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第七章 織り姫危機一髪。(ヒメ/阿久津交互)
09 女の声
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「アラーキーはね、家電系がいいんじゃないかって言ってるんだけど」
「うん」
「それなら、本人に聞いてみた方がいいよね。メーカーとかいろいろこだわりあるだろうし」
「うん」
「これ、おいしいね」
「うん」
「ヒメちゃん、それ、多分油吸わせる紙だから食べられないよ」
「うん」
「ヒメちゃん、だからそれ、食べられないって」
津田ちゃんが私の口から、ずるりと平たい何かを引っ張り出した。私は目をぱちくりする。
「えっ? 津田ちゃん、これ食べたかった?」
「違うよ」
困りきった顔で見られて、私はまた、目をぱちぱちする。
津田ちゃんは私の口から取り出したものを目の前に翳した。
「ヒメちゃん、これ食べられないからね」
「そりゃ、紙は食べられないよね」
「だって食べようとしてたよ、今」
「そうだった?」
私は首を傾げる。心当たりがない。
「そうだったっけ?」
重ねて言うと、津田ちゃんはがっくりと肩を落とした。
「……どうかしたの?」
「え? え? ううん、なんで」
「だって上の空だよ。何か考えてるんでしょう」
「そんなこと……」
「さっきの男の人?」
私は津田ちゃんの顔をじっと見たまま、表情を固めた。
「……あの人が、どうかしたの?」
口を開きかけ、うつむく。
ソラちゃんの台詞を思い出した。
ーー十五歳差くらい?
阿久津さんがこだわるその差に、一体何の意味があるんだろう、と思っていた。
「……不倫とかなら、やめた方がいいよ」
ソラちゃんと同じ言葉。
気まずげな、気遣わしげな態度に、私の頭にかっと血が上る。
「違うもん!」
私は津田ちゃんの手元を見ながら、強い語調で言った。
「違うもん、阿久津さんは、そんなじゃないもん! 不倫なんて、そういうんじゃないの! ああ見えて優しい人で、不器用な人でーー」
「でも、女の人の名前、呼んでたよ」
津田ちゃんの台詞は刃となって私の胸を突き刺した。
決定的な指摘に黙り込む。
「……呼んでた……ね」
「うん」
津田ちゃんは頷いた。私たちの間に沈黙が訪れる。
私の中を、猜疑心と困惑が渦巻く。名前だけしか知らない女への嫉妬。
こんな醜い感情を、私は今まで知らなかった。
胸を締め付けるどす黒い感情をもてあまし、私は胸に両手を抱え込む。柔らかい二つの膨らみが押し潰されて歪んだ。
「……大丈夫?」
優しく気遣う声が聞こえる。けど、私が求めているのはそういう優しさじゃない。津田ちゃんは、いい子だと思う。思うけど、私はーー私は、
「……探す」
「へっ?」
「阿久津さん、探す」
私はきっと顔を上げて、机に両手をつくと立ち上がった。
「改札口に向かった訳じゃなかったもん、このあたりにいるはず。きっと南口だわ。まだ一時間しか経ってないから、きっと大丈夫。……いきなりホテルとか行ってなければ」
ぶつぶつ呟きながら、見知らぬ女とベッドに横たわる阿久津さんを想像して眉を寄せる。嫌だ。絶対嫌だ。阻止しなくちゃ、何としても。
津田ちゃんが困惑した顔で私を見上げて来る。
「あ、あの、ヒメちゃん?」
「うん。津田ちゃん、悪いけど私、行くね」
私はかばんを手にして言った。
「あ、ご飯ちゃんと食べていってね。もったいないから。もったいないオバケ出るから。お会計、また今度割り勘させて。プレゼントと一緒に」
「え、ま、待ってよ。俺も」
「駄目だよ。もったいないオバケに祟られちゃったら困るもん。津田ちゃんはちゃんと食べて出てね。わかった?」
真剣に言うと、津田ちゃんは情けない顔で、頷いたものかと迷っているようだった。
「わかったね?」
念を押すと、こくりと頷く。私はそれを見て、よし、とテーブルに背を向けた。
店を出るなり、スマホを出して電話をかける。
出て。出て。ーー出て。
しばらくすると、着信は伝言板に変わった。
「阿久津さん、澤田です。ヒメです。今から向かいます。待っててください」
言って切り、またかける。履き慣れた靴を履いているとはいえ、走るのはあんまり得意じゃない。特に揺れる胸がうっとうしい。こういうときだけでも取り外せればいいのに。
電話はまた無情にも伝言板に変わる。私からの着信を取らないつもりだろうか。それとも、それともーー
裸で女とむつみ合う阿久津さんの姿を思い浮かべて、唇を噛んだ。
駄目。駄目よ。そんな女と寝るんだったら、私にして。
阿久津さん。
お願い、電話に出て。ーー
私は駅へ向かって走りながら、また電話をかけ直した。
と、電話が繋がった。
「阿久津さんっ!? 阿久津さん、今どこですか! 私です、ヒメです、今そっちに向かいますからーー」
『ーーこんばんはぁ』
呑気な女の声に、頭に上った血が一気に下がっていく。
「……あの、これ、阿久津さんの電話」
『あーくん? うん、そうよ。間違いないわ』
くつくつと笑う女の声に余裕を感じ取り、苛立ちと焦りを覚える。
「阿久津さんは? 阿久津さんに代わってください」
『あーくん、今お手洗いなの。なぁに、あなた。あーくんの後輩?』
私は知らず足を止めていた。あがった息を整えながら、阿久津さんと自分との関係を示す言葉が見つからず、ますます気持ちが逆巻く。
「……阿久津さんと話したいんです」
『うん、でもーーあ、あーくん。ごめんね。なんか可愛い話し方の女の子からよ』
一瞬、スピーカーが空間に浮いたようだ。ボサノバのBGMと、飲食店らしいざわめきが聞こえた。ホテルじゃないと分かりほっとする。
『え? 私が? もう』
女の人は、電話の向こうで楽しげに笑った。喉奥でくつくつ笑いながら、もしもし、とまた私に呼びかける。
「……阿久津さんは?」
声はみっともなくかすれたけど、気にする余裕はなかった。
『出るつもりはないって。もう切れって。ごめんね』
そのまま電話を切られそうだと悟り、私は慌てた。
「ま、待って! あなたは、どういうーー」
『私ぃ?』
女の人は、一層楽しげに笑った。
『十年来の、オトモダチ。主にベッドの上のね』
最後の言葉を確信犯的に言って、じゃあね、と電話は切れた。
私は無機質な通信音を聞きながら、呆然と立ち尽くす。
嫌だ。
嫌だーー
阿久津さん。
不意に蘇ったのは、私が道に迷ったとき、駅まで同行してくれたときの面倒くさそうな横顔だった。
優しい人。不器用な人。
でも、届かない。
届かない。
ーーこんなに、好きなのに。
その場にしゃがみ込み、泣き崩れた。
「うん」
「それなら、本人に聞いてみた方がいいよね。メーカーとかいろいろこだわりあるだろうし」
「うん」
「これ、おいしいね」
「うん」
「ヒメちゃん、それ、多分油吸わせる紙だから食べられないよ」
「うん」
「ヒメちゃん、だからそれ、食べられないって」
津田ちゃんが私の口から、ずるりと平たい何かを引っ張り出した。私は目をぱちくりする。
「えっ? 津田ちゃん、これ食べたかった?」
「違うよ」
困りきった顔で見られて、私はまた、目をぱちぱちする。
津田ちゃんは私の口から取り出したものを目の前に翳した。
「ヒメちゃん、これ食べられないからね」
「そりゃ、紙は食べられないよね」
「だって食べようとしてたよ、今」
「そうだった?」
私は首を傾げる。心当たりがない。
「そうだったっけ?」
重ねて言うと、津田ちゃんはがっくりと肩を落とした。
「……どうかしたの?」
「え? え? ううん、なんで」
「だって上の空だよ。何か考えてるんでしょう」
「そんなこと……」
「さっきの男の人?」
私は津田ちゃんの顔をじっと見たまま、表情を固めた。
「……あの人が、どうかしたの?」
口を開きかけ、うつむく。
ソラちゃんの台詞を思い出した。
ーー十五歳差くらい?
阿久津さんがこだわるその差に、一体何の意味があるんだろう、と思っていた。
「……不倫とかなら、やめた方がいいよ」
ソラちゃんと同じ言葉。
気まずげな、気遣わしげな態度に、私の頭にかっと血が上る。
「違うもん!」
私は津田ちゃんの手元を見ながら、強い語調で言った。
「違うもん、阿久津さんは、そんなじゃないもん! 不倫なんて、そういうんじゃないの! ああ見えて優しい人で、不器用な人でーー」
「でも、女の人の名前、呼んでたよ」
津田ちゃんの台詞は刃となって私の胸を突き刺した。
決定的な指摘に黙り込む。
「……呼んでた……ね」
「うん」
津田ちゃんは頷いた。私たちの間に沈黙が訪れる。
私の中を、猜疑心と困惑が渦巻く。名前だけしか知らない女への嫉妬。
こんな醜い感情を、私は今まで知らなかった。
胸を締め付けるどす黒い感情をもてあまし、私は胸に両手を抱え込む。柔らかい二つの膨らみが押し潰されて歪んだ。
「……大丈夫?」
優しく気遣う声が聞こえる。けど、私が求めているのはそういう優しさじゃない。津田ちゃんは、いい子だと思う。思うけど、私はーー私は、
「……探す」
「へっ?」
「阿久津さん、探す」
私はきっと顔を上げて、机に両手をつくと立ち上がった。
「改札口に向かった訳じゃなかったもん、このあたりにいるはず。きっと南口だわ。まだ一時間しか経ってないから、きっと大丈夫。……いきなりホテルとか行ってなければ」
ぶつぶつ呟きながら、見知らぬ女とベッドに横たわる阿久津さんを想像して眉を寄せる。嫌だ。絶対嫌だ。阻止しなくちゃ、何としても。
津田ちゃんが困惑した顔で私を見上げて来る。
「あ、あの、ヒメちゃん?」
「うん。津田ちゃん、悪いけど私、行くね」
私はかばんを手にして言った。
「あ、ご飯ちゃんと食べていってね。もったいないから。もったいないオバケ出るから。お会計、また今度割り勘させて。プレゼントと一緒に」
「え、ま、待ってよ。俺も」
「駄目だよ。もったいないオバケに祟られちゃったら困るもん。津田ちゃんはちゃんと食べて出てね。わかった?」
真剣に言うと、津田ちゃんは情けない顔で、頷いたものかと迷っているようだった。
「わかったね?」
念を押すと、こくりと頷く。私はそれを見て、よし、とテーブルに背を向けた。
店を出るなり、スマホを出して電話をかける。
出て。出て。ーー出て。
しばらくすると、着信は伝言板に変わった。
「阿久津さん、澤田です。ヒメです。今から向かいます。待っててください」
言って切り、またかける。履き慣れた靴を履いているとはいえ、走るのはあんまり得意じゃない。特に揺れる胸がうっとうしい。こういうときだけでも取り外せればいいのに。
電話はまた無情にも伝言板に変わる。私からの着信を取らないつもりだろうか。それとも、それともーー
裸で女とむつみ合う阿久津さんの姿を思い浮かべて、唇を噛んだ。
駄目。駄目よ。そんな女と寝るんだったら、私にして。
阿久津さん。
お願い、電話に出て。ーー
私は駅へ向かって走りながら、また電話をかけ直した。
と、電話が繋がった。
「阿久津さんっ!? 阿久津さん、今どこですか! 私です、ヒメです、今そっちに向かいますからーー」
『ーーこんばんはぁ』
呑気な女の声に、頭に上った血が一気に下がっていく。
「……あの、これ、阿久津さんの電話」
『あーくん? うん、そうよ。間違いないわ』
くつくつと笑う女の声に余裕を感じ取り、苛立ちと焦りを覚える。
「阿久津さんは? 阿久津さんに代わってください」
『あーくん、今お手洗いなの。なぁに、あなた。あーくんの後輩?』
私は知らず足を止めていた。あがった息を整えながら、阿久津さんと自分との関係を示す言葉が見つからず、ますます気持ちが逆巻く。
「……阿久津さんと話したいんです」
『うん、でもーーあ、あーくん。ごめんね。なんか可愛い話し方の女の子からよ』
一瞬、スピーカーが空間に浮いたようだ。ボサノバのBGMと、飲食店らしいざわめきが聞こえた。ホテルじゃないと分かりほっとする。
『え? 私が? もう』
女の人は、電話の向こうで楽しげに笑った。喉奥でくつくつ笑いながら、もしもし、とまた私に呼びかける。
「……阿久津さんは?」
声はみっともなくかすれたけど、気にする余裕はなかった。
『出るつもりはないって。もう切れって。ごめんね』
そのまま電話を切られそうだと悟り、私は慌てた。
「ま、待って! あなたは、どういうーー」
『私ぃ?』
女の人は、一層楽しげに笑った。
『十年来の、オトモダチ。主にベッドの上のね』
最後の言葉を確信犯的に言って、じゃあね、と電話は切れた。
私は無機質な通信音を聞きながら、呆然と立ち尽くす。
嫌だ。
嫌だーー
阿久津さん。
不意に蘇ったのは、私が道に迷ったとき、駅まで同行してくれたときの面倒くさそうな横顔だった。
優しい人。不器用な人。
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