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水車小屋のリリス
禁婚令(3)
しおりを挟むあの世とこの世にある“狭間の森”。訪れたときと同じで、一寸先にあるものも視えない濃い霧に包まれていた。リリスの持つランタンがタイガの足元を照らしている。二頭の馬を引くサー・ブルーは少し離れて後ろを歩いた。
「皇子様、これより先をお進みください。お二人のいらしたカナトスの森にお戻りになられるでしょう」リリスは立ち止まると言った。
「世話になった」そう言って、タイガはリリスのぬけるような白肌の手にうやうやしく口づけをする。「そなたが城に参上した暁には、何か贈り物をしたいと思うが、欲しい物を申してみよ」
タイガの申し出にリリスは微笑み、分不相応だと首を横にふる。
「娘リリス、皇子の申し出を断るのは無礼であるぞ。素直に所望の物を申さぬか」
サー・ブルーは美しき乙女のリリスにすっかりご執心のタイガに、訝しげな表情を浮かべ、ややもすると高圧的な態度に出る。タイガは咎《とが》めるように振り返った。「リリスは私の禁婚令を下した女人。いずれ妻になる女《ひと》なのだから、そのような態度は慎むのだ」それからタイガはリリスに詫びるように微笑むとこう申し添えた。「ーーそれではこうしよう。私がそなたに贈りたいものを贈る。それでよいな?」
「皇子様の仰せのままに」
リリスは膝を曲げて、敬うように跪礼する。タイガはサー・ブルーに憚ることなくリリスを抱きしめた。それから耳許に小声で話しかけるのだった。
「ここで別れるとはなんとも名残惜しいく、そなたが来るのが待ち遠しくてならない。一刻も早く水車小屋を出て、私の元に参られよ。よいな」
リリスは頬を赤らめた。
「タイガ様、アーロンが待ちくたびれております」
サー・ブルーは別れを惜しむタイガを急かす。リリスは腕の中から離れるとうやうやしくお辞儀をした。
「皇子様、必ずや参りますゆえ、しばしお持ちくださりませ」
紫水晶のごとく輝く瞳は慈愛に満ちている。着ているものこそ村娘の装いだが、控えめな態度、聡明な立ち振る舞いは、王族として相応しく、どこの貴族の娘にも引けを取らない。皇子の妻として、なんら遜色がないではないか。城に仕える者は、誰もが彼女を敬い、礼を尽くすだろう。母を見初めた父王ならば、リリスとの婚儀をきっとお許し下さるはずだと、タイガはそう確信するのだった。
リリスと別れた二人は霧の中を進んだ。
「タイガ様いくらなんでも、事を急ぎ過ぎたのではないでしょうか?」
二人きりになって、ようやく話す機会が訪れたサー・ブルーは口火を切った。
「そうかもしれない。けれど恋とは突然やってくるものではないのか? それとも、サー・ブルーは私が王妃の選んだ見合い相手と、愛のない生活を望まれるか?」
「いえ、そうは申しておりません。ただあのような場所で、術を行う娘の素性を心配しております」
「それも考えた。だが、もしそうであったら、すぐにでも城に上がりたがるだろう? 拒絶するリリスをなんとか繋ぎ止めたのは私のほうだ。それに、今の今まで私が女人に心寄せたことがあったか?」
「はい……いえ、ご興味の薄さに男色かと心配する声があがったくらいです……」
タイガはくくっと笑った。そんなことを言うのは幼き頃より仕える従者のコンラッドくらいしか考えられなかった。
「ともかく、私はリリスのあの眼を信ずる。したがって、サー・ブルーは私の味方にならぬなら、もうこの話はするな」タイガは話を打ち切った。
しだいに霧が晴れ、深緑がはっきりしてきた。すっかり雨はあがっている。森に斜陽が差し込み、草露が濡れ光っていた。日没が近い。黄泉の森にいたのが、数時間だったのか数日だったのかは定かではない。タイガはアーロンに間に合わなければ吊橋を落とすよう命じていた。
「タイガ様、急ぎましょう」
ムチを入れた二頭の馬は森の出口に向かって走り出した。
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