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リオン城
沐浴
しおりを挟む太陽が沈み、天井の明り取りが薄暗くなると、リリスはゼルダに言いつけて沐浴の準備をさせた。水瓶から汲み置きされた水を盥にそそぐ。スズランの香油をたらすと、リリスは半身だけつかった。甘い香りをたっぷりと染み込ませた海綿を、首筋から腕にかけて滑らすようにぬぐった。水は冷たく、肌はほんのり桃色に染まるのだった。
「なんて、お美しい……」
ゼルダの口から、言葉が漏れ出た。一糸まとわぬ姿のリリスは恥じらうように微笑む。
「ねぇゼルダ、髪を洗うのを、手伝ってくれないかしら?」
少女は二つ返事で三つ編みされた髪をほどく。水面に広がる黒髪を櫛でといた。闇祓いをする者にとって、沐浴は手順の一つだ。儀式に臨むにあたり、不浄の穢れを流すためのものだった。スズランの強い香りは、リリスの武器にもなる。死の精霊やもののけたちは花の甘い匂いを嫌うからだ。義父のホビショーはリリスが沐浴する度に、顔をしかめて出かけてしまうから実証済みであった。
水から上がるとリリスは柔らかい綿布で体を拭きとる。新しいシュミーズの上からコルセットをつけて、ゼルダに手伝ってもらいながら紐を引き、ウエストをきつく締めつけた。スカートを広げるためのパニエをつけてから、黒絹のドレスを着用した。
「ねぇゼルダ、何もすることがないととても退屈だわ」
ゼルダに髪を梳いてもらいながらリリスは言った。
「毎夜、儀式に臨まれているではないですか」
「それ以外することがないということ。私、こう見えて、ここへ来るまではとても忙しい時をすごしていました。父の育てた麦を風車小屋の石臼で挽いたり、残った麦藁で牛たちの世話をしたり。乳を搾り、チーズを作り、挽いた小麦粉でパンを焼いたわ。掃除に洗濯、夜は父のお仲間がやってきて宴会が始まるのよ」
「リリス様のやってこられたことは、ここでは下働きの者たちがする仕事です。リリス様にはふさわしいのは、そう……、刺繍です。刺繍をなさいますか?」
「刺繍……?」
「カナトスの女性たちにとって刺繍は嗜みの一つです。月に数度開かれる王妃様主催のお茶会では、貴族の奥方や姫がおしゃべりをしながら刺繍を刺す集いがあるそうです。いずれ、リリス様にもお呼びがかかるかもしれません。お城のお針子に頼んでお持ちしますが、いかがでしょう?」
リリスは微笑みながら首を振った。
「まさか、私のような身分ではそのようなことはありません。それに、同じ針でも、私の場合は破れた衣服をかがるのよ。でも……本当のことをいうと、縫い物は好きになれなくて、代わりに本を読むのが好きだったわ――」
「本ですか。私のためになんとリリス様らしい。では、どうにかして本を手に入れてきます」
「ゼルダ、無理をしてはいけないわ」
「大丈夫です。リリス様、わたしこう見えてつてはありますから――」
夜も深まったころ、王妃付きの侍女らが部屋の戸を叩いた。ゼルダに部屋で待つよう言い残すと、リリスは侍女たちと共に、王様の寝所へと向かった。石階段を登り、地上へ出る。蝋燭がともる城内に、履物のミュールの音がこだました。
東塔の門をぬけて王様の寝所のある南御殿へと移った。中庭の木々の間からタイガの住まいがある北塔が見える。今頃はお休みになっているのかしら? 水車小屋での皇子の寝顔を思い出すのであった。
昨夜は人気のなかった中庭であったが、今夜は複数の人影が動いていた。
「あれは、タイガ皇子ではないか?」
北塔にいるとばかり思っていたリリスは、急にどきどきと胸が苦しくなった。年長の侍女が皆に止まるよう指示を出した。見物人囲まれた皇子が、お供の騎士と剣術の手合わせの最中だった。重々しい剣が重なり合い、勇ましく打ち鳴らされる。剣士と互角に戦うタイガの勇ましさにリリスはしばし見惚れるのだった。すると、一行に気がついたタイガは剣をおろした。サー・ブルーは胸に手をあて侍女たちに一礼する。侍女たちもスカートを広げ、うやうやしく礼を尽くす。リリスはやや遅れて、膝を曲げて跪礼する。ベール越しの対面ではあった黄泉の森以来初めてタイガの顔を視た。二度目の夜もすぐ近いところにいらっしゃるとはーー。リリスは動悸を鎮めようと、胸に手を当てる。侍女たちの列が動き出すと、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
リリスが幕屋に入るのを見届けると、侍女たちは役目が終わったとばかりに、そそくさと立ち去った。祭壇の前に立つと昨夜と同じ手順で香を焚いた。昨晩は水鏡を通じで意識だけが王の寝間に入った。そこで、見舞いに来たタイガを目にする。それからどういった経緯かはわからないが子供のドラゴンがいたのだ。
(あの子は色が違うもの。死の精霊が探しているドラゴンではないわ)
リリスはペルセポネに報告するのをためらった。
(――それに、夢に現れたベリアルと名乗った化身。あれが王様に呪いを施した死のかもしれない。皇子様のためにも、呪いを解いてさしあげたい)
そう、心の中で思うのだった。
しばらくの間、ほとんど変化はなかった。リリスはドレスに提げている巾着袋から、より強い力を出す乳香を取り出した。これは黄泉の森に自生する木の樹液を固めて作ったものだ。死の精霊ならこの匂いに興味を抱くだろう。半透明の欠片を香炉にくべる。すると水鏡の表面に波紋が広がった。リリスは覗き込む。水底に黒い花びらが沈んでいるのが見えた。時が巻き戻るように花びらが寄せ集まり、一輪の黒薔薇になる。
(これはどういうことかしら?)
取り出そうと水に指をつけるのと同時に、水の中から手が出てきて、リリスは手首を掴まれた。驚き、小さな悲鳴をあげる。その掴む手は、刺青が施され、爪は水牛の角のように真っ黒であった。小指に黒いオニキスの指輪が光っている。明らかに人間手ではない。これは死の精霊――。それも相当の力の主であるのは間違いない。引きずりこまれないよう反対呪文を唱える。だが、手はかなりの力でリリスを引っ張った。ややしばらく膠着状態が続いた。このままだと力負けしてしまいそうだった。
背後で気配がする。
「時間だ。そろそろ戻られよ」と、声がかかる。一人の衛兵が断りもなく、幕屋に入り込んできたのだ。するとリリスを掴んでいた手は、瞬く間に煙と化して消えてしまった。今夜はずいぶんと早い迎えだったが、幸運にも衛兵に助けられるかたちになった。
「ーーかしこまりました」
リリスは付き添われながら幕屋を出る。昨夜と違い衛兵は兜のガードをおろしていて人相が判らなかった。言葉もそれっきりで、不気味なほど無言であった。回廊から中庭に出ると、いきなりリリスの手を握った。
「何をなさいます? 人を呼びますよ」リリスは厳しく問いただす。だが、衛兵は構わずぐいぐいとひっぱる。建屋の陰に連れ込むなりこう言った。
「恐れるでない、ベールをあげよ」
リリスは戸惑った。小声で話す声に聞き覚えがあったからだ。そして、「皇子様?」と、声にならない声で言った。
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