットバルトの憂鬱
彼とナコちゃん
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瞳子のスマートフォンに「あと一〇分で着く」とメッセージが入ったのは、翌日の昼前だった。
昨晩は遅くまで女子会という名の酒盛りをしていたのを、彼は見越していたようだ。神楽坂を出る前にも電話をかけてきて、「今から行って大丈夫か?」と確認をしてきた。
「わたしたち信用ないね」と寝起きで腫れぼったい目をこすりながら奈津子に話しかけると、「いや、朝弱いの瞳子だけだから」と、にべもない返事がかえってくる。普段は土日も練習がある奈津子は、今日も一〇時には起きだしていた。
ほどなくして「着いた。駐車場かりた。何階?」とメールが来ると、瞳子は「ちょっと迎え行ってくる!」と部屋を出た。
五階の奈津子の部屋から階段をおりる。三階の踊り場をすぎたところで、下から響く足音があった。待ちきれずに足をはやめると、二階にさしかかる手前で彼と行きあった。
「おはよ、飛豪さん」
「うわ、眠そ」喉の奥で彼はクククと笑っていた。「昨日何時まで起きてたんだよ」
「三時くらい?」
あれ、と瞳子は気づいた。彼と目線が同じ高さにある。一段上に立つと、ちょうど良くなるようだ。新しい発見に嬉しくなってにっこりすると、後頭部にすっと手が伸びてきた。有無をいわさず顔を寄せられた。
ささやかに唇が軽くふれあった程度の、なんてことのないキス。しかし、彼女を動揺させるには充分だった。
「ちょっ……ここ、公共の場ですから! なに考えてんの?」
「なにって、挨拶。チャンスあったし。……目ぇさめた顔になったじゃん」
してやったり顔をして、唇の端をちろりと舐めた飛豪を、瞳子は全力で押し戻した。
その悪びれない顔は、夜に誘いかけてくる時の表情そのものだ。彼のセクシャルな気配にあてられて、瞬間的にカッと体が熱くなる。突き上げられた時のように、ずくんと体の芯が疼いた。しかし彼は飄々としていて、どこ吹く風である。
「まぁいいや、早くナコちゃんに会わせて」
――何この人! 腹立つなぁ。
ひとのスイッチを勝手に押しておいて、無造作で呑気そうにしている彼にムカっ腹がたつ。
無言で足音荒く階段をのぼりはじめた瞳子の背中に、飛豪は「なんか怒ってる?」と逆撫でするような調子で言ってくる。彼女はただ足を速めて、ハイスピードで上っていった。
――三十路のオジサン、息切れしちゃえ。
意地悪く思っていたのに、彼は涼しい顔で二段飛ばしをしている。奈津子の部屋についたとき、呼吸が乱れていたのは瞳子のほうだった。
チャイムを押すと、ややあってから扉が開いた。眉毛だけ描いた奈津子が顔をのぞかせ、友人の背後に立っている飛豪のほうへ、すいと視線を動かした。
「ナコちゃん。えっと……紹介するね。こちらが飛豪さん。わたしが先月からお世話になってる人。――そして」瞳子はくるりと振りかえった。「飛豪さん、わたしの友達の塚田奈津子さんです。一年のときの必修が同じで、それで……」
途中で奇妙な気配に気づいて、言葉がとまった。
飛豪と奈津子が、じっと見つめあっている。敵意とか一目惚れとか、そんな体温の高い感情ではなさそうだけれど――。
「…………」
「…………」
なんだろう、この不思議な沈黙は。やがて、奈津子がニッと人懐こい笑みをつくった。
「ちわっす!」部活の先輩にするように、彼女は軽い挨拶をしてペコリと頭をさげた。
「どうも」飛豪もとってつけたような態度で応じた。
「せっかくだし、コーヒーでも飲んできます?」
「いや。もうお互い目的は果たしたよね。女性の部屋にお邪魔するのも悪いから、帰るよ。良かったら、これ食べて」
と、彼は自宅近くの有名パティスリーの紙袋をずいと差し出した。
「あ、嬉しい。ありがとうございます!」
流れから置き去りにされていたのは瞳子だ。頭上を素通りしてポンポンと交わされる小気味よい会話に、ついていけない。あっけにとられて、奈津子にだけ聞こえる声量で問いかけた。
「え、ナコちゃん……もういいの? 昨晩あんなに気にしてたじゃん」
「うん。大体分かった」彼女は明るく返した。
昨晩は遅くまで女子会という名の酒盛りをしていたのを、彼は見越していたようだ。神楽坂を出る前にも電話をかけてきて、「今から行って大丈夫か?」と確認をしてきた。
「わたしたち信用ないね」と寝起きで腫れぼったい目をこすりながら奈津子に話しかけると、「いや、朝弱いの瞳子だけだから」と、にべもない返事がかえってくる。普段は土日も練習がある奈津子は、今日も一〇時には起きだしていた。
ほどなくして「着いた。駐車場かりた。何階?」とメールが来ると、瞳子は「ちょっと迎え行ってくる!」と部屋を出た。
五階の奈津子の部屋から階段をおりる。三階の踊り場をすぎたところで、下から響く足音があった。待ちきれずに足をはやめると、二階にさしかかる手前で彼と行きあった。
「おはよ、飛豪さん」
「うわ、眠そ」喉の奥で彼はクククと笑っていた。「昨日何時まで起きてたんだよ」
「三時くらい?」
あれ、と瞳子は気づいた。彼と目線が同じ高さにある。一段上に立つと、ちょうど良くなるようだ。新しい発見に嬉しくなってにっこりすると、後頭部にすっと手が伸びてきた。有無をいわさず顔を寄せられた。
ささやかに唇が軽くふれあった程度の、なんてことのないキス。しかし、彼女を動揺させるには充分だった。
「ちょっ……ここ、公共の場ですから! なに考えてんの?」
「なにって、挨拶。チャンスあったし。……目ぇさめた顔になったじゃん」
してやったり顔をして、唇の端をちろりと舐めた飛豪を、瞳子は全力で押し戻した。
その悪びれない顔は、夜に誘いかけてくる時の表情そのものだ。彼のセクシャルな気配にあてられて、瞬間的にカッと体が熱くなる。突き上げられた時のように、ずくんと体の芯が疼いた。しかし彼は飄々としていて、どこ吹く風である。
「まぁいいや、早くナコちゃんに会わせて」
――何この人! 腹立つなぁ。
ひとのスイッチを勝手に押しておいて、無造作で呑気そうにしている彼にムカっ腹がたつ。
無言で足音荒く階段をのぼりはじめた瞳子の背中に、飛豪は「なんか怒ってる?」と逆撫でするような調子で言ってくる。彼女はただ足を速めて、ハイスピードで上っていった。
――三十路のオジサン、息切れしちゃえ。
意地悪く思っていたのに、彼は涼しい顔で二段飛ばしをしている。奈津子の部屋についたとき、呼吸が乱れていたのは瞳子のほうだった。
チャイムを押すと、ややあってから扉が開いた。眉毛だけ描いた奈津子が顔をのぞかせ、友人の背後に立っている飛豪のほうへ、すいと視線を動かした。
「ナコちゃん。えっと……紹介するね。こちらが飛豪さん。わたしが先月からお世話になってる人。――そして」瞳子はくるりと振りかえった。「飛豪さん、わたしの友達の塚田奈津子さんです。一年のときの必修が同じで、それで……」
途中で奇妙な気配に気づいて、言葉がとまった。
飛豪と奈津子が、じっと見つめあっている。敵意とか一目惚れとか、そんな体温の高い感情ではなさそうだけれど――。
「…………」
「…………」
なんだろう、この不思議な沈黙は。やがて、奈津子がニッと人懐こい笑みをつくった。
「ちわっす!」部活の先輩にするように、彼女は軽い挨拶をしてペコリと頭をさげた。
「どうも」飛豪もとってつけたような態度で応じた。
「せっかくだし、コーヒーでも飲んできます?」
「いや。もうお互い目的は果たしたよね。女性の部屋にお邪魔するのも悪いから、帰るよ。良かったら、これ食べて」
と、彼は自宅近くの有名パティスリーの紙袋をずいと差し出した。
「あ、嬉しい。ありがとうございます!」
流れから置き去りにされていたのは瞳子だ。頭上を素通りしてポンポンと交わされる小気味よい会話に、ついていけない。あっけにとられて、奈津子にだけ聞こえる声量で問いかけた。
「え、ナコちゃん……もういいの? 昨晩あんなに気にしてたじゃん」
「うん。大体分かった」彼女は明るく返した。
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