魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ

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溶ける氷

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廊下を突き抜けてくる足音は、もはや貴人のそれではない。獲物を追い詰める肉食獣の、荒々しくも迷いのない足音だ。
 裏口の冷たい板間で、寒さと疲労に震えていたエリナの前に、凄まじい魔力を纏ったカイルが姿を現した。

​「……見つけた」

​ その声を聞いた瞬間、エリナの視界が白く歪んだ。
 朝霧に濡れたカイルの金の髪は乱れ、軍服の肩には跳ねた泥がついている。おそらく、馬を飛ばして最短距離を突き進み、正門を文字通り「粉砕」して侵入してきたのだろう。昨日よりもずっと険しい、焦燥に焼き尽くされたような瞳がエリナを捉えた。

​「殿、下……。どうして、こんなに早く……」

​ エリナが震える唇で問いかける。だが、カイルはその問いに答える代わりに、彼女のあかぎれだらけの手を、迷いなくその大きな掌で包み込んだ。

​「ひっ……!」

​ カイルの手は、燃えるように熱かった。凍死寸前だったエリナの細い指先に、彼の膨大な魔力が「熱」となって強引に流れ込んでくる。あまりの熱量に、エリナの目からは、止まっていたはずの涙が溢れ出した。

​「殿下! いき過ぎです! 正門を爆破して裏口から侵入するなど、騎士団が聞いたら卒倒しますよ!」

​ 背後から、肩で息をしながらマルクが駆け込んできた。彼はボロボロになった正門の惨状と、主君の暴挙に顔を青くしている。

​「手続きはどうしたのですか! 伯爵家への正式な抗議書も、エリナ様の身分移譲に関する書類も、まだ私の鞄の中ですよ。今は無理だと、昨日あれほど……!」

​「黙れ、マルク。一晩待ってやった。それが私の限界だ」

​ カイルはマルクを一瞥せず、エリナの腫れた頬をそっと親指でなぞった。その瞬間、カイルの瞳に昏い焔が灯る。昨日、彼は「指一本触れるな」と命じたはずだ。それなのに、彼女の頬は赤紫に腫れ、指先は氷のように冷え切っている。

​「……エリナ。この頬の傷は、昨日誰につけられたものだ」

​「それは……いえ、私が、不手際を……」

​「洗濯物か。夜通し、これを洗わされていたのか。……私の警告を、あの無能どもは無視したというわけか」

​ カイルの視線が、庭に干された、朝露に濡れる白いシーツに向けられる。その瞬間、彼の周囲の空気がバリバリと音を立てて震えた。カイルの怒りに呼応して、周囲の魔素が臨界点を超えようとしている。

​「殿下、抑えてください! 屋敷が、屋敷が壊れます!」

 マルクが叫ぶが、カイルの覇気は止まらない。
​ そこへ、異常な騒ぎを聞きつけたアリシアが、寝巻きの上にガウンを羽織った姿で飛び出してきた。

​「な、何事……!? 殿下! こんな時間に、どうして裏口に……!」

​ アリシアはカイルの姿を見るなり、いつものように媚びるような笑みを浮かべようとした。だが、カイルが向けたのは、命を刈り取るような冷酷な視線だった。

​「アリシア。貴様がエリナに命じた『最後のご奉公』とやらは、これのことか?」

​「え……あ、それは、姉が自ら、やり残したことがあると……」

​「二度とその口を開くな。虫酸が走る。……マルク、こいつだ」

​「ええ、承知しておりますよ。状況証拠だけで十分です。殿下、それ以上は私の仕事です。どうぞ、エリナ様を連れて馬車へ」

​ マルクは諦めたように眼鏡をかけ直すと、冷徹な役人の顔で震えるアリシアを睨みつけた。

​ カイルはエリナを抱えたまま、瓦礫の山となった正門を通り抜け、待たせていた漆黒の馬車へと押し込んだ。

​「あ、あの……殿下、まだ準備が……お荷物が……!」

​「そんなボロ布、二度と着せるか。お前が持っていくべきものは、今ここにあるその命だけだ」

​ 走り出した馬車の中で、カイルはエリナを自分の膝の上に強引に座らせ、毛布で幾重にも包み込んだ。

​「あ、の……殿下。私は、本当に才能のない、汚れた娘です。どうして、ここまで……。明日になれば、きっと後悔なさるのに……」

​「才能など、いくらでも私が与えてやる。汚れなど、私がすべて焼き尽くしてやる。……お前はまだ分かっていないのか。私はお前なしでは、自分の魔力に焼き殺される運命にあるのだ」

​ カイルはエリナの冷え切った両手を、自分の厚い胸元に無理やり押し当てた。トク、トクと、力強く、激しい鼓動が伝わってくる。

​「……二度と、私の前から消えるなどと言うな。いいな、エリナ」

​ それは救いというよりも、逃げ場を塞ぐ呪いに近い誓いだった。
 エリナの凍てついた心に、カイルという名の強烈な熱が、無理やり入り込んでくる。あまりに自分勝手で、けれどあまりに一途な王子の腕の中で、エリナはようやく自分が「救われた」ことを悟った。
 
 窓の外では、朝日が伯爵家の屋敷を遠く照らし始めていた。
 昨日までの地獄のような日常が、馬車の車輪の音と共に遠ざかっていく。
 エリナは、生まれて初めて感じた「奪われることの安堵」に身を委ね、カイルの胸の中で深い、深い眠りに落ちていった。
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