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獣人の国編
戦禍の巨獣、沈黙す――氷葬極環《アイス・エリュシオン》
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振り下ろされようとした斧皇裂刃の構え――その手元を、鋭い氷矢が穿った。
「――氷風穿矢!」
白藍の閃光が直線を走り、巨腕に突き刺さる。
爆ぜる氷気が瞬く間に戦斧の柄ごと凍り付かせた。
バルグは咆哮し、片腕を無理やり振り抜く。
凍結した氷が砕け散り、破片が無数の刃となって地を抉った。
――だがその巨眼が捉えたはずのセレスティナは、すでにそこにいない。
「……っ!」
視線を振り向けた瞬間、背後からまた矢が閃く。
彼女は紋を踏み、転位結晶陣で後背へ移動していたのだ。
放たれる矢が大気を切り裂き、巨体の脚部を凍てつかせる。
「がぁぁぁッ!」
バルグは戦斧を振り回し、氷を粉砕しながら背を翻す。
しかし、振り返った先に再びセレスティナの姿はない。
「――こちらです」
淡い声と共に、別の角度から氷矢が撃ち込まれる。
腕、脚、肩、背。次々と部位を凍らされる巨獣は、砕いても砕いても、再び別の部位を凍結させられ、完全に翻弄されていた。
斧皇の巨威は振るわれぬまま、ただ氷を砕く破砕音ばかりが戦場に響く。
セレスティナの魔法は決して致命を与えるものではなかった。
だが、その目的はただ一つ――。
「……奴を足止めしている間に、私は……」
朧は既に影を伝い、戦場を巡っていた。
静寂を纏った彼の手には、銀環が淡く脈打っている。
――鳴心環。
拍を整えるように、彼は一つの環を地に置き、指で紋を描く。
環は心臓の鼓動のように小さく鳴動し、青白い光を広げた。
「ひとつ……」
影へと再び沈み、彼は次の地点へ移る。
六つの座標。その中心にバルグを閉じ込めるための大陣を描くのだ。
だが設置は容易ではない。
鳴心環はただ置くだけでは力を示さない。
そこに宿る“拍”を整え、大地の律動と響かせなければならない。
そのわずかな時間ですら、この戦場では命取りだ。
「……今はただ、あの娘に託すのみ」
セレスティナの矢がまた炸裂する。
氷の鎖が巨獣の四肢を縛り、砕かれるたびに粉雪の霧が舞った。
バルグは翻弄され、足を止めざるを得ない。
その間に――二つ目の鳴心環が設置される。
影の中で息を整え、朧は低く呟いた。
「残り、四つ……」
巨獣の咆哮が大地を揺らし、氷片の飛沫が刃となって散る。
その只中で、セレスティナは唇を噛み締め、再び弓弦を引いた。
「時間を……稼がなければ……!」
――轟音。
振り下ろされた戦斧の衝撃波が、大地をえぐり裂いた。
星紋が砕け散る寸前、セレスティナは咄嗟に身を翻し転移を完了する。
しかし逃げ切れはしなかった。振動が全身を叩き、爆風に煽られて弓ごと吹き飛ばされる。
「っ……!」
身体が土に叩き付けられ、肺から息が抜ける。
脛に鋭い痛みが走った。
転げながらも必死に立ち上がるセレスティナ。
その膝は震え、足首は血で濡れていた。
「セレスティナ殿!」
朧の叫びが響く。
影を伝い飛び出そうとした彼を、次の瞬間、無数の光矢が遮った。
「ダメです……なりません!」
声は弱くとも、その矢の雨は凛としていた。
光矢雨が放たれ、バルグの足元を叩く。
大地に光の杭が突き立ち、巨獣の足取りを一瞬鈍らせる。
セレスティナは血の滲む足を押さえもせず、弓を再び構えた。
必死に、ただ必死に、彼女は時間を稼ぎ続けている。
「……っ!」
朧は奥歯を噛みしめた。
彼女の放つ矢がなければ、自分が設置する鳴心環など夢物語だ。
ここで止まれば――その覚悟が、無駄になる。
「ならば……拙者はただ、前を見て走るのみ!」
影が走り、三つ目に続き、四つ目の環が大地に沈む。
青白い拍動が土中に響き、環が鼓動するたびに大地そのものが脈を刻むようだった。
一方、セレスティナ。
先の一撃で悟った。
バルグは転移の仕組みを見抜いた――星紋を狙っている。
ならば、と彼女は弓を強く握り、唇を噛んだ。
「一か所では狙われる……なら、惑わせればいい」
矢を番えると同時に、五つの転位結晶陣が花弁のように散り展開する。
淡い星光が五方に広がり、それぞれが彼女の可能性を映し出す。
――次の瞬間、セレスティナはその中の一つに身を移した。
バルグは吼え、巨斧を掲げる。
「ぐぅぉぉおおおっ!」
勘と直感を頼りに、一つの星紋を選び、戦斧を振り下ろした。
衝撃波が天地を割り、その地帯を粉砕する。
だが、そこには――誰もいなかった。
「外れです」
静かな声が、背後から響いた。
氷の冷気を纏った矢が疾風のように飛ぶ。
氷風穿矢――。
矢はバルグの肩口を凍らせ、巨体を再び白に縛る。
「ぬうううッ!」
砕け散る氷片と共に巨獣が吠える。
その巨声の中で、セレスティナの瞳は決して揺らがなかった。
セレスティナは知っていた。
自分が、弱いということを。
――バニッシュには届かない。
彼の緻密な魔法理論も、積み重ねた実戦の経験も、自分にはない。
――リュシアにも届かない。
彼女の炎はただの火力ではない。心から迸る激情が、魔を薙ぎ払う剛烈な力となる。
古代魔法を使える自分。
だがそれだけでは、彼らに追いつけない。
肩を並べて歩むには、まだ足りない。
ずっと背中を追い続けるだけ。
それを痛感したのは、一度や二度ではなかった。
――魔の森。
フォルに連れられて行った秘密の場所。
そこで襲い掛かった魔獣から、彼を逃がすので精一杯だった。
――エルフェインの戦い。
守りたいと願いながら、結局は何一つ役に立たなかった。
その事実は今でも胸に重くのしかかっている。
「……それでも」
唇を噛み、矢羽を握る。
瞳に浮かぶ涙を振り払い、セレスティナは星紋を散らす。
――追いつきたい。
――肩を並べて歩きたい。
――もう、ただ背を追うだけの自分ではいたくない。
その一心で彼女は新たな力を求め、氷の古代魔法を覚えた。
だが今、それすらも足止めするのが精一杯。
バルグという巨獣の前では、全てが焼け石に水に思えた。
転移――星紋が散りばめられ、彼女の身体が瞬間ごとに移ろう。
氷風穿矢――氷と風を纏わせた矢が放たれる。
巨躯を翻弄し、動きを鈍らせる。
だがその代償はあまりに大きい。
魔力はすでに尽きていた。
それでも無理矢理、己の生命から絞り出す。
骨の髄を削るような痛みに、視界は霞み、呼吸は浅くなる。
「……っ」
足元がふらつく。
怪我をした足からは血が滴り、土を赤く染める。
それでもセレスティナは止まらない。
彼女の矢が止まれば、その瞬間すべてが終わる。
矢を放つたび、身体の芯が削がれていく。
転移するたび、魂の奥底を抉られるような感覚に襲われる。
命を削っていると、分かっている。
それでも――
「止まれない……!」
か細い声。だがその眼差しは確かに、巨獣を睨み据えていた。
――その姿を、朧は視界の端で見ていた。
五つ目の鳴心環が、地に沈み、青白い鼓動を放つ。
あと一つ。それで全てが繋がり、奴に対抗する術が完成する。
だが時間が足りない。
セレスティナの魔力は、もう限界を越えている。
今にも倒れそうな足取りで、それでも彼女は矢を番え続ける。
焦りに喉が灼けそうになる。
影走りの冷静さを誇る朧でさえ、唇を噛み、己の無力を呪う。
――それでも彼は足を止めなかった。
「セレスティナ殿……! 必ず繋げまする!」
歯を食いしばり、六つ目の地点へと疾走する。
その背中を押すのは、今にも崩れそうになりながらも決して折れぬ少女の矢だった。
セレスティナの命を削る一射一射が、彼に最後の一歩を刻ませていた。
戦場を揺らすのは、戦禍の巨獣バルグの咆哮。
瀕死のはずの相手に弄ばれたという怒りが、その胸奥から噴き出す。
黒鉄の甲冑に響く低い唸りは次第に膨れ上がり、やがて天地を震わせる獣声となった。
その時だった。
セレスティナが転移した残光と、影に紛れていた朧の動きが、偶然にも重なった。
いままで気配を絶っていた朧――その存在に、バルグの血走った瞳が捉えたのだ。
「……ッ!」
朧の背筋に冷たいものが走る。
――気付かれた。
最後の鳴心環を設置するため、彼は地に膝をつき、鼓動を刻む環を静かに据えようとしていた。
だが、そこで目が合ってしまった。
巨獣の視線は刃そのもの。
標的はセレスティナから、完全に朧へと切り替わる。
「まずい……!」
声にならぬ呻きと共に、朧の指先は止まらない。
鳴心環の設置には拍を整える繊細な作業が必要だ。
一度でも中断すれば、これまでの苦労が水泡に帰す。
セレスティナも、その変化に気付いていた。
氷風穿矢を即座に番え、放つ。
だが、怒りに燃えるバルグは意に介さぬ。
迫り来る矢をその身に受け、氷を砕きながら戦斧を振り上げる。
――斧皇裂刃。
その構えを見た瞬間、セレスティナの血の気が引いた。
このままでは朧が討たれる。鳴心環は未完成。全てが終わる。
ふらつく身体で、彼女は迷わず星紋へと跳ぶ。
転移の先は、バルグの真正面。
「セレスティナ殿! なりませぬ!」
朧の叫びも虚しく、彼女は己の身を盾とした。
振り下ろされた戦斧――その軌道を、ほんのわずかに逸らす。
「くっ……!」
衝撃が彼女の身体を貫き、血が宙を舞う。
セレスティナは倒れ込み、その場に崩れた。
だが、その一瞬のずれが命を繋ぐ。
斧皇裂刃の刃筋は逸れ、朧の横を掠めていった。
轟音と共に大地が抉れ、砂塵が舞い上がる。
歯を食いしばり、耐える朧。
その衝撃の中でも、彼は最後の鳴心環を据え置いた。
「……完了ッ!」
震える声で叫び、朧は振り返る。
セレスティナは血に濡れながら、それでも薄い微笑みを浮かべていた。
「……私に……かまわず……はやく……」
絞り出すような声。
その覚悟に、朧の胸が熱くなる。
「ふざけるな! 我が仲間を見捨ててなど行けるものか!」
バルグは倒れ伏す彼女に狙いを定め、戦斧を振り上げる。
朧は即座にスキルを発動した。
「――影命!」
闇から分身体が飛び出す。
三体がバルグの腕、胴、足に取り付き、残る五体が鋼を編み込んだ糸でその巨体を縛り上げる。
本体はセレスティナを抱きかかえ、後方へと飛ぶ。
だが、相手は巨獣。
次の瞬間、圧倒的な膂力が分身も糸も薙ぎ払い、戦斧が振り下ろされた。
「……ッぐぅう!」
斬撃を背で受け、鮮血を吐きながらも、朧は吹き飛ばされる勢いを利用して離脱に成功する。
抱えていたセレスティナはその腕から零れ落ち、二人して地面を転がった。
視界が霞む。呼吸が荒い。
だが――まだ終わらせるわけにはいかない。
「……無駄には、せぬ……!」
這うようにして立ち上がり、鳴心環に手を添える。
――その瞬間。
六つの環が、互いの拍を響かせ始めた。
脈動は波紋のように広がり、やがて一つの陣を描き出す。
「六芒陣……」
大地に刻まれるのは、光の星紋。
その中心に、巨獣バルグの影が立つ。
「これが……我らの勝利だッ!」
朧の叫びと共に、陣が輝きを増した。
拍が共鳴し、地鳴りのような振動が戦場全体を包み込む。
六芒星の中心で、光と影と音が重なり合い――爆発的な衝撃柱が立ち昇った。
それは防御も装甲も関係なく、内部を破壊する凶烈な共振の力。
「グォオオオオオオオオオオオオッ!」
巨獣の咆哮が大地を裂く。
衝撃の柱はバルグを飲み込み、振動はその肉体を内側から砕き続けた。
戦場全体が、その轟きと閃光に覆われた。
大地を揺らした共振の残光が、ようやく収まっていった。
光柱が消えた戦場には、焼け爛れた土と崩れた瓦礫の匂いが漂っている。
その中心に――まだ立っている影があった。
「……っ」
朧の喉から、乾いた音が漏れる。
そこに立つのは、戦禍の巨獣バルグ。
鎧は無残にひび割れ、ところどころ崩れ落ちていた。
鋼の断片が土に散らばり、肉を覆うはずの鉄壁はほとんど原形をとどめていない。
それでも、その巨体は倒れなかった。
「ば、ばかな……」
共振――鳴心環の六芒星は、あらゆる装甲を内部から砕く切り札。
それですら、バルグを屠ることはできなかった。
影走りたちはざわめき、朧の背筋に冷たい絶望が走る。
その時、バルグの眼光が赤く光った。
赤き輝きは怒りと屈辱にどす黒く染まり、戦場を射抜く。
その目に宿るのは、獲物を最後まで狩り殺そうとする狂気。
「……ッ!」
バルグは吼えるように息を吐き、両手で戦斧を振りかぶった。
その動きはゆるやかでありながら、誰の目にもわかる――最大にして最高の威力。
すべてを叩き割る必殺の一撃。
「斧皇裂刃……」
朧は、死を悟った。
既に身を守る影すら残っていない。
ここまでか――その覚悟を飲み込んだ瞬間だった。
――天より、光が降り注いだ。
それは白き霜を伴い、雪解けにも似た冷たい気配を抱いていた。
淡青の輝きが戦場を染め、空に広がる巨大な魔法陣が浮かび上がる。
「こ、これは……!」
淡青の魔法陣は、鳴心環の描き出した六芒星すら霞むほどに巨大だった。
その中心に立つのは、血に濡れ、傷つき、なお立ち上がったひとりの少女。
セレスティナ。
すでに魔力は尽きているはずだった。
だが彼女は最後の最後に――仲間を守るためだけに残していた。
古代に伝わる大魔法。
「――氷葬極環!」
かすれた声が戦場に響き渡る。
瞬間、天空から奔流のように霜が降り注いだ。
バルグの巨体に突き刺さり、全身を白き氷に閉じ込めていく。
「グオオオオオッ!!」
最後の咆哮が、空を裂いた。
斧皇裂刃の構えを取ったまま、その巨腕は凍り付く。
怒りも、屈辱も、全てを宿した眼光が最後まで輝きを放っていた。
だが――その光も、やがて氷の中で静かに消えた。
戦場に残ったのは、氷柱と化した巨獣の姿。
その咆哮の余韻が、凍てつく風と共に虚空に散っていく。
「……勝った……のか」
影走りたちの誰かが、震える声で呟いた。
やがてその声が連鎖のように広がり、喜びの叫びへと変わる。
黒の勇者の兵たちはその光景を見て戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
朧は膝を折り、かろうじて意識をつなぐ。
視線の先では、セレスティナがその場に崩れ落ちていた。
「セレスティナ殿!」
駆け寄ろうとしたが、全身が痛み、すぐには動けない。
代わりに影走りたちが駆けつけ、彼女を支えた。
セレスティナは苦しげに息を吐きながらも、微笑を浮かべた。
その眼差しには、もう怯えも迷いもなかった。
「……やっと、少しは……肩を並べられた、でしょうか……」
その声は、かすかに震えていたが、確かな誇りを宿していた。
影走りたちはその言葉を聞き、深く頭を垂れた。
「かたじけない……」
「あなたのおかげで……」
感謝と安堵の言葉が次々に口をつく。
彼らは朧とセレスティナを慎重に抱え上げ、救護隊のもとへと急いだ。
凍り付いた巨獣の残骸を背に――。
戦場に吹く風は冷たかったが、その冷たさは勝利を告げる静けさでもあった。
「――氷風穿矢!」
白藍の閃光が直線を走り、巨腕に突き刺さる。
爆ぜる氷気が瞬く間に戦斧の柄ごと凍り付かせた。
バルグは咆哮し、片腕を無理やり振り抜く。
凍結した氷が砕け散り、破片が無数の刃となって地を抉った。
――だがその巨眼が捉えたはずのセレスティナは、すでにそこにいない。
「……っ!」
視線を振り向けた瞬間、背後からまた矢が閃く。
彼女は紋を踏み、転位結晶陣で後背へ移動していたのだ。
放たれる矢が大気を切り裂き、巨体の脚部を凍てつかせる。
「がぁぁぁッ!」
バルグは戦斧を振り回し、氷を粉砕しながら背を翻す。
しかし、振り返った先に再びセレスティナの姿はない。
「――こちらです」
淡い声と共に、別の角度から氷矢が撃ち込まれる。
腕、脚、肩、背。次々と部位を凍らされる巨獣は、砕いても砕いても、再び別の部位を凍結させられ、完全に翻弄されていた。
斧皇の巨威は振るわれぬまま、ただ氷を砕く破砕音ばかりが戦場に響く。
セレスティナの魔法は決して致命を与えるものではなかった。
だが、その目的はただ一つ――。
「……奴を足止めしている間に、私は……」
朧は既に影を伝い、戦場を巡っていた。
静寂を纏った彼の手には、銀環が淡く脈打っている。
――鳴心環。
拍を整えるように、彼は一つの環を地に置き、指で紋を描く。
環は心臓の鼓動のように小さく鳴動し、青白い光を広げた。
「ひとつ……」
影へと再び沈み、彼は次の地点へ移る。
六つの座標。その中心にバルグを閉じ込めるための大陣を描くのだ。
だが設置は容易ではない。
鳴心環はただ置くだけでは力を示さない。
そこに宿る“拍”を整え、大地の律動と響かせなければならない。
そのわずかな時間ですら、この戦場では命取りだ。
「……今はただ、あの娘に託すのみ」
セレスティナの矢がまた炸裂する。
氷の鎖が巨獣の四肢を縛り、砕かれるたびに粉雪の霧が舞った。
バルグは翻弄され、足を止めざるを得ない。
その間に――二つ目の鳴心環が設置される。
影の中で息を整え、朧は低く呟いた。
「残り、四つ……」
巨獣の咆哮が大地を揺らし、氷片の飛沫が刃となって散る。
その只中で、セレスティナは唇を噛み締め、再び弓弦を引いた。
「時間を……稼がなければ……!」
――轟音。
振り下ろされた戦斧の衝撃波が、大地をえぐり裂いた。
星紋が砕け散る寸前、セレスティナは咄嗟に身を翻し転移を完了する。
しかし逃げ切れはしなかった。振動が全身を叩き、爆風に煽られて弓ごと吹き飛ばされる。
「っ……!」
身体が土に叩き付けられ、肺から息が抜ける。
脛に鋭い痛みが走った。
転げながらも必死に立ち上がるセレスティナ。
その膝は震え、足首は血で濡れていた。
「セレスティナ殿!」
朧の叫びが響く。
影を伝い飛び出そうとした彼を、次の瞬間、無数の光矢が遮った。
「ダメです……なりません!」
声は弱くとも、その矢の雨は凛としていた。
光矢雨が放たれ、バルグの足元を叩く。
大地に光の杭が突き立ち、巨獣の足取りを一瞬鈍らせる。
セレスティナは血の滲む足を押さえもせず、弓を再び構えた。
必死に、ただ必死に、彼女は時間を稼ぎ続けている。
「……っ!」
朧は奥歯を噛みしめた。
彼女の放つ矢がなければ、自分が設置する鳴心環など夢物語だ。
ここで止まれば――その覚悟が、無駄になる。
「ならば……拙者はただ、前を見て走るのみ!」
影が走り、三つ目に続き、四つ目の環が大地に沈む。
青白い拍動が土中に響き、環が鼓動するたびに大地そのものが脈を刻むようだった。
一方、セレスティナ。
先の一撃で悟った。
バルグは転移の仕組みを見抜いた――星紋を狙っている。
ならば、と彼女は弓を強く握り、唇を噛んだ。
「一か所では狙われる……なら、惑わせればいい」
矢を番えると同時に、五つの転位結晶陣が花弁のように散り展開する。
淡い星光が五方に広がり、それぞれが彼女の可能性を映し出す。
――次の瞬間、セレスティナはその中の一つに身を移した。
バルグは吼え、巨斧を掲げる。
「ぐぅぉぉおおおっ!」
勘と直感を頼りに、一つの星紋を選び、戦斧を振り下ろした。
衝撃波が天地を割り、その地帯を粉砕する。
だが、そこには――誰もいなかった。
「外れです」
静かな声が、背後から響いた。
氷の冷気を纏った矢が疾風のように飛ぶ。
氷風穿矢――。
矢はバルグの肩口を凍らせ、巨体を再び白に縛る。
「ぬうううッ!」
砕け散る氷片と共に巨獣が吠える。
その巨声の中で、セレスティナの瞳は決して揺らがなかった。
セレスティナは知っていた。
自分が、弱いということを。
――バニッシュには届かない。
彼の緻密な魔法理論も、積み重ねた実戦の経験も、自分にはない。
――リュシアにも届かない。
彼女の炎はただの火力ではない。心から迸る激情が、魔を薙ぎ払う剛烈な力となる。
古代魔法を使える自分。
だがそれだけでは、彼らに追いつけない。
肩を並べて歩むには、まだ足りない。
ずっと背中を追い続けるだけ。
それを痛感したのは、一度や二度ではなかった。
――魔の森。
フォルに連れられて行った秘密の場所。
そこで襲い掛かった魔獣から、彼を逃がすので精一杯だった。
――エルフェインの戦い。
守りたいと願いながら、結局は何一つ役に立たなかった。
その事実は今でも胸に重くのしかかっている。
「……それでも」
唇を噛み、矢羽を握る。
瞳に浮かぶ涙を振り払い、セレスティナは星紋を散らす。
――追いつきたい。
――肩を並べて歩きたい。
――もう、ただ背を追うだけの自分ではいたくない。
その一心で彼女は新たな力を求め、氷の古代魔法を覚えた。
だが今、それすらも足止めするのが精一杯。
バルグという巨獣の前では、全てが焼け石に水に思えた。
転移――星紋が散りばめられ、彼女の身体が瞬間ごとに移ろう。
氷風穿矢――氷と風を纏わせた矢が放たれる。
巨躯を翻弄し、動きを鈍らせる。
だがその代償はあまりに大きい。
魔力はすでに尽きていた。
それでも無理矢理、己の生命から絞り出す。
骨の髄を削るような痛みに、視界は霞み、呼吸は浅くなる。
「……っ」
足元がふらつく。
怪我をした足からは血が滴り、土を赤く染める。
それでもセレスティナは止まらない。
彼女の矢が止まれば、その瞬間すべてが終わる。
矢を放つたび、身体の芯が削がれていく。
転移するたび、魂の奥底を抉られるような感覚に襲われる。
命を削っていると、分かっている。
それでも――
「止まれない……!」
か細い声。だがその眼差しは確かに、巨獣を睨み据えていた。
――その姿を、朧は視界の端で見ていた。
五つ目の鳴心環が、地に沈み、青白い鼓動を放つ。
あと一つ。それで全てが繋がり、奴に対抗する術が完成する。
だが時間が足りない。
セレスティナの魔力は、もう限界を越えている。
今にも倒れそうな足取りで、それでも彼女は矢を番え続ける。
焦りに喉が灼けそうになる。
影走りの冷静さを誇る朧でさえ、唇を噛み、己の無力を呪う。
――それでも彼は足を止めなかった。
「セレスティナ殿……! 必ず繋げまする!」
歯を食いしばり、六つ目の地点へと疾走する。
その背中を押すのは、今にも崩れそうになりながらも決して折れぬ少女の矢だった。
セレスティナの命を削る一射一射が、彼に最後の一歩を刻ませていた。
戦場を揺らすのは、戦禍の巨獣バルグの咆哮。
瀕死のはずの相手に弄ばれたという怒りが、その胸奥から噴き出す。
黒鉄の甲冑に響く低い唸りは次第に膨れ上がり、やがて天地を震わせる獣声となった。
その時だった。
セレスティナが転移した残光と、影に紛れていた朧の動きが、偶然にも重なった。
いままで気配を絶っていた朧――その存在に、バルグの血走った瞳が捉えたのだ。
「……ッ!」
朧の背筋に冷たいものが走る。
――気付かれた。
最後の鳴心環を設置するため、彼は地に膝をつき、鼓動を刻む環を静かに据えようとしていた。
だが、そこで目が合ってしまった。
巨獣の視線は刃そのもの。
標的はセレスティナから、完全に朧へと切り替わる。
「まずい……!」
声にならぬ呻きと共に、朧の指先は止まらない。
鳴心環の設置には拍を整える繊細な作業が必要だ。
一度でも中断すれば、これまでの苦労が水泡に帰す。
セレスティナも、その変化に気付いていた。
氷風穿矢を即座に番え、放つ。
だが、怒りに燃えるバルグは意に介さぬ。
迫り来る矢をその身に受け、氷を砕きながら戦斧を振り上げる。
――斧皇裂刃。
その構えを見た瞬間、セレスティナの血の気が引いた。
このままでは朧が討たれる。鳴心環は未完成。全てが終わる。
ふらつく身体で、彼女は迷わず星紋へと跳ぶ。
転移の先は、バルグの真正面。
「セレスティナ殿! なりませぬ!」
朧の叫びも虚しく、彼女は己の身を盾とした。
振り下ろされた戦斧――その軌道を、ほんのわずかに逸らす。
「くっ……!」
衝撃が彼女の身体を貫き、血が宙を舞う。
セレスティナは倒れ込み、その場に崩れた。
だが、その一瞬のずれが命を繋ぐ。
斧皇裂刃の刃筋は逸れ、朧の横を掠めていった。
轟音と共に大地が抉れ、砂塵が舞い上がる。
歯を食いしばり、耐える朧。
その衝撃の中でも、彼は最後の鳴心環を据え置いた。
「……完了ッ!」
震える声で叫び、朧は振り返る。
セレスティナは血に濡れながら、それでも薄い微笑みを浮かべていた。
「……私に……かまわず……はやく……」
絞り出すような声。
その覚悟に、朧の胸が熱くなる。
「ふざけるな! 我が仲間を見捨ててなど行けるものか!」
バルグは倒れ伏す彼女に狙いを定め、戦斧を振り上げる。
朧は即座にスキルを発動した。
「――影命!」
闇から分身体が飛び出す。
三体がバルグの腕、胴、足に取り付き、残る五体が鋼を編み込んだ糸でその巨体を縛り上げる。
本体はセレスティナを抱きかかえ、後方へと飛ぶ。
だが、相手は巨獣。
次の瞬間、圧倒的な膂力が分身も糸も薙ぎ払い、戦斧が振り下ろされた。
「……ッぐぅう!」
斬撃を背で受け、鮮血を吐きながらも、朧は吹き飛ばされる勢いを利用して離脱に成功する。
抱えていたセレスティナはその腕から零れ落ち、二人して地面を転がった。
視界が霞む。呼吸が荒い。
だが――まだ終わらせるわけにはいかない。
「……無駄には、せぬ……!」
這うようにして立ち上がり、鳴心環に手を添える。
――その瞬間。
六つの環が、互いの拍を響かせ始めた。
脈動は波紋のように広がり、やがて一つの陣を描き出す。
「六芒陣……」
大地に刻まれるのは、光の星紋。
その中心に、巨獣バルグの影が立つ。
「これが……我らの勝利だッ!」
朧の叫びと共に、陣が輝きを増した。
拍が共鳴し、地鳴りのような振動が戦場全体を包み込む。
六芒星の中心で、光と影と音が重なり合い――爆発的な衝撃柱が立ち昇った。
それは防御も装甲も関係なく、内部を破壊する凶烈な共振の力。
「グォオオオオオオオオオオオオッ!」
巨獣の咆哮が大地を裂く。
衝撃の柱はバルグを飲み込み、振動はその肉体を内側から砕き続けた。
戦場全体が、その轟きと閃光に覆われた。
大地を揺らした共振の残光が、ようやく収まっていった。
光柱が消えた戦場には、焼け爛れた土と崩れた瓦礫の匂いが漂っている。
その中心に――まだ立っている影があった。
「……っ」
朧の喉から、乾いた音が漏れる。
そこに立つのは、戦禍の巨獣バルグ。
鎧は無残にひび割れ、ところどころ崩れ落ちていた。
鋼の断片が土に散らばり、肉を覆うはずの鉄壁はほとんど原形をとどめていない。
それでも、その巨体は倒れなかった。
「ば、ばかな……」
共振――鳴心環の六芒星は、あらゆる装甲を内部から砕く切り札。
それですら、バルグを屠ることはできなかった。
影走りたちはざわめき、朧の背筋に冷たい絶望が走る。
その時、バルグの眼光が赤く光った。
赤き輝きは怒りと屈辱にどす黒く染まり、戦場を射抜く。
その目に宿るのは、獲物を最後まで狩り殺そうとする狂気。
「……ッ!」
バルグは吼えるように息を吐き、両手で戦斧を振りかぶった。
その動きはゆるやかでありながら、誰の目にもわかる――最大にして最高の威力。
すべてを叩き割る必殺の一撃。
「斧皇裂刃……」
朧は、死を悟った。
既に身を守る影すら残っていない。
ここまでか――その覚悟を飲み込んだ瞬間だった。
――天より、光が降り注いだ。
それは白き霜を伴い、雪解けにも似た冷たい気配を抱いていた。
淡青の輝きが戦場を染め、空に広がる巨大な魔法陣が浮かび上がる。
「こ、これは……!」
淡青の魔法陣は、鳴心環の描き出した六芒星すら霞むほどに巨大だった。
その中心に立つのは、血に濡れ、傷つき、なお立ち上がったひとりの少女。
セレスティナ。
すでに魔力は尽きているはずだった。
だが彼女は最後の最後に――仲間を守るためだけに残していた。
古代に伝わる大魔法。
「――氷葬極環!」
かすれた声が戦場に響き渡る。
瞬間、天空から奔流のように霜が降り注いだ。
バルグの巨体に突き刺さり、全身を白き氷に閉じ込めていく。
「グオオオオオッ!!」
最後の咆哮が、空を裂いた。
斧皇裂刃の構えを取ったまま、その巨腕は凍り付く。
怒りも、屈辱も、全てを宿した眼光が最後まで輝きを放っていた。
だが――その光も、やがて氷の中で静かに消えた。
戦場に残ったのは、氷柱と化した巨獣の姿。
その咆哮の余韻が、凍てつく風と共に虚空に散っていく。
「……勝った……のか」
影走りたちの誰かが、震える声で呟いた。
やがてその声が連鎖のように広がり、喜びの叫びへと変わる。
黒の勇者の兵たちはその光景を見て戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
朧は膝を折り、かろうじて意識をつなぐ。
視線の先では、セレスティナがその場に崩れ落ちていた。
「セレスティナ殿!」
駆け寄ろうとしたが、全身が痛み、すぐには動けない。
代わりに影走りたちが駆けつけ、彼女を支えた。
セレスティナは苦しげに息を吐きながらも、微笑を浮かべた。
その眼差しには、もう怯えも迷いもなかった。
「……やっと、少しは……肩を並べられた、でしょうか……」
その声は、かすかに震えていたが、確かな誇りを宿していた。
影走りたちはその言葉を聞き、深く頭を垂れた。
「かたじけない……」
「あなたのおかげで……」
感謝と安堵の言葉が次々に口をつく。
彼らは朧とセレスティナを慎重に抱え上げ、救護隊のもとへと急いだ。
凍り付いた巨獣の残骸を背に――。
戦場に吹く風は冷たかったが、その冷たさは勝利を告げる静けさでもあった。
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