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縁の決戦編
少年と無表情の姫
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夢中で食べ尽くした皿の数々は、気づけば跡形もなく片づけられていた。
満腹と安堵の息をひとつ吐き、少年はぼんやりと手元を見つめる。
「それでは、こちらのお召し物にお着替えください」
初老の執事の低く柔らかい声が響いた。
少年が顔を上げると、執事が横に手をスッと向ける。
その隣にいた別の執事が、小さく折りたたまれた服を恭しく差し出してきた。
机の上へそっと置かれる衣服。
その生地は上質で、見ただけで温かさが伝わってくる。
「お脱ぎになられた衣服はそちらの籠へお願いいたします」
初老の執事は淡々と言い、胸に手を当てて一礼する。
「それでは、失礼いたします」
扉が静かに閉まった。
静まり返った部屋に、少年は着せられる服をじっと見つめる。
(また閉じ込められた……でも)
濡れた服が肌に張り付き、体温を奪い続けている。
それだけで、寒さが骨まで染み込むようだった。
(着替えたほうが……いいよな)
もう抵抗する余裕もない。
少年はおそるおそる服に手を伸ばし、濡れた衣服を脱いでいく。
用意された服は、深い海の色を思わせる青。
道着に似た上着とズボンの組み合わせで、白い縁取りが静かな気品を宿している。
ズボンの紐をぎゅっと締めると――驚くほど身体に馴染んだ。
(ちょうど……いい)
それだけではない。
生地は、かつて自分が着ていた粗末な布とはまるで違う。
指先が滑るようななめらかさ。それでいて厚みがあり、頼もしさすら感じる。
不思議と重さを感じないのに、身を包むとしっかりと守られているような感覚があった。
ふと光が射した時――服の表面は、きらりと鱗のように輝いた。
(……なんだ、この素材?)
軽いのに強そうで、冷たいのに暖かい。
海の都らしい神秘を宿す服。
少年はしばらく袖を撫でていたが、やがて椅子に腰を下ろし、息を整えた。
他にすることもなく、じっと扉を見つめる。
先ほどまで濡れて震えていた身体も、服に包まれて少し落ち着いた。
だが、胸の奥の緊張は消えない。
この先、自分はどうなるのか――不安と期待が入り混じるまま、少年は静かに、来る者を待った。
どれほど待っただろうか。
静寂を破るように――コン、コン、と扉が叩かれる。
「失礼いたします」
音もなく扉が開き、初老の執事が入室した。
「お着替えはお済みになられたでしょうか?」
その視線が少年の全身を静かに確認する。
青い道着に袖を通し、濡れた痕跡もなくなった少年の姿――そして、少年の表情が、さっきまでとは違っていることにも。
恐怖、困惑で張り詰めていた顔は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「では、こちらへ」
初老の執事は控えめな仕草で、部屋の外へと促す。
少年は無言で頷き、席を立った。
扉の外に出ると、長く広い廊下が続いている。
水晶灯が壁に整然と並び、水面のような光を床へ揺らしていた。
初老の執事はゆっくりと歩みを進め、少年はその後をついていく。
最初にここへ来たときのように、恐怖に駆られて問いかけることはしなかった。
どれほど不安でも、流れは止まらない。
だから今は――少しだけ信じてみようと思った。
助けてくれた少女のことを、この場所が与えた温かさを、そして、待ち受ける未来を、少年の足音が静かに廊下へ溶けていく。
案内された先は、客間のようでありながら、どこか威厳を感じさせる広い執務室だった。
壁には海底を思わせる蒼のタペストリー、奥には重厚な執務机と山のように積まれた書類。
高い天井からは、水を模した光の装飾が揺らめき、静かな波音が聞こえる気さえした。
「こちらへ」
初老の執事の手が示すソファへ、少年は身を縮めながら座る。
直後――別の執事が静かな動作で湯気の立つカップを差し出した。
けれど、口には運ばなかった。
この状況で不用意に何かを飲む気にはなれない。
少年は手を膝の上に置き、固く身構えた。
初老の執事は執務机へ歩み寄り、数枚にまとめられた資料を手に取る。
そして、少年の前へ――スッ、と音もなく置かれた。
「この度は、私共の実験にご協力いただき、誠に感謝いたします」
丁寧な言葉。
しかし、その奥にある意味は重すぎた。
「……実験?」
少年は呆然と呟いた。
「そちらの資料は、今回の実験で得られたデータをまとめたものと、ご協力いただいた謝礼金を記したものとなります。どうぞ、ご確認ください」
初老の執事は淡々と言い放った。
少年の混乱など、塵ほども意に介していない声音だ。
少年は震える指先で資料を開く。
(……なんだ、この数字)
見たこともない専門的な語句と数値の羅列。
どれも見慣れず、まるで別世界の文字のようで――ページをめくると、ひとつだけ分かるものがあった。
《謝礼金:10万G》
生々しく記された金額が、かえって寒気を呼び起こす。
「つきましては、明日。謝礼金を受け取ったのち、お帰りいただきます。衣服は差し上げますので、ご自由にお使いください」
その台詞で、少年の我慢は限界に達した。
「ちょ、ちょっと待って……! 実験って……何のこと!? 僕は……そのために連れて来られたの!? 助けてくれたんじゃなかったの……!?」
声が震える。
理解したくない現実が、言葉に滲み出る。
初老の執事は淡く視線を投げたが――すぐに無表情へ戻る。
「それでは、これで」
少年の叫びなどなかったかのように、冷徹に告げて踵を返す。
「ま、待って!」
少年は立ち上がり手を伸ばす。
だが――黒服たちがすっと前へ歩み出て、壁のように行く手を塞いだ。
(行かないで……!)
喉が締め付けられる。
執事の指先が扉へ触れた、その時――ガチャン!
扉が勢いよく開かれた。
全員が振り返る。
少年の瞳が大きく見開かれる。
現れたのは――蒼髪を水流のように揺らし、濡れた宝石のような瞳を持つ少女。
ミュレアだった。
扉が開かれた瞬間、初老の執事は驚いたように一歩下がり、深々と頭を垂れた。
黒服の従者たちも左右へ散り、壁際で恭しく頭を下げる。
ミュレアは静かに一歩、部屋へ踏み入れた。
「何をしているの?」
その問いかけは、澄んでいて淡々とした声。
しかし、決して無関心ではない響きがあった。
「はっ……。実験にご協力いただいたこちらの方に、ご説明と謝礼金を……」
初老の執事はまだ頭を下げたまま答える。
「そう」
短い返事とともに、ミュレアの視線が動いた。
机の上に置かれた資料。
そのすぐ向こうで、恐怖と不安に顔を歪める少年。
無表情に見えながらも、その瞳はすべてを見透かすように深く――静かだった。
「……下がって」
囁くような小さな声。
だが、それは逆らうことを許さない命令だった。
「し、しかし――」
執事が顔を上げかけたその瞬間、ミュレアの瞳が真っ直ぐに射抜く。
澄んだ湖のような眼差しには、感情という色は薄い。
それでも、確固たる意志が込められていた。
初老の執事は息を呑み――黙って頭を垂れ直す。
「……かしこまりました」
従者たちを伴い、静かに退室していく。
扉が閉まった途端、部屋には少年とミュレア、二人だけとなった。
気まずい静寂、息を飲む音さえ響きそうな距離。
ミュレアはゆっくりと歩み寄り、少年の正面のソファに腰を下ろした。
「あ、あの……」
混乱の中、勇気を振り絞り声を出す少年。
しかし、それより早く――
「服、着てくれたんだ」
淡々とした声なのに、どこか柔らかい響きだった。
「え……あ、うん。サイズが……ぴったりで……その……ありがとう」
しどろもどろになりながらも、少年は礼を言った。
「……よかった」
ミュレアはほんの一瞬だけ、
わずかに口元を緩めた。
それは、本当に一瞬の――微笑み。
(……綺麗だ)
少年は思わず視線を奪われた。
胸の奥で、強く――トクン、と脈打つ。
恐怖で凍えていた心が、その微笑みひとつで、温かく解けていくようだった。
満腹と安堵の息をひとつ吐き、少年はぼんやりと手元を見つめる。
「それでは、こちらのお召し物にお着替えください」
初老の執事の低く柔らかい声が響いた。
少年が顔を上げると、執事が横に手をスッと向ける。
その隣にいた別の執事が、小さく折りたたまれた服を恭しく差し出してきた。
机の上へそっと置かれる衣服。
その生地は上質で、見ただけで温かさが伝わってくる。
「お脱ぎになられた衣服はそちらの籠へお願いいたします」
初老の執事は淡々と言い、胸に手を当てて一礼する。
「それでは、失礼いたします」
扉が静かに閉まった。
静まり返った部屋に、少年は着せられる服をじっと見つめる。
(また閉じ込められた……でも)
濡れた服が肌に張り付き、体温を奪い続けている。
それだけで、寒さが骨まで染み込むようだった。
(着替えたほうが……いいよな)
もう抵抗する余裕もない。
少年はおそるおそる服に手を伸ばし、濡れた衣服を脱いでいく。
用意された服は、深い海の色を思わせる青。
道着に似た上着とズボンの組み合わせで、白い縁取りが静かな気品を宿している。
ズボンの紐をぎゅっと締めると――驚くほど身体に馴染んだ。
(ちょうど……いい)
それだけではない。
生地は、かつて自分が着ていた粗末な布とはまるで違う。
指先が滑るようななめらかさ。それでいて厚みがあり、頼もしさすら感じる。
不思議と重さを感じないのに、身を包むとしっかりと守られているような感覚があった。
ふと光が射した時――服の表面は、きらりと鱗のように輝いた。
(……なんだ、この素材?)
軽いのに強そうで、冷たいのに暖かい。
海の都らしい神秘を宿す服。
少年はしばらく袖を撫でていたが、やがて椅子に腰を下ろし、息を整えた。
他にすることもなく、じっと扉を見つめる。
先ほどまで濡れて震えていた身体も、服に包まれて少し落ち着いた。
だが、胸の奥の緊張は消えない。
この先、自分はどうなるのか――不安と期待が入り混じるまま、少年は静かに、来る者を待った。
どれほど待っただろうか。
静寂を破るように――コン、コン、と扉が叩かれる。
「失礼いたします」
音もなく扉が開き、初老の執事が入室した。
「お着替えはお済みになられたでしょうか?」
その視線が少年の全身を静かに確認する。
青い道着に袖を通し、濡れた痕跡もなくなった少年の姿――そして、少年の表情が、さっきまでとは違っていることにも。
恐怖、困惑で張り詰めていた顔は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「では、こちらへ」
初老の執事は控えめな仕草で、部屋の外へと促す。
少年は無言で頷き、席を立った。
扉の外に出ると、長く広い廊下が続いている。
水晶灯が壁に整然と並び、水面のような光を床へ揺らしていた。
初老の執事はゆっくりと歩みを進め、少年はその後をついていく。
最初にここへ来たときのように、恐怖に駆られて問いかけることはしなかった。
どれほど不安でも、流れは止まらない。
だから今は――少しだけ信じてみようと思った。
助けてくれた少女のことを、この場所が与えた温かさを、そして、待ち受ける未来を、少年の足音が静かに廊下へ溶けていく。
案内された先は、客間のようでありながら、どこか威厳を感じさせる広い執務室だった。
壁には海底を思わせる蒼のタペストリー、奥には重厚な執務机と山のように積まれた書類。
高い天井からは、水を模した光の装飾が揺らめき、静かな波音が聞こえる気さえした。
「こちらへ」
初老の執事の手が示すソファへ、少年は身を縮めながら座る。
直後――別の執事が静かな動作で湯気の立つカップを差し出した。
けれど、口には運ばなかった。
この状況で不用意に何かを飲む気にはなれない。
少年は手を膝の上に置き、固く身構えた。
初老の執事は執務机へ歩み寄り、数枚にまとめられた資料を手に取る。
そして、少年の前へ――スッ、と音もなく置かれた。
「この度は、私共の実験にご協力いただき、誠に感謝いたします」
丁寧な言葉。
しかし、その奥にある意味は重すぎた。
「……実験?」
少年は呆然と呟いた。
「そちらの資料は、今回の実験で得られたデータをまとめたものと、ご協力いただいた謝礼金を記したものとなります。どうぞ、ご確認ください」
初老の執事は淡々と言い放った。
少年の混乱など、塵ほども意に介していない声音だ。
少年は震える指先で資料を開く。
(……なんだ、この数字)
見たこともない専門的な語句と数値の羅列。
どれも見慣れず、まるで別世界の文字のようで――ページをめくると、ひとつだけ分かるものがあった。
《謝礼金:10万G》
生々しく記された金額が、かえって寒気を呼び起こす。
「つきましては、明日。謝礼金を受け取ったのち、お帰りいただきます。衣服は差し上げますので、ご自由にお使いください」
その台詞で、少年の我慢は限界に達した。
「ちょ、ちょっと待って……! 実験って……何のこと!? 僕は……そのために連れて来られたの!? 助けてくれたんじゃなかったの……!?」
声が震える。
理解したくない現実が、言葉に滲み出る。
初老の執事は淡く視線を投げたが――すぐに無表情へ戻る。
「それでは、これで」
少年の叫びなどなかったかのように、冷徹に告げて踵を返す。
「ま、待って!」
少年は立ち上がり手を伸ばす。
だが――黒服たちがすっと前へ歩み出て、壁のように行く手を塞いだ。
(行かないで……!)
喉が締め付けられる。
執事の指先が扉へ触れた、その時――ガチャン!
扉が勢いよく開かれた。
全員が振り返る。
少年の瞳が大きく見開かれる。
現れたのは――蒼髪を水流のように揺らし、濡れた宝石のような瞳を持つ少女。
ミュレアだった。
扉が開かれた瞬間、初老の執事は驚いたように一歩下がり、深々と頭を垂れた。
黒服の従者たちも左右へ散り、壁際で恭しく頭を下げる。
ミュレアは静かに一歩、部屋へ踏み入れた。
「何をしているの?」
その問いかけは、澄んでいて淡々とした声。
しかし、決して無関心ではない響きがあった。
「はっ……。実験にご協力いただいたこちらの方に、ご説明と謝礼金を……」
初老の執事はまだ頭を下げたまま答える。
「そう」
短い返事とともに、ミュレアの視線が動いた。
机の上に置かれた資料。
そのすぐ向こうで、恐怖と不安に顔を歪める少年。
無表情に見えながらも、その瞳はすべてを見透かすように深く――静かだった。
「……下がって」
囁くような小さな声。
だが、それは逆らうことを許さない命令だった。
「し、しかし――」
執事が顔を上げかけたその瞬間、ミュレアの瞳が真っ直ぐに射抜く。
澄んだ湖のような眼差しには、感情という色は薄い。
それでも、確固たる意志が込められていた。
初老の執事は息を呑み――黙って頭を垂れ直す。
「……かしこまりました」
従者たちを伴い、静かに退室していく。
扉が閉まった途端、部屋には少年とミュレア、二人だけとなった。
気まずい静寂、息を飲む音さえ響きそうな距離。
ミュレアはゆっくりと歩み寄り、少年の正面のソファに腰を下ろした。
「あ、あの……」
混乱の中、勇気を振り絞り声を出す少年。
しかし、それより早く――
「服、着てくれたんだ」
淡々とした声なのに、どこか柔らかい響きだった。
「え……あ、うん。サイズが……ぴったりで……その……ありがとう」
しどろもどろになりながらも、少年は礼を言った。
「……よかった」
ミュレアはほんの一瞬だけ、
わずかに口元を緩めた。
それは、本当に一瞬の――微笑み。
(……綺麗だ)
少年は思わず視線を奪われた。
胸の奥で、強く――トクン、と脈打つ。
恐怖で凍えていた心が、その微笑みひとつで、温かく解けていくようだった。
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