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第七章 織り姫危機一髪。(ヒメ/阿久津交互)

10 空白の期間

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 電話を切った美郷が、満足げな顔で俺にスマホを返した。俺は嘆息してそれを受けとると、自分の手元に置いて椅子に座る。
「お前がそういうたちの人間だとは知らなかった」
「そういうたちって?」
「人がトイレ行ってる間に電話に出る」
「ああ」
 美郷は頷きと笑い声の間のような声を出した。ご機嫌はますます良くなったらしい。
「だって、何度も鳴っていたから。緊急の用だったらと思うでしょ」
「緊急の用ねぇ」
 俺は言いながら、トイレに行っている間に運ばれてきたハンバーグを口にする。美郷は赤ワインを口にしながらくすくす笑った。
「ま、あの子にとっては緊急の用、か」
 狐のような笑顔で俺を見やる。
 俺はそれに視線を投げかけてから、黙って手元に目を落とした。
 くだらねぇ。澤田もこの女も、何が楽しくて俺なんかに関わるんだろう。放っておきゃいいのに。こんな捻くれてて、面倒くさい男、どうして興味を持つんだ。
「で、誰なの? あの子」
 美郷は言いながら、くすくすと笑い、ナッツをつまむ。自分から夕飯に誘ったくせに、少食だからと言ってつまみとワインしか頼まなかった。確かにこの細さならそれも頷ける。
「知らねぇよ。俺のことを運命の人と勘違いしてるおめでたいガキ」
 言いながら俺は大口でハンバーグを平らげつつ、ビールを煽った。
「おいしそうに食べるね」
「一口食うか?」
「あら。いいの?」
 冗談のつもりだったが、そう言われては断れない。美郷の赤い口紅が気になったが、仕方なくフォークで一口分切り分け、突き刺して渡そうとした。
「あら。せっかくなんだから、あーんってしてよ」
「何だそれ」
 俺は毒づきながら、美郷の赤い口元に乱暴に突っ込んだ。
「っふふ、ちょっと、乱暴すぎ」
 美郷は笑いながら、紙ナフキンで口元を覆う。細められた目が笑みをたたえて俺を見ている。
「俺にさせたらこうなることくらいわかってんだろ」
 美郷の顔を見ていられず、俺は黙々と食事を続けた。
 ハンバーグにライス、添え物のサラダを平らげたようというとき、おもむろに美郷が言った。
「ねぇ、あーくん」
「ぁんだよ」
「私、いっつも人のモノに手が出したくなるの」
 俺は不意に手を止めて、美郷の顔を見た。
 美郷は毒々しくも見える爪がついた自分の華奢な手を見つめつつ、口を開く。
「駄目だってわかってるのにねぇ。人のモノだから欲しくなるんだわ、きっと」
 自嘲気味な笑顔が、変に歪んで見える。
「最後にあーくんに会った後ね、私、妊娠したの」
 俺は何も言えずに、ビールを口にした。美郷は俺の反応を意に介すことなく続ける。
「でも、彼に言われたわ。下ろしてくれって。そりゃそうよね、彼には妻も娘もいるもの。当たり前だと思って、病院に行ってーー初期だったから即日退院。あっけないものよね。手術が終わった直後はほっとしたわ。これで元の生活に戻るんだって。でも」
 美郷はまた歪んだ笑顔を浮かべた。
「たった数時間後には、猛烈に後悔してた。産めばよかったって。彼にどう言われても、産んで育てればよかったって。そしたらこんな、ふらふら男を求めてさまようような生活も、しなくて済むだろうにって。私ももう四十だし、ラストチャンスだったかも知れないのにねぇ」
 俺は自分のジョッキに手を伸ばしかけ、それが空いていることに気づくと、美郷のワインに手を伸ばす。黙っている美郷の視線を感じながら、一気に飲み干した。
 空になったワイングラスを、静かに机に置く。
 美郷が挑発的な目線で俺を見上げていた。
「行くか」
「そうね」
 財布を出しかけた美郷の手を、俺が制す。
「割り勘じゃなかったの?」
「お前、ほとんど食ってねぇだろ」
 美郷は笑って、ごちそうさま、と言った。その目にやりきれない切なさを見て取って、俺はいたたまれず目を反らした。
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