キミロマン

松丹子

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08 枯渇

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 ある夜、いきなり連絡があって、出てみると香野さんからだった。

「どうしたの?」

 聞くと、香野さんは申し訳なさそうに、

『小暮くん、もしかして私のファイル持って帰ってない?』

 俺は「え」と言ってかばんを探る。俺たちはたまたま、同じような半透明のアタッシュケースを使っている。俺のだと思い込んでいたのだけど、よく見れば確かに、見覚えのないノートが入っていた。

「わ、ごめん。必要? 持って行こうか」
『今、バイトから帰るところで……小暮くんの家、大学の近くだよね? 行くから、場所教えて』
「え、いいよ。俺が行くから」
『大丈夫、多分もう近くにいるの』

 そう言って来た香野さんに、とりあえずお茶を勧めて中へ招き入れる。
 男ひとりの家に招かれるのも嫌かと思ったが、あまり気にしないのかすんなり入ってきた。
 危機管理能力が低いのか、信頼されているのかは分からないが、まあ後者だと思っておくことにする。

「ごめんね。よかったー、連絡ついて。定期とポストの鍵がその中で」

 大学内の購買でバイトをした後、帰宅しようとして気づいたらしい。

「助かったぁ。お茶までご馳走になって、ありがとう」

 香野さんは相変わらず、爽やかな笑顔でお茶を飲み、帰って行った。
 俺はそれを見送りながら、せめて駅まで送ってやるべきだったなと、後で気づいた。


 ***


 最後に会ってから2週間。
 陽菜はぱったりと俺の家に来なくなった。
 夏休み前までに3回来ると言っていたのに、それを信じていたわけじゃないけど、今まで毎週来ていたのが嘘のように、何も音沙汰がない。
 何かあったのかと思ったが、そういうわけではなさそうだった。ベランダにはときどき洗濯物が干してあったし、部屋の前を通るときには、音が聞こえることもあった。
 元気なら、別にそれでいい。
 来訪がなかった頃に戻るだけのこと。
 頭ではそう理解しているのに、身体と欲望は言うことをきかない。
 別にセックスなんてなくてもいい、と陽菜に言ったのは、嘘ではないつもりだった。実際、他の女に求められても、今は抱く気もない。
 陽菜が欲しかった。
 喉の渇きと同じように、他の誰でもない、陽菜の温もりを、匂いを、声を、求めた。自慰の手伝いだなんて、なんてくだらない思い込みだったのだろう。俺は陽菜を、抱きたくて抱いていたのだと、改めて気づく。

 夏休みは日一日と近づいている。合宿に行っている間、今している陽菜の生存確認もできなくなる。
 陽菜はどうしたのだろう。もう俺は必要ないのか。何か陽菜が嫌がることをしてしまっただろうか。聞きたくても陽菜に会えない。会いに行っていいのかも、俺には分からない。
 陽菜に会いに行くのは、今さらな気がした。俺はいつも受け身でありすぎた。小学生の頃ーー出会ったときからずっと、俺たちの関係の主導権は陽菜が握っていた。そんなことにすら今さら気づいて、自分の主体性のなさに歯痒さを感じる。
 俺は陽菜の連絡先を知らない。陽菜が俺の連絡先を知っているかどうかは知らない。ちらっと何かの折りに、母が陽菜の連絡先を知っているということは聞いた。でもそれだけだ。わざわざ母から連絡先を聞くのは、よほどのことがなければ取れない。いわば最終手段だ。
 陽菜が自分の意思で俺を避けているなら、俺が陽菜と接触するのはまずい気もした。
 陽菜から逃げることを考えていたこともあったのに、本当に離れていく可能性を感じた今、俺はこんなにも恐れている。
 陽菜を、失いたくない。
 不意に思い出す陽菜の残像が、俺の呼吸を浅くして胸を締め付ける。
 あの柔らかい温もり、明るい声、キラキラ光る丸い目を、俺はもう、近くで感じることも見ることも、できないのだろうか。
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