魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ

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凍てつく夜

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「今は………無理ですよ」

​ エリナの唇から漏れたのは、必死の拒絶だった。カイルの胸に抱かれたまま、彼女は震える声で続ける。

「私は……この家の使用人です。洗濯も、アリシア様のドレスの準備も、まだ終わっていません。このような身なりで、殿下のお側に行くなど……」

​ カイルの眉が不機嫌そうに跳ね上がった。彼にしてみれば、今すぐこの場で泥から真珠を掬い上げたい衝動に駆られていたのだろう。だが、横から側近のマルクが冷静に口を挟んだ。

​「殿下、エリナ様の仰る通りです。王宮へお連れするには、正式な手続きと、最低限の身支度の時間が必要です。今日このまま連れ去れば、伯爵家に不要な同情を与えたと噂されかねません」

​ カイルは忌々しげに舌打ちし、エリナを支えていた腕をゆっくりと解いた。だが、その視線は射抜くようにエリナを見つめたままだ。

​「……分かった。明日、改めて迎えに来る。エリナ、荷物の準備をして待っていろ。持っていくものなど何もないだろうが、捨てる準備だけはしておけ」

​「え、あ……はい……」

​「お前ら。明日、私が再びここを訪れるまでに、彼女に指一本触れてみろ。この屋敷ごと、私の魔力で消し飛ばしてやるからな」

​ カイルはそれだけ言い捨てると、凍りついた伯爵一家を背に、嵐のように去っていった。
​ 殿下が去った後の屋敷は、昼間よりもずっと冷え切っていた。


​「……調子に乗るんじゃないわよ、この泥棒猫!」

​ エリナの頬に、焼けるような熱い痛みが走った。見上げれば、そこには怒りと屈辱で顔を歪めたアリシアが立ちふさがっていた。

 カイルの脅しに怯えた伯爵と義母は、早々に自室へ逃げ込み扉を閉ざしてしまったが、プライドをズタズタにされたアリシアの収まりがつかなかった。

​「殿下があんたを連れて行く? 笑わせないで。どうせ一晩経てば、殿下だって正気に戻るわ。あんたみたいな魔力なし、王宮の空気を汚すだけよ!」

​ アリシアはエリナが今日洗ったばかりの、真っ白なシーツを床に叩きつけた。泥のついた靴でそれを無残に踏みにじり、嘲笑う。

​「明日の朝までに、これを全部洗い直しなさい。いい? 一枚でも汚れが残っていたら、殿下に『この娘は怠慢で嘘つきだ』と報告して差し上げるわ。……寝る暇なんてないわよ? 『才能なし』の最後のご奉公だと思って、せいぜい泥にまみれていなさいな!」

​ エリナは、腫れた頬を押さえながら、暗い庭へと這い出た。
 月明かりすらない、凍てつく冬の夜。
 吐く息は白く、井戸から汲み上げたばかりの水には薄く氷が張っている。

​(……痛い)

​ ひび割れた指先に冷水が染みる。感覚がなくなるまで、あと何度これを繰り返せばいいのだろう。
 カイルが自分を救ってくれる。あんなに強く抱きしめてくれた。
 けれど、この暗闇の中で一人、氷のような水に手を漬けていると、あの日中の出来事がすべて、熱に浮かされた自分が見た「一瞬の夢」だったのではないかと思えてくる。

​(殿下は、お優しい方だった。……だからこそ、明日になれば、冷静になって後悔なさるはずだ。私のような、何も持たない女を連れて行く理由なんて、どこにもないのだから)

​ 「明日なんて、来なければいい」

 そう願う心は、希望を抱いて裏切られることを何よりも恐れていた。
 
 エリナは、ただ機械的に手を動かし続けた。
 夜が深まるほど、水は重くなり、体温は奪われていく。
 明け方近く、すべての洗濯物を干し終えたエリナは、疲労の限界を超えて裏口の冷たい板間に崩れ落ちた。
 
 ――そして。

 彼女の意識が深い眠りに落ちるか、あるいは永遠に途絶えようとしたその瞬間。
​ ドォォォォォン!!
​ 屋敷全体を揺らすような、物理的な衝撃音が響き渡った。
 エリナは跳ね起きるように目を覚ました。心臓が嫌な速さで脈打つ。
 
「エリナ! どこだ、エリナ!!」

​ 廊下の向こうから聞こえてきたのは、昨日よりもさらに低く、獣のような焦燥をはらんだカイルの声だった。
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