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安田夫婦関連
京都の某大学にて、名もなき講師の思い出話
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すぐ横を自転車が通り抜け、一瞬ぎくりと身体を強張らせた。
ちょうど学生が移動する時間に行き当たってしまったらしい。自分が在学していた10年前も、そういえば休み時間のたびにこんな風だったなと思い出す。
さして広いとはいえない構内の道を、それなりのスピードで行き交う自転車。僕はその間をかい潜るように進んでいく。
研究者の端くれの僕は、最近、他校で講義実績ができたばかりだ。それを聞いた恩師が、自分が教鞭をとっている間に共に教壇に立ちたいから講師をやらないかと言ってきた。
まあひとまず話でもと、久々に母校を尋ねたところだ。
前方に、本を読みながら歩いている女子学生が見える。危ないなと思いながらも、「歩きスマホ禁止」の貼紙のある中で文庫本を開いている姿はなんとなく親近感を覚える。
自転車が女子学生の近くを通過した。
袖が触れそうな距離に近づいたことに驚いたのだろう、彼女は後ろにたたらを踏み、持ちこたえる。
通りすぎた自転車を確認して、ため息をつくと、残念そうに本を閉じた。
ーーおおきに。
不意に、思い出す。
10年前。大学のキャンパス。
目の前を歩く彼女は、別に本を読んでいた訳でもないが、どこかぼんやりして見えた。
すらりとまっすぐに伸びた背。ショートカットから覗く小さな耳。
自転車を避けてハンドルを切った自転車がぶつかりそうになり、とっさにその手首をつかんで立ち止まらせた。
驚きに見開かれた彼女の目が、僕の目を見据えて。
次の瞬間、相当の速度で通りすぎた自転車を、二人で見送り。
彼女は数秒、状況を把握する間を置いた後で、微笑んだ。
その微笑みに見惚れた僕は、一瞬、呼吸を忘れた。
「おおきに」
その声は、容姿から想像したよりも落ち着いていて、そして不思議と、色っぽかった。
女慣れしていない僕はかろうじて「気をつけて」と言っただけで、その手首を離した。
彼女はまた静かに微笑むと、何事もなかったかのように歩き出して、行ってしまった。
もし、もう少し勇気があったなら、僕はあのとき彼女を引き止められただろうか。
君、学部は? 名前は何て言うの。
そう話しかけて、近づく第一歩を踏み出せただろうか。
結局僕は、さして派手でもない彼女の、しかし強烈な印象だけを心に刻んで、その背を見送った。
その後も、学内で数度、彼女を見た。
大概、一人で本を読んでいる姿だった。
木陰のベンチで。講義室で。
姿を見かける度、これが最後のチャンスかもしれないと、何度も何度も何度も、声をかけようか躊躇いーー
そして、その度に諦めて、自分のふがいなさに内心泣いたりした。
彼女は今、どうしているだろう。
数度彼女を見かけたベンチを見ながら、僕はふと空を見上げる。
あれが僕の初恋だった。
残念なことに、今でも奥手な僕は、これという人を見つけられずにいるけれど、研究者なんてだいたいそんなもんだと高をくくっている。
彼女が幸せであればいい。
言葉も呼吸も奪われた、彼女の微笑みを思い出す。
聖女というものを具現化したら、こういう姿なのではとすら思えたものだ。
恩師の研究室がある建物が見えた。
おっと、頭を仕事の話に切り替えねば。
つい、初恋の人に想いを馳せていたことに気づいて苦笑する。
30も過ぎて、思い出に恋をしているようでは……この方面での“活躍“は期待できなそうだ。
僕はガラス戸を押し開けて、恩師の研究室へと向かった。
ちょうど学生が移動する時間に行き当たってしまったらしい。自分が在学していた10年前も、そういえば休み時間のたびにこんな風だったなと思い出す。
さして広いとはいえない構内の道を、それなりのスピードで行き交う自転車。僕はその間をかい潜るように進んでいく。
研究者の端くれの僕は、最近、他校で講義実績ができたばかりだ。それを聞いた恩師が、自分が教鞭をとっている間に共に教壇に立ちたいから講師をやらないかと言ってきた。
まあひとまず話でもと、久々に母校を尋ねたところだ。
前方に、本を読みながら歩いている女子学生が見える。危ないなと思いながらも、「歩きスマホ禁止」の貼紙のある中で文庫本を開いている姿はなんとなく親近感を覚える。
自転車が女子学生の近くを通過した。
袖が触れそうな距離に近づいたことに驚いたのだろう、彼女は後ろにたたらを踏み、持ちこたえる。
通りすぎた自転車を確認して、ため息をつくと、残念そうに本を閉じた。
ーーおおきに。
不意に、思い出す。
10年前。大学のキャンパス。
目の前を歩く彼女は、別に本を読んでいた訳でもないが、どこかぼんやりして見えた。
すらりとまっすぐに伸びた背。ショートカットから覗く小さな耳。
自転車を避けてハンドルを切った自転車がぶつかりそうになり、とっさにその手首をつかんで立ち止まらせた。
驚きに見開かれた彼女の目が、僕の目を見据えて。
次の瞬間、相当の速度で通りすぎた自転車を、二人で見送り。
彼女は数秒、状況を把握する間を置いた後で、微笑んだ。
その微笑みに見惚れた僕は、一瞬、呼吸を忘れた。
「おおきに」
その声は、容姿から想像したよりも落ち着いていて、そして不思議と、色っぽかった。
女慣れしていない僕はかろうじて「気をつけて」と言っただけで、その手首を離した。
彼女はまた静かに微笑むと、何事もなかったかのように歩き出して、行ってしまった。
もし、もう少し勇気があったなら、僕はあのとき彼女を引き止められただろうか。
君、学部は? 名前は何て言うの。
そう話しかけて、近づく第一歩を踏み出せただろうか。
結局僕は、さして派手でもない彼女の、しかし強烈な印象だけを心に刻んで、その背を見送った。
その後も、学内で数度、彼女を見た。
大概、一人で本を読んでいる姿だった。
木陰のベンチで。講義室で。
姿を見かける度、これが最後のチャンスかもしれないと、何度も何度も何度も、声をかけようか躊躇いーー
そして、その度に諦めて、自分のふがいなさに内心泣いたりした。
彼女は今、どうしているだろう。
数度彼女を見かけたベンチを見ながら、僕はふと空を見上げる。
あれが僕の初恋だった。
残念なことに、今でも奥手な僕は、これという人を見つけられずにいるけれど、研究者なんてだいたいそんなもんだと高をくくっている。
彼女が幸せであればいい。
言葉も呼吸も奪われた、彼女の微笑みを思い出す。
聖女というものを具現化したら、こういう姿なのではとすら思えたものだ。
恩師の研究室がある建物が見えた。
おっと、頭を仕事の話に切り替えねば。
つい、初恋の人に想いを馳せていたことに気づいて苦笑する。
30も過ぎて、思い出に恋をしているようでは……この方面での“活躍“は期待できなそうだ。
僕はガラス戸を押し開けて、恩師の研究室へと向かった。
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