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残された面々
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国王、バーナビーは嵐のように部屋を後にした連中の背中を見送った後、どさりとソファに身を任せた。その顔は不服そうな色が濃い。
しばらく静寂に包まれていた彼の私室に、訪れるものがあった。バーナビーの腹心、レイン侯爵レジナルドだ。
「失礼します。……随分と不機嫌そうですな」
「当然だ。これからという時に小娘に邪魔されたのだぞ」
不機嫌を隠す気もなく言い放つバーナビーに、レジナルドはやれやれと小さい溜息を吐いた。
「言い方を考えてください。誰かに聞かれたらどうなさるおつもりで? 相手はまがりなりにも大祭司ですぞ」
「どうもしないさ。今更だろう?」
バーナビーは鼻をふんっと鳴らした。その様子はいささかその立場にいる人物としてはふさわしくはないだろう。レジナルドはこっそりと溜息をこぼした。
本人の言いたい事もわからないでもないが、彼はもう二十年以上この地位にいるのだ。昔の事を忘れろとはいわないが、ことさらそれをさらけ出すような真似も謹んでもらいたい。
「子供じゃないんですから、もう少し大人な対応をしていただきたいものです」
「お前……そう言えば俺が引っ込むと思ってるな?」
「さて」
この二人の関係も二十年以上を数える。お互いに若い頃は今の地位に就くなど考えてもいなかった。
バーナビーは時の国王の落としだねとして壁際で、レジナルドは公爵家の放蕩息子として遊びほうけていた。
そんな二人が出会ったのが壁際にほど近い安酒場だ。何が原因で始まったのか、酒場の全部を巻き込む喧嘩に行き合った。
まだ血気盛んな頃である。もてあます体力を発散するため、これ幸いと殴り合いに参加し、気づけば残っているのは二人だけだった。
どちらからともなく場所を変えて飲み直そうという事になり、近所の酒場になだれ込み、その店の酒を飲み尽くす勢いで飲みながらあれこれと話した。
不思議と馬が合う。生まれも育ちもこれほど違う相手だというのに、おかしな連帯感を感じた。
それからも申し合わせた訳ではないのに、あちらこちらで出くわす事になり、その時にはどちらからともなく飲みに誘った。そんな飲み仲間の一人だった。お互いに。
その関係が激変するのに、一月もかからなかった。王都を中心に、国中に流行病が大流行した。致死率の高い病で、当時は確たる治療法も存在しなかった。神殿の神聖術でも治療出来ず、人々は為す術もなく病に怯えた。
それだけで収まらなかったのは、病に罹ったのは庶民だけではなかった事だ。地位や身分の上下に関わらず、流行病はその猛威を振るった。
おかげで王位継承権を持つ存在も一挙にその数を減らした。その傷跡は今現在も残り、現存する王族は数える程しかいない。
そうなると自然問題になるのが次代の王位継承である。幸いというのか皮肉というのか、老齢である国王だけは王族の中でも罹患していなかった。
妻である王妃や息子である王太子、娘である王女達、自分の弟妹、従兄弟に至るまで亡くなる異常事態に、国王のみならず臣下達も焦り出した。このままでは王位を継げる人間がいなくなってしまう。
国王とは国の要である。誰でも継げるものではない。人々は血統にこそ、その正当性を見いだすものだ。実質は意味がないものではあるが、説得力があるのが血統というものだ。
だがその血統が失われようとしている。このままでは流行病で弱り切った国で、内乱が起きかねない。実際貴族のうちの何人かは、自領での軍備増強を進めているとの情報も入っていた。
その際に一人の側近がふと思い出した人物がいた。母親の身分が低すぎて、王族にも庶子にも数えられなかった人物。それが現在の国王、バーナビーである。
探し出されたバーナビーは、王宮からの迎えに否を唱えた。当然だ、自分たち親子を追い出したのは、その王宮なのだ。
その後の生活は苦しいものだった。父親だという国王からの援助は一切なく、母一人子一人で貧乏のどん底にいた。
母が持っていたものを少しずつ売り、また朝から晩まで必死に働いてやっと食べていける程度の生活だ。それでも母はバーナビーに愛情を持って接してくれた。
その母はこの流行病で亡くなった。息子のバーナビーの目から見ても、苦労続きの人生だった。その母と自分を見捨てた王宮が、今更迎えなど虫が良すぎる、と迎えの使者を怒鳴り飛ばしたのだ。
十四のバーナビーは体格も良く、その年で既に成人男性と近い身長だったため、迫力も相当だったのだろう。使者は逃げるように去っていった。
一方のレジナルドも、父を飛ばして祖父から色々と言われていた。レイン公爵家は昔から王家との繋がりが強い。
それは単純に権力というものではなく、不思議な関わりとして続いていた。曰く、公爵家の当主が傅く相手こそ、真の王と言われているのだ。
この難局にあって、今こそ公爵家の力を使う時である、と祖父に説得されたが、レジナルドにしてみれば家を継ぐのは自分ではないと思っているため意味がなかった。
レジナルドが家に違和感を感じるようになったのは、割と早い時期である。公爵家には代々魔力の強い子供が多く生まれる。魔力値の高さはそのまま家での順位を表していた。
そんな家にあって、レジナルドは魔力値がほぼない状態で生まれている。幼い頃から従兄弟達や親類筋にはバカにされて育ったものだ。
父親もそんな息子には期待せず、いずれは従兄弟の誰かを養子に迎えて家を継がせる、お前は家督を継げると思うなと言い続けていた。
レジナルド本人も、違和感を感じる家を嫌い、早いうちに外で過ごす事を覚えた。それに対してもまた親族から批判があったが、その時にはレジナルド本人が右から左に流す事を覚えていた。
そんな自分にこの祖父は一体何を期待しているというのか。レジナルドは暗い笑いがこみ上げてきた。
だが窮屈な親族の中にあって、祖父だけは自分を評価しつづけてくれた。その理由までは知らないが、唯一自分の存在を受け入れてくれた祖父の言葉は、知らずにレジナルドの中に積もっていったようだ。
レジナルドは家にはとっくに見切りをつけ、自分はこのまま市井に紛れて生きていくのだと決心していた。放蕩の限りを尽くしていたのも、実家から見た事で、その実下町に生活の土台を作り出していた時だった。
そのバーナビーとレジナルドが、お互いの正体を知った時、ある変化が起こり始める。
バーナビーは貧民のいない国作りを、レジナルドは持って生まれた能力に左右されない社会作りを、己の中の命題にし始めた。その為には、どうしても権力と財力がいる。二人は結託してそれぞれの『家』を相続する事を決心する。
それからの二十有余年、二人はお互いを一番の仲間と認識してここまで来た。バーナビーは弱者救済と貧困根絶へ向けて、レジナルドは教育と職場の改善を中心に改革を進めた。
その結果が今の王国である。教育改革の結果優秀な人材が育ち、役人となった彼らは今現在あちこちの領地の領主代行を務め、それぞれに領地改革に乗り出している。
バーナビーの方も、経済をよく回し、働き口のない人間に職を斡旋する機関を設け、雇用を創設する事にも腐心した。
現在の王国は彼らにとっては、何よりも守らなくてはならない存在でもあった。まだまだやりたい事はあるのだ。こんなところで立ち止まってはいられない。
「……あの娘が中央神殿とどんな繋がりがあるのか知りたかったんだが」
「逃げられてしまっては調べようがありませんな」
ルイザ・アトキンソンが中央神殿と関わりがあるのであれば、聖地に対する駒の一つとして手元に置いておきたかったのだ。
彼女は勇者の婚約者であるため、そういう意味での神殿からの干渉ならばあり得る話ではあった。だが洗礼名秘匿となれば、その限りではない。
少なくとも洗礼を受ける時点で、聖地にとっては特別だったという事になる。
これまでに神殿からのなにがしかの干渉を国が受けた記録はない。だが今までにないからといって、この先未来永劫あり得ない、とは言えないのだ。それを見越して手を打っておいて損はない。
また聖地からの干渉はなくとも、王都中央神殿となると話は別だ。特にこのところの態度は目に余る。
ことあるごとに寄進を無心するだけならばまだかわいげがあるが、最近はそれに加え地位の無心が始まった。
神殿内部にも貴族出身者がいる。そうした連中の、言わば『本家』や『分家』の人間を役所の高官に据えろと要求してくるようになったのだ。
王都王都中央神殿の最高位、上級祭司モロウは欲深い女だ。こちらの隙を突いていくらでも自分の要求を押しつけてくる。
もっとも隙はバーナビー達が作り出したものなため、のらりくらりとかわして今まで一度も要求を受け入れた事はない。そうしてモロウの越権行為の証拠を集めている所だった。
通常神官が法を犯した場合、裁くのは国ではなく聖地である。神殿はある種の治外法権となっていた。
バーナビーが聖地に対していい印象を抱いていない理由の一つだ。神官の任命権も王国側にはないため、どんなに下劣な人材だとしても、聖地に認められてしまえばこちらとしては手が出せないのだ。
それもあって聖地への強い影響力が欲しかった。だが正攻法で崩せる程聖地は甘くはない。そのせいで焦っていた部分も確かにあった。
「ゴードンを一緒にやったから、奴が何か持ち帰るだろう」
近衛騎士であるゴードンは、その職責を超えて今やバーナビーの懐刀とも言われている。腕が立つだけでなく、頭脳明晰で荒事の対処にも慣れている。
実家は辺境伯であるため、貴族的な教養だけでなく、実践的な訓練も施されていたのだろう。
「フロックハート子爵ですか。なるほど。彼ならば勇者一行ですから、中央神殿の警戒も薄いでしょう。持ち帰る情報には期待出来そうですな」
勇者は神殿にとって、現世の人間の中ではもっとも尊いとされる人物だ。女神自らその力を開くとあって、生きた聖人扱いでもある。
その仲間が一緒に神殿に行っているのだ。普通では入れない場所まで入る事が出来る可能性がある。その辺りにも期待していた。
「聖地へ行くと思うか?」
「おそらくは。その為に前倒しでリンジーを中級大祭司に上げたのでしょう」
「前倒し?」
バーナビーは片眉を器用に上げた。
「ええ。三階級特進は決定済みだったそうですが、実際の辞令はまだ先になる予定だったようです。何が原因かはわかりませんが、中央神殿は王宮から彼女を連れ去る為に、昇格の前倒しをしたようですよ。本当に急で、聖地から青の法衣が送られたのは、今朝方だったという話です」
「……ますますもってあの娘、何者なんだ? そこまで聖地が肩入れする理由がわからん」
神殿組織はどの国からも独立している。一個の国のような存在だ。その頂点にあるのが、聖地の中央神殿である。
これまでにもその絶大な権力を狙って聖地を懐柔しようとした国は多いが、そのどれもが返り討ちにあっている。信仰の中心地であるが、意外と泥臭い権力闘争にも慣れている節がある。
その割りには積極的に行動を起こした試しがない。その部分がバーナビーには理解が出来ない。権力を持ちながら、それに拘泥しないその姿勢は、理解不能を通り越してある種の嫌悪感さえ抱かせる。
──偽善者共め
それが偽らざるバーナビーの本音だった。そこで『聖職者だから』というのは、バーナビーにとって理由にはならない。王都中央神殿という悪しき例を側で見ていたせいもある。
「あの娘ですが、調べた所、聖地とは縁もゆかりもないようです。洗礼名の事だけはひっかかりますが」
レジナルドの情報収集能力はバーナビーもよく知っている。彼が調べてわからないのであれば、誰がやってもわからないだろう。だからこそ余計に謎が深まる。聖地は一体何を考えているのか。
「失礼します」
「何事か」
扉の所から侍従が顔を出した。応えたレジナルドと、座るバーナビーを交互に見て、ゆっくりと口を開いた。
「ご歓談の最中申し訳ありません。カレン王女殿下がお見えになっていらっしゃいます」
「カレンが?」
「はい。既に控えの間においでです」
侍従の言葉にバーナビーはレジナルドと顔を見合わせた。そういえばあの娘はカレンのお気に入りのお針子だという話しだった。
我が娘ながら相変わらず耳の早い事だ、とバーナビーは舌を巻く。これも血筋故か、それとも己の施した教育故か。
「よい、通せ」
「は」
侍従が一礼して部屋を去ってすぐ、華やかな少女が入室してきた。バーナビーの長女、カレンである。
「ごきげんよう、お父様」
「あまり良くはないがな」
「まあ。私(わたくし)のお気に入りをいじめたりなさるからでしてよ」
再びバーナビーはレジナルドと顔を見合わせる。思わず苦笑が漏れた。本当にどこまで知っているのか、この娘は。
「別にいじめてはいないさ。ちょっと聞きたい事があっただけだよ」
「それにしては随分ときつい詰問だったようですわね」
カレンのこの一言に、さすがのバーナビーも一瞬言葉をなくした。本当にどこからどうやって知ったのか。
「カレン……」
「世の中どこにでも耳も目もあるんですのよ」
そう言うと、カレンは扇で口元を覆い隠してほほほと笑った。
「それはそうと、どうして中央神殿が出てくるんですの?」
「それを知りたくて聞いていたんだよ」
ルイザ・アトキンソンと中央神殿の関わりがどうしても調べられず、結局王宮に留め置いているのを良いことに、本人に聞く事にしたのだ。
だが聞いた時の感触では、本人も知らないようだ。庶民は自分の洗礼名を知らずとも生活に困りはしない。おかげで結婚するまで洗礼名を知らなかったという事も多くある程だ。それ自体不思議な事ではない。
聖地による秘匿と思われる、と継げた時にも、本人も驚いていた。あれが演技というのなら、余程の名女優という事になる。
「本人は知らなかった」
レジナルドの言では、娘側からの神殿関連への関与は見当たらない。おそらく故郷の神殿でも普通の庶民と何ら変わらない対応をしていたのだろう。
「お父様?」
「ならばやはり中央神殿側から調べるべきかな?」
誰に言うでもなく呟くバーナビーを、娘のカレンと側近のレジナルドは静かに見つめていた。
「レジナルド、聖地に人を送り込む事は出来るか?」
「出来ますが、最奥までは難しいでしょうな。その辺りの神殿とは訳が違います」
普通の神殿ならば、調べるのは苦ではない。それなりの伝手もあるのである程度の内情は調べる事が出来る。その辺りを使って王都中央神殿の内情も、ほぼ正確に手にしている二人だった。
先だってのヘールズ祭司の降格騒動も、しっかりと把握していた。ヘールズはモロウの側近の一人だった。
モロウが必死の抵抗を行ったようだが、降格決定を通達したのが聖地の幹部、リスゴー上級大祭司だった為、嘆願も空しくヘールズは降格の後に僻地の神殿へと飛ばされている。
リスゴー上級大祭司の神殿での通り名は『首切り魔』である。神官にあるまじきその名の通り、彼女が査察を行った神殿では、少なからぬ降格人事が行われる。おかげでどの神殿でも彼女の接待は最優先事項だという。
だが一方で、その降格人事は事情を知る者ならば誰もが納得するものだという。公正さにかけては右に出る者なしと言われるゆえんだ。その一方で公正すぎるという話も聞く。一切の情状酌量がないのが、彼女の特徴らしい。
「やはり聖地は一筋縄ではいかんか」
「王都中央神殿と聖地は切り離して考えた方がよろしいのでは?」
「ふむ……その方向も」
バーナビーがそう言いかけた時、扉が荒々しく開け放たれた。
「し、失礼します!! 緊急事態です!!」
飛び込んで来たのは侍従だ。真っ青な顔で息を荒げている。
「何事だ!?」
「その! ……そ、空におかしなものが」
レジナルドが先に動き、窓に寄ってレースのカーテンを引き開けた。窓の向こう側、空の一点に、確かにおかしなものが浮かんでいる。
「何だ……? あれは」
呆然と呟くバーナビーに、レジナルドは近場に棒立ちになっていた侍従を呼び、望遠鏡を取ってこさせた。
運び込まれた望遠鏡で、バーナビーが遠目に見えるものを観察する。
「……城、か?」
言いながら持っていた望遠鏡をレジナルドに渡した。レジナルドは望遠鏡でそちらを見てから、バーナビーに向かって厳しい表情で頷いた。
城が空を飛ぶなどあり得ない。だが、そこで二人の脳裏に浮かんだ存在は、当然のように一致していた。
「……大魔王は討伐されたのだったよな?」
「はい。王子殿下もご確認なさったと」
「では、あれは何だ?」
バーナビーのその一言に、答えられる者は誰一人いなかった。先程の騒動の際、ゴードンが勇者を連れて行っている。ルイザ・アトキンソンが聖地へ送られたのなら、彼らもそれに同行した可能性が高い。
つまり、目の前の不可思議な物体に対応出来る人間が、今現在誰もいないという事だ。
──先程の件が勇者の耳に入っていれば、頼る事も出来ないか
よもやこのような事態が起きようとは。先の見えない人の身を、今日ほど呪わしいと思った事はなかった。
「とにかく監視を怠るな。民衆の避難を最優先にさせろ。まさかこんなに早く使う事になるとは思わなかったが……」
王都の地下には人口の空洞が存在する。いつ誰が作ったのかは定かではないが、そこに人が生活出来るだけの整備を整えたのは、ここ数十年だそうだ。
魔王の脅威が常にあるこの世界で、たとえ地下に逃げ込もうとも意味はないかも知れないが、少なくとも全滅は免れるかも知れない。
その地下空間に、王都の民衆を避難させるつもりなのだ。
「計画通り、区間を区切って順序よく移動させろ。人々が恐慌状態にならないよう気を配るように。レジナルド、陣頭指揮は頼む」
「お任せを」
そう一言残してレジナルドは一礼し部屋を去った。
「カレン、お前も行くんだ」
「お父様は?」
心配そうな表情の娘に、少しだけ笑んでバーナビーは続けた。
「私はここに残る。責任者だからな。だがお前は次代の責任者だ。もしもの事があれば、今度はお前が全ての事に当たらなくてはならない。覚悟せよ」
決して血筋だけで選んだ後継者ではない。その能力を冷静に見極め、指名するに足る存在と判断したからこそ、後継者に指名したのだ。
カレンは父親の目をしっかりと捕らえ、やがて強く頷いて承諾した。
「わかりました。お任せくださいませ。立派にお父様の代理は務めてみせますわ」
そうして笑った表情は、遠い日の自分を思い起こさせ、バーナビーは少し懐かしく感じていた。自分の娘が、あの頃の自分のように己の目標を決めて歩み出している。それは頼もしくもあり、少し寂しくもあった。
手を伸ばして、小柄な娘の体を抱きしめる。あれが真実魔王か、それに近しい存在を示すものであるなら、自分の命はここで終わる可能性が高い。娘にも、他の子供達にも、二度と会えないだろう。
「王妃と他の子供達の事、頼んだぞ」
「はい」
離したカレンは、意志の強い瞳で見上げてくる。いい目だ。バーナビーはカレンのこの意志の強さを高く評価している。
決して我欲におぼれず理想だけで突っ走る事もない。どこか醒めているのが気にはなるが、それもまた為政者としては良き面として現れるだろう。
そのカレンが少し言いづらそうに言葉を選んだ。
「その、侯爵夫人の方はよろしいんですの?」
「大丈夫だ。あちらはラッセルがついている。あれももう一人前の男だからな」
愛人の地位にいるプリース侯爵夫人イヴァンジェリンは、愛人というよりは戦友のような間柄だ。ラッセルとその下の娘デーナが成人し次第、希望通り神殿への出家を許可する予定でいる。
王妃はもとよりカレンとも良好な関係でいると思っていたが、やはり娘の立場では複雑なものがあったらしい。バーナビーは己の至らなさを痛感した。
「さあ、もう行きなさい」
カレンは無言で頷いて私室を後にした。
レジナルドもカレンも去った私室は、いきなりがらんとした印象を与えた。自分もここでのんびりしている訳にはいかない。侍従を呼んで共に執務室へと向かった。
「まずは情報統制を、それから各国にも通達を出しておけ。我が国一国だけで片が付けばいいが、そうも行くまい」
歩きながらも側にいる侍従に次々に指示を与えていく。緊急事態だ、備え過ぎという事はない。
これからやることは山ほどある。暢気に構えている訳にはいかない。バーナビーは緊張を抱えた自分自身に、だがそこか高揚しているのを感じていた。
救われない性分だ。そう思いながらも、執務室へと急ぐのだった。
※ルイザ脱出後の陛下、公爵、王女殿下。狸陛下も色々頑張っているんだよ、という話。
しばらく静寂に包まれていた彼の私室に、訪れるものがあった。バーナビーの腹心、レイン侯爵レジナルドだ。
「失礼します。……随分と不機嫌そうですな」
「当然だ。これからという時に小娘に邪魔されたのだぞ」
不機嫌を隠す気もなく言い放つバーナビーに、レジナルドはやれやれと小さい溜息を吐いた。
「言い方を考えてください。誰かに聞かれたらどうなさるおつもりで? 相手はまがりなりにも大祭司ですぞ」
「どうもしないさ。今更だろう?」
バーナビーは鼻をふんっと鳴らした。その様子はいささかその立場にいる人物としてはふさわしくはないだろう。レジナルドはこっそりと溜息をこぼした。
本人の言いたい事もわからないでもないが、彼はもう二十年以上この地位にいるのだ。昔の事を忘れろとはいわないが、ことさらそれをさらけ出すような真似も謹んでもらいたい。
「子供じゃないんですから、もう少し大人な対応をしていただきたいものです」
「お前……そう言えば俺が引っ込むと思ってるな?」
「さて」
この二人の関係も二十年以上を数える。お互いに若い頃は今の地位に就くなど考えてもいなかった。
バーナビーは時の国王の落としだねとして壁際で、レジナルドは公爵家の放蕩息子として遊びほうけていた。
そんな二人が出会ったのが壁際にほど近い安酒場だ。何が原因で始まったのか、酒場の全部を巻き込む喧嘩に行き合った。
まだ血気盛んな頃である。もてあます体力を発散するため、これ幸いと殴り合いに参加し、気づけば残っているのは二人だけだった。
どちらからともなく場所を変えて飲み直そうという事になり、近所の酒場になだれ込み、その店の酒を飲み尽くす勢いで飲みながらあれこれと話した。
不思議と馬が合う。生まれも育ちもこれほど違う相手だというのに、おかしな連帯感を感じた。
それからも申し合わせた訳ではないのに、あちらこちらで出くわす事になり、その時にはどちらからともなく飲みに誘った。そんな飲み仲間の一人だった。お互いに。
その関係が激変するのに、一月もかからなかった。王都を中心に、国中に流行病が大流行した。致死率の高い病で、当時は確たる治療法も存在しなかった。神殿の神聖術でも治療出来ず、人々は為す術もなく病に怯えた。
それだけで収まらなかったのは、病に罹ったのは庶民だけではなかった事だ。地位や身分の上下に関わらず、流行病はその猛威を振るった。
おかげで王位継承権を持つ存在も一挙にその数を減らした。その傷跡は今現在も残り、現存する王族は数える程しかいない。
そうなると自然問題になるのが次代の王位継承である。幸いというのか皮肉というのか、老齢である国王だけは王族の中でも罹患していなかった。
妻である王妃や息子である王太子、娘である王女達、自分の弟妹、従兄弟に至るまで亡くなる異常事態に、国王のみならず臣下達も焦り出した。このままでは王位を継げる人間がいなくなってしまう。
国王とは国の要である。誰でも継げるものではない。人々は血統にこそ、その正当性を見いだすものだ。実質は意味がないものではあるが、説得力があるのが血統というものだ。
だがその血統が失われようとしている。このままでは流行病で弱り切った国で、内乱が起きかねない。実際貴族のうちの何人かは、自領での軍備増強を進めているとの情報も入っていた。
その際に一人の側近がふと思い出した人物がいた。母親の身分が低すぎて、王族にも庶子にも数えられなかった人物。それが現在の国王、バーナビーである。
探し出されたバーナビーは、王宮からの迎えに否を唱えた。当然だ、自分たち親子を追い出したのは、その王宮なのだ。
その後の生活は苦しいものだった。父親だという国王からの援助は一切なく、母一人子一人で貧乏のどん底にいた。
母が持っていたものを少しずつ売り、また朝から晩まで必死に働いてやっと食べていける程度の生活だ。それでも母はバーナビーに愛情を持って接してくれた。
その母はこの流行病で亡くなった。息子のバーナビーの目から見ても、苦労続きの人生だった。その母と自分を見捨てた王宮が、今更迎えなど虫が良すぎる、と迎えの使者を怒鳴り飛ばしたのだ。
十四のバーナビーは体格も良く、その年で既に成人男性と近い身長だったため、迫力も相当だったのだろう。使者は逃げるように去っていった。
一方のレジナルドも、父を飛ばして祖父から色々と言われていた。レイン公爵家は昔から王家との繋がりが強い。
それは単純に権力というものではなく、不思議な関わりとして続いていた。曰く、公爵家の当主が傅く相手こそ、真の王と言われているのだ。
この難局にあって、今こそ公爵家の力を使う時である、と祖父に説得されたが、レジナルドにしてみれば家を継ぐのは自分ではないと思っているため意味がなかった。
レジナルドが家に違和感を感じるようになったのは、割と早い時期である。公爵家には代々魔力の強い子供が多く生まれる。魔力値の高さはそのまま家での順位を表していた。
そんな家にあって、レジナルドは魔力値がほぼない状態で生まれている。幼い頃から従兄弟達や親類筋にはバカにされて育ったものだ。
父親もそんな息子には期待せず、いずれは従兄弟の誰かを養子に迎えて家を継がせる、お前は家督を継げると思うなと言い続けていた。
レジナルド本人も、違和感を感じる家を嫌い、早いうちに外で過ごす事を覚えた。それに対してもまた親族から批判があったが、その時にはレジナルド本人が右から左に流す事を覚えていた。
そんな自分にこの祖父は一体何を期待しているというのか。レジナルドは暗い笑いがこみ上げてきた。
だが窮屈な親族の中にあって、祖父だけは自分を評価しつづけてくれた。その理由までは知らないが、唯一自分の存在を受け入れてくれた祖父の言葉は、知らずにレジナルドの中に積もっていったようだ。
レジナルドは家にはとっくに見切りをつけ、自分はこのまま市井に紛れて生きていくのだと決心していた。放蕩の限りを尽くしていたのも、実家から見た事で、その実下町に生活の土台を作り出していた時だった。
そのバーナビーとレジナルドが、お互いの正体を知った時、ある変化が起こり始める。
バーナビーは貧民のいない国作りを、レジナルドは持って生まれた能力に左右されない社会作りを、己の中の命題にし始めた。その為には、どうしても権力と財力がいる。二人は結託してそれぞれの『家』を相続する事を決心する。
それからの二十有余年、二人はお互いを一番の仲間と認識してここまで来た。バーナビーは弱者救済と貧困根絶へ向けて、レジナルドは教育と職場の改善を中心に改革を進めた。
その結果が今の王国である。教育改革の結果優秀な人材が育ち、役人となった彼らは今現在あちこちの領地の領主代行を務め、それぞれに領地改革に乗り出している。
バーナビーの方も、経済をよく回し、働き口のない人間に職を斡旋する機関を設け、雇用を創設する事にも腐心した。
現在の王国は彼らにとっては、何よりも守らなくてはならない存在でもあった。まだまだやりたい事はあるのだ。こんなところで立ち止まってはいられない。
「……あの娘が中央神殿とどんな繋がりがあるのか知りたかったんだが」
「逃げられてしまっては調べようがありませんな」
ルイザ・アトキンソンが中央神殿と関わりがあるのであれば、聖地に対する駒の一つとして手元に置いておきたかったのだ。
彼女は勇者の婚約者であるため、そういう意味での神殿からの干渉ならばあり得る話ではあった。だが洗礼名秘匿となれば、その限りではない。
少なくとも洗礼を受ける時点で、聖地にとっては特別だったという事になる。
これまでに神殿からのなにがしかの干渉を国が受けた記録はない。だが今までにないからといって、この先未来永劫あり得ない、とは言えないのだ。それを見越して手を打っておいて損はない。
また聖地からの干渉はなくとも、王都中央神殿となると話は別だ。特にこのところの態度は目に余る。
ことあるごとに寄進を無心するだけならばまだかわいげがあるが、最近はそれに加え地位の無心が始まった。
神殿内部にも貴族出身者がいる。そうした連中の、言わば『本家』や『分家』の人間を役所の高官に据えろと要求してくるようになったのだ。
王都王都中央神殿の最高位、上級祭司モロウは欲深い女だ。こちらの隙を突いていくらでも自分の要求を押しつけてくる。
もっとも隙はバーナビー達が作り出したものなため、のらりくらりとかわして今まで一度も要求を受け入れた事はない。そうしてモロウの越権行為の証拠を集めている所だった。
通常神官が法を犯した場合、裁くのは国ではなく聖地である。神殿はある種の治外法権となっていた。
バーナビーが聖地に対していい印象を抱いていない理由の一つだ。神官の任命権も王国側にはないため、どんなに下劣な人材だとしても、聖地に認められてしまえばこちらとしては手が出せないのだ。
それもあって聖地への強い影響力が欲しかった。だが正攻法で崩せる程聖地は甘くはない。そのせいで焦っていた部分も確かにあった。
「ゴードンを一緒にやったから、奴が何か持ち帰るだろう」
近衛騎士であるゴードンは、その職責を超えて今やバーナビーの懐刀とも言われている。腕が立つだけでなく、頭脳明晰で荒事の対処にも慣れている。
実家は辺境伯であるため、貴族的な教養だけでなく、実践的な訓練も施されていたのだろう。
「フロックハート子爵ですか。なるほど。彼ならば勇者一行ですから、中央神殿の警戒も薄いでしょう。持ち帰る情報には期待出来そうですな」
勇者は神殿にとって、現世の人間の中ではもっとも尊いとされる人物だ。女神自らその力を開くとあって、生きた聖人扱いでもある。
その仲間が一緒に神殿に行っているのだ。普通では入れない場所まで入る事が出来る可能性がある。その辺りにも期待していた。
「聖地へ行くと思うか?」
「おそらくは。その為に前倒しでリンジーを中級大祭司に上げたのでしょう」
「前倒し?」
バーナビーは片眉を器用に上げた。
「ええ。三階級特進は決定済みだったそうですが、実際の辞令はまだ先になる予定だったようです。何が原因かはわかりませんが、中央神殿は王宮から彼女を連れ去る為に、昇格の前倒しをしたようですよ。本当に急で、聖地から青の法衣が送られたのは、今朝方だったという話です」
「……ますますもってあの娘、何者なんだ? そこまで聖地が肩入れする理由がわからん」
神殿組織はどの国からも独立している。一個の国のような存在だ。その頂点にあるのが、聖地の中央神殿である。
これまでにもその絶大な権力を狙って聖地を懐柔しようとした国は多いが、そのどれもが返り討ちにあっている。信仰の中心地であるが、意外と泥臭い権力闘争にも慣れている節がある。
その割りには積極的に行動を起こした試しがない。その部分がバーナビーには理解が出来ない。権力を持ちながら、それに拘泥しないその姿勢は、理解不能を通り越してある種の嫌悪感さえ抱かせる。
──偽善者共め
それが偽らざるバーナビーの本音だった。そこで『聖職者だから』というのは、バーナビーにとって理由にはならない。王都中央神殿という悪しき例を側で見ていたせいもある。
「あの娘ですが、調べた所、聖地とは縁もゆかりもないようです。洗礼名の事だけはひっかかりますが」
レジナルドの情報収集能力はバーナビーもよく知っている。彼が調べてわからないのであれば、誰がやってもわからないだろう。だからこそ余計に謎が深まる。聖地は一体何を考えているのか。
「失礼します」
「何事か」
扉の所から侍従が顔を出した。応えたレジナルドと、座るバーナビーを交互に見て、ゆっくりと口を開いた。
「ご歓談の最中申し訳ありません。カレン王女殿下がお見えになっていらっしゃいます」
「カレンが?」
「はい。既に控えの間においでです」
侍従の言葉にバーナビーはレジナルドと顔を見合わせた。そういえばあの娘はカレンのお気に入りのお針子だという話しだった。
我が娘ながら相変わらず耳の早い事だ、とバーナビーは舌を巻く。これも血筋故か、それとも己の施した教育故か。
「よい、通せ」
「は」
侍従が一礼して部屋を去ってすぐ、華やかな少女が入室してきた。バーナビーの長女、カレンである。
「ごきげんよう、お父様」
「あまり良くはないがな」
「まあ。私(わたくし)のお気に入りをいじめたりなさるからでしてよ」
再びバーナビーはレジナルドと顔を見合わせる。思わず苦笑が漏れた。本当にどこまで知っているのか、この娘は。
「別にいじめてはいないさ。ちょっと聞きたい事があっただけだよ」
「それにしては随分ときつい詰問だったようですわね」
カレンのこの一言に、さすがのバーナビーも一瞬言葉をなくした。本当にどこからどうやって知ったのか。
「カレン……」
「世の中どこにでも耳も目もあるんですのよ」
そう言うと、カレンは扇で口元を覆い隠してほほほと笑った。
「それはそうと、どうして中央神殿が出てくるんですの?」
「それを知りたくて聞いていたんだよ」
ルイザ・アトキンソンと中央神殿の関わりがどうしても調べられず、結局王宮に留め置いているのを良いことに、本人に聞く事にしたのだ。
だが聞いた時の感触では、本人も知らないようだ。庶民は自分の洗礼名を知らずとも生活に困りはしない。おかげで結婚するまで洗礼名を知らなかったという事も多くある程だ。それ自体不思議な事ではない。
聖地による秘匿と思われる、と継げた時にも、本人も驚いていた。あれが演技というのなら、余程の名女優という事になる。
「本人は知らなかった」
レジナルドの言では、娘側からの神殿関連への関与は見当たらない。おそらく故郷の神殿でも普通の庶民と何ら変わらない対応をしていたのだろう。
「お父様?」
「ならばやはり中央神殿側から調べるべきかな?」
誰に言うでもなく呟くバーナビーを、娘のカレンと側近のレジナルドは静かに見つめていた。
「レジナルド、聖地に人を送り込む事は出来るか?」
「出来ますが、最奥までは難しいでしょうな。その辺りの神殿とは訳が違います」
普通の神殿ならば、調べるのは苦ではない。それなりの伝手もあるのである程度の内情は調べる事が出来る。その辺りを使って王都中央神殿の内情も、ほぼ正確に手にしている二人だった。
先だってのヘールズ祭司の降格騒動も、しっかりと把握していた。ヘールズはモロウの側近の一人だった。
モロウが必死の抵抗を行ったようだが、降格決定を通達したのが聖地の幹部、リスゴー上級大祭司だった為、嘆願も空しくヘールズは降格の後に僻地の神殿へと飛ばされている。
リスゴー上級大祭司の神殿での通り名は『首切り魔』である。神官にあるまじきその名の通り、彼女が査察を行った神殿では、少なからぬ降格人事が行われる。おかげでどの神殿でも彼女の接待は最優先事項だという。
だが一方で、その降格人事は事情を知る者ならば誰もが納得するものだという。公正さにかけては右に出る者なしと言われるゆえんだ。その一方で公正すぎるという話も聞く。一切の情状酌量がないのが、彼女の特徴らしい。
「やはり聖地は一筋縄ではいかんか」
「王都中央神殿と聖地は切り離して考えた方がよろしいのでは?」
「ふむ……その方向も」
バーナビーがそう言いかけた時、扉が荒々しく開け放たれた。
「し、失礼します!! 緊急事態です!!」
飛び込んで来たのは侍従だ。真っ青な顔で息を荒げている。
「何事だ!?」
「その! ……そ、空におかしなものが」
レジナルドが先に動き、窓に寄ってレースのカーテンを引き開けた。窓の向こう側、空の一点に、確かにおかしなものが浮かんでいる。
「何だ……? あれは」
呆然と呟くバーナビーに、レジナルドは近場に棒立ちになっていた侍従を呼び、望遠鏡を取ってこさせた。
運び込まれた望遠鏡で、バーナビーが遠目に見えるものを観察する。
「……城、か?」
言いながら持っていた望遠鏡をレジナルドに渡した。レジナルドは望遠鏡でそちらを見てから、バーナビーに向かって厳しい表情で頷いた。
城が空を飛ぶなどあり得ない。だが、そこで二人の脳裏に浮かんだ存在は、当然のように一致していた。
「……大魔王は討伐されたのだったよな?」
「はい。王子殿下もご確認なさったと」
「では、あれは何だ?」
バーナビーのその一言に、答えられる者は誰一人いなかった。先程の騒動の際、ゴードンが勇者を連れて行っている。ルイザ・アトキンソンが聖地へ送られたのなら、彼らもそれに同行した可能性が高い。
つまり、目の前の不可思議な物体に対応出来る人間が、今現在誰もいないという事だ。
──先程の件が勇者の耳に入っていれば、頼る事も出来ないか
よもやこのような事態が起きようとは。先の見えない人の身を、今日ほど呪わしいと思った事はなかった。
「とにかく監視を怠るな。民衆の避難を最優先にさせろ。まさかこんなに早く使う事になるとは思わなかったが……」
王都の地下には人口の空洞が存在する。いつ誰が作ったのかは定かではないが、そこに人が生活出来るだけの整備を整えたのは、ここ数十年だそうだ。
魔王の脅威が常にあるこの世界で、たとえ地下に逃げ込もうとも意味はないかも知れないが、少なくとも全滅は免れるかも知れない。
その地下空間に、王都の民衆を避難させるつもりなのだ。
「計画通り、区間を区切って順序よく移動させろ。人々が恐慌状態にならないよう気を配るように。レジナルド、陣頭指揮は頼む」
「お任せを」
そう一言残してレジナルドは一礼し部屋を去った。
「カレン、お前も行くんだ」
「お父様は?」
心配そうな表情の娘に、少しだけ笑んでバーナビーは続けた。
「私はここに残る。責任者だからな。だがお前は次代の責任者だ。もしもの事があれば、今度はお前が全ての事に当たらなくてはならない。覚悟せよ」
決して血筋だけで選んだ後継者ではない。その能力を冷静に見極め、指名するに足る存在と判断したからこそ、後継者に指名したのだ。
カレンは父親の目をしっかりと捕らえ、やがて強く頷いて承諾した。
「わかりました。お任せくださいませ。立派にお父様の代理は務めてみせますわ」
そうして笑った表情は、遠い日の自分を思い起こさせ、バーナビーは少し懐かしく感じていた。自分の娘が、あの頃の自分のように己の目標を決めて歩み出している。それは頼もしくもあり、少し寂しくもあった。
手を伸ばして、小柄な娘の体を抱きしめる。あれが真実魔王か、それに近しい存在を示すものであるなら、自分の命はここで終わる可能性が高い。娘にも、他の子供達にも、二度と会えないだろう。
「王妃と他の子供達の事、頼んだぞ」
「はい」
離したカレンは、意志の強い瞳で見上げてくる。いい目だ。バーナビーはカレンのこの意志の強さを高く評価している。
決して我欲におぼれず理想だけで突っ走る事もない。どこか醒めているのが気にはなるが、それもまた為政者としては良き面として現れるだろう。
そのカレンが少し言いづらそうに言葉を選んだ。
「その、侯爵夫人の方はよろしいんですの?」
「大丈夫だ。あちらはラッセルがついている。あれももう一人前の男だからな」
愛人の地位にいるプリース侯爵夫人イヴァンジェリンは、愛人というよりは戦友のような間柄だ。ラッセルとその下の娘デーナが成人し次第、希望通り神殿への出家を許可する予定でいる。
王妃はもとよりカレンとも良好な関係でいると思っていたが、やはり娘の立場では複雑なものがあったらしい。バーナビーは己の至らなさを痛感した。
「さあ、もう行きなさい」
カレンは無言で頷いて私室を後にした。
レジナルドもカレンも去った私室は、いきなりがらんとした印象を与えた。自分もここでのんびりしている訳にはいかない。侍従を呼んで共に執務室へと向かった。
「まずは情報統制を、それから各国にも通達を出しておけ。我が国一国だけで片が付けばいいが、そうも行くまい」
歩きながらも側にいる侍従に次々に指示を与えていく。緊急事態だ、備え過ぎという事はない。
これからやることは山ほどある。暢気に構えている訳にはいかない。バーナビーは緊張を抱えた自分自身に、だがそこか高揚しているのを感じていた。
救われない性分だ。そう思いながらも、執務室へと急ぐのだった。
※ルイザ脱出後の陛下、公爵、王女殿下。狸陛下も色々頑張っているんだよ、という話。
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