魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ

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冷えた指先と、凪の兆し

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その日の朝も、エリナの指先は感覚を失っていた。

 伯爵家の裏手、陽の当たらない洗濯場。冬の冷気にさらされた井戸水は、触れるだけで肌を刺すような痛みを運んでくる。

​「……っ」

​ エリナは、ひび割れた指先に息を吹きかけた。だが、吐き出された白濁した吐息は、冷え切った身体を温めるにはあまりに弱々しい。

 かつて、この家で「お嬢様」と呼ばれていた頃の記憶は、もう遠い霧の向こうだ。五年前、魔力測定の儀で彼女の魔力値が「ゼロ」を示したあの日から、父である伯爵の瞳からは光が消え、代わりに義母と義妹のアリシアが、この屋敷の主導権を握った。

​「お姉様、まだ終わらないの? 動きが鈍いわね。だから『才能なし』は困るのよ」

​ 階段の上から、華やかなドレスの裾を揺らしてアリシアが降りてきた。彼女が歩くたび、周囲の空気が甘い香りと微かな光の粒に包まれる。それが、生まれながらに聖魔力を持つ者に与えられた「祝福」の証だった。

​「申し訳ありません、アリシア様。……すぐに、お部屋に運びます」

「ええ、急いでちょうだい。今日はカイル殿下がいらっしゃる大事な日なの。お姉様みたいな薄汚れた姿、絶対に殿下の視界に入らないでね?」

​ アリシアは楽しげに笑い、温かなティーサロンへと戻っていった。
 エリナは、重い洗濯籠を抱え、痛む足を引きずって裏口へ向かう。

(……大丈夫。私は、ただの影だと思えばいい)

 そう自分に言い聞かせて。
​ やがて、屋敷の前に豪奢な馬車が到着した。

 第一王子カイル。類まれなる魔力を持ち、その苛烈なまでのカリスマ性で「戦場の獅子」と恐れられる王国の守護者。

​ 伯爵家の一同が玄関ホールに並び、最敬礼で彼を迎える。アリシアは精一杯の愛嬌を振りまき、その指先からは、歓迎の意を示す柔らかな光の魔法が放たれていた。

​「ようこそおいでくださいました、殿下」

「あぁ」

​ カイルの声は低く、地響きのように重かった。
 金の髪の下にある碧眼は、まるで獲物を探す猛獣のように鋭い。彼は伯爵の媚びへつらう言葉を受け流しながら、不意に、眉間に皺を寄せた。

​「……妙だな」

「殿下? 何か不手際でもございましたでしょうか」

​ 伯爵が狼狽する。カイルは無言のまま、視線をゆっくりと周囲に巡らせた。
 側近のマルクが、カイルの微かな変化に気づき、手帳を閉じる。

​「殿下、魔力が昂っておりますか?」

「いや、逆だ。……静かすぎる」

​ カイルの体内には、常人では制御しきれないほどの膨大な魔力が渦巻いている。そのため、彼の周囲は常に静電気のような魔力の圧力が漂っているはずだった。
 しかし、この廊下の奥に向かうにつれ、その「荒ぶり」が、吸い込まれるように消えていくのを感じた。
​ カイルは、アリシアが差し出した手を無視して、ずんずんと廊下の奥へと歩き出した。
 向かった先は、豪華な客間ではなく、影の差す薄暗い階段下だった。
​ そこには、床に膝をつき、必死にこぼれた洗濯物の滴を拭き取っているエリナがいた。

​「ひっ……!」

​ エリナは、目の前に現れたまばゆいばかりの軍靴を見て、息を止めた。
 逃げなければならない。アリシアに言われた通り、視界に入ってはならない。そう思うのに、あまりの威圧感に足がすくんで動けない。

​「……お前か」

​ カイルが、エリナの目の前で片膝をついた。
 王族が、使用人同然の少女の前で視線を下げるなど、本来あり得ないことだった。

​「殿下! そんな汚らしい娘にかまってはなりません! それは、我が家の面汚しでして……」

「黙っていろ。……マルク、見ろ」

​ カイルがエリナの、赤く腫れた手をそっと持ち上げた。
 エリナは震えながらも、その手の温かさに驚いていた。彼の大きな掌が触れた瞬間、いつも彼を苛んでいたはずの「魔力の暴走」が、まるで鏡のような水面に変わる。

​「私の魔力が、これほどまでに澄んでいくのは初めてだ。……お前、今まで何をしていた」

​「……っ、わ、私は、ただの洗濯係で……魔力も、何もない、出来損ないです……」

​ エリナの瞳から、一滴の涙がこぼれ、カイルの手に落ちた。
 その雫が触れた瞬間、カイルの瞳の奥に、確信めいた光が宿る。

​「……出来損ない、か。この国で最も清浄な魂を、伯爵、貴殿はそう呼ぶのか」

​ カイルはエリナの手を握ったまま、立ち上がった。
 引き寄せられたエリナの体が、カイルの胸元に収まる。

​「エリナ。お前を、こんな泥の中に置いておくつもりはない」

​ それは、救済という名の、強引で圧倒的な連れ去りの宣言だった。

 アリシアの顔が嫉妬と驚愕で歪む中、エリナは、初めて自分を「見つけてくれた」カイルの体温に、ただ呆然と身を任せることしかできなかった。
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