上 下
101 / 114
第十二章 彦星は夜の訪れが怖い(阿久津視点)

05 懸念事項

しおりを挟む
「阿久津、おはよう」
 ぼんやりしていたら家を出るのが遅れ、マーシーと同じ電車になった。
「橘女史は?」
「休み」
「子どもか?」
「いや、後輩の結婚式に出るってんで、昨日から鳥取。せっかくだから一泊して来るって」
「ふぅん」
 話しながら会社へ向かって歩いていると、マーシーが首を傾げた。
「どうした? なんか悩みでもあんのか?」
「え、ああ……」
 俺は目をさまよわせた。確かに悩んではいる。しかし話してもよいものか。
 一方で他に話せる人間もいそうにない。だが、そもそも他人に話す内容なのだろうか。だが女と同居した経験がない俺としては、結婚した人間の言葉は参考になる可能性が高い。
 悶々としていることを横顔から察したのか、マーシーが少し心配そうな顔をした。
「ヒメちゃんとケンカでもしたか?」
「いや、婚約した」
「はぁっ!?」
 マーシーが裏返った声で驚く。
「そんな声初めて聞いた」
「いや俺もこんな驚いたの初めてだわ」
 マーシーは動悸をなだめるかのように胸を押さえ、はぁと感心したような声を出した。
「あ、そ、そう。そうなんだ。おめでとう」
「ああ」
 マーシーは目をさまよわせ、整った眉をわずかに寄せた。
「じゃあ今一番幸せなときだろ。何でそんな浮かない顔してんだよ」
 俺は気まずくて目を反らす。
「……それは、その……」
 マーシーはにやりと口の端を上げた。俺の肩に肘を置き、顔を覗き込んで来る。
「今日飲み行く?」
「お前、そんな急に飲みに行けんのか」
「昨日一日、俺が子どもたちの面倒見たからな。何かあるときには協力するって彩乃も言ってた」
 マーシーは晴々と言って、
「ま、彩乃も気になってるだろうしな。お互いにwinwinだろ」
 俺は小さくマーシーを睨みつける。マーシーは俺から身体を離すと一呼吸分笑って、思い出したように目を開いた。
「あ、そうだ。お前と飲むときは誘えってジョーに言われてんだ」
「はぁ?」
 俺の喉からもついおかしな声が出る。マーシーはからからと笑った。
「ま、あれだろ。あそこも妻が気にしてるんだろ」
 俺は思わず半眼になる。どいつもこいつもお節介な。
「あれで意外とお前のことも可愛がってくれてるのかもしれないぞ、名取さん」
「可愛がるんだったら違う形で可愛がって欲しかったなぁ」
「それジョーに聞かれたら殺されるぞ」
「知ってる。いないから言ってんだろ」
「ーー呼びましたぁ?」
 後ろからかかった声に、俺とマーシーの肩が過剰なほどびくりと動く。振り向くと明るい笑顔で手を振る後輩がいた。その先にはヨーコさん。
「見かけたから早足で追いかけてきました。なかなか追いつかないから声かけようと思って」
 立ち止まっている内に、ヨーコさんが追いつく。
「おはようさん」
 朝塗ったばかりであろう口紅が色づく唇を引き上げてヨーコさんが微笑んだ。
 おっとりした関西弁とこの笑顔で落ちない男がいたらお目にかかりたいもんだ。と思うと同時に、少なくとも俺の隣にいるマーシーがその一人だと気づいた。
「おはようございます」
 答えると、ヨーコさんはじぃっと俺の目を見つめた。目を見つめるのは彼女の癖だろう。切れ長だが黒目がちな目は心まで見透かされているような気になるが、ここでそわそわでもしようもんなら夫たるジョーにどつかれかねないので心を平静に保つ。
「なんや、あーくん……」
 ヨーコさんはふわりと笑った。
「最近、男前になったなぁ。守る人ができた目してはる」
 ぐ、と喉を鳴らして赤面する俺を、ジョーが静かに横から睨みつけていた。

 そんなわけで週の始まりから開催された男三人での飲み会は、暑気払いも兼ねてビアガーデンになった。
 夏季限定で百貨店の屋上に設置されるビアガーデンは、仕事帰りのサラリーマンでごった返している。百貨店らしからぬ簡易な椅子、焼肉の鉄板とセルフサービスのビール台。涼しいとは言えないが、普通のバーベキューとは違って高い場所だから虫に刺される心配もない。この賑やかな感じが好きだという人も多い。俺もその一人だが。
「お疲れー」
「かんぱーい」
 ガチンとジョッキを重ね、思い思いに喉へ麦酒を流し込む。ぐびぐびと煽る俺を見ながら、マーシーがしみじみと言った。
「そうかぁ、阿久津もとうとう結婚かぁ」
 ごふ、と口の端からビールが漏れてむせる。
「え、マジっすか!? あの座敷童ちゃんと!?」
「それを言うなら夢見る織り姫だろ」
 げふげふとむせる俺を余所に、男二人は好き勝手言っている。
 俺はじろりと睨みつけた。
「お前らなぁ」
「あはは、すまんすまん」
「めでたいっすねぇ」
 ジョーはいつも通りご機嫌に笑い、
「そういえば、アークのところは兄弟いるんですか?」
「弟がいるんじゃなかったか。フランス? ドイツ?」
「そう、フランス」
 頷いて、嘆息する。
「結婚はしてないが同棲していて、子どもを作る気もないっつー状態だから、親にとっては理解不能らしい」
「ああ、まあそうだよな」
 マーシーが苦笑した。横でジョーがにやりとする。
「だったら、プレッシャーすごいんじゃないすか? 孫の顔見せろーって」
 俺は頷くこともなく無言でジョーを見た。それを肯定と取ってジョーが笑う。
「ま、大丈夫でしょ。ヒメちゃんまだまだ若いし」
「俺が年寄りだけどな」
「つってもまだ四十そこそこでしょ」
 言いながらジョッキを傾ける。七つ年下の男の言葉と思えない、と思ったときにようやく気づいた。
 ジョーの妻、ヨーコさんは結婚したとき四十後半。二人に子どもはいない。それについて深く考えたことはなかったのだが、自分に置き換えて考えてみれば、気遣うべき話なのかもしれない。
 俺の動揺を見て取ったのだろう、ジョーはいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「あ、うちのことは気にしないでくださいね。俺は甥っ子姪っ子名前覚えられないほどいるし、ヨーコさん独り占めできるし、幸せですよ」
 にこり、と笑うが、その笑顔に幼さはない。それはきっと彼なりに乗り越えたものがあるからだろう。そんな当然のことに今さら気づき、悩みがなさそうな男だと思っていた自分にあきれる。
「晴れない顔してたのは子どものことだったのか?」
 マーシーに言われて、俺は気まずさに目を反らした。
「違うんだ。じゃあ、何?」
 ジョーが首を傾げる。俺はちらりとその顔を見やり、嘆息した。
 まさかこんなことを俺が言う日が来るとは思わなかった。
 ……が。
「……夜が怖い」
「はっ?」
 マーシーとジョーの目が点になる。俺は目を反らしたまま言った。
「不能ではないけど……年齢が違いすぎて、満足させられるかと……」
 もごもごと言っている途中で、がくりとうなだれる。
「あー、やめやめ。やっぱ無し。今の無し」
 俺が言う前でマーシーが大ウケしている。
「散々遊んでた罰だなぁ、お前がそんなことで苦しむ日が来るとは」
「俺だって思ってなかったよ」
 ち、と舌打ちしながら言うと、ジョーはふぅんと目を丸くしている。
「お前はどうしてんの。ヨーコさんつき合いきれないって怒ったりしないの?」
「あー、男はほら、調整がきくじゃないですか。一回か二回か三回ヌいておけばいいでしょ。で、した後にまたしたくなったら、思い出しながら一人ですればいいし」
 マーシーが絶句した。
「……三回って……」
 どんだけだよ、という心中の言葉は、多分俺とマーシー両方のものだったろう。ふと湧いた好奇心に、俺はジョーに問いかける。
「一晩で最高何回?」
「えーとね。五回かな」
「はぁ?」
 マーシーが頭を抱えた。
「……それ、つき合いきれる女いるの?」
 ヨーコさんと言われたらどうしようと思ったが、さすがにそんなことはなかったらしい。
「大学んときだったかなぁ。相手、一人じゃないですもん。三回と二回」
 あっさり答えられて、俺とマーシーは何も言えなくなる。駄目だ、こいつに常識は伝わらない。どういう人間関係築いてんだか分からないが、まったく悪びれない姿に自分の常識が揺らいですら来る。
「まあ、こいつの話はともかく……」
 マーシーはジョーの肩をそっとどけるような仕種をし、俺を見た。
「なに、物足りないって言われてんの?」
「そういうわけじゃないけど」
 一度身体を重ねてからというもの、求めて来るのはだいたいヒメからだ。誘い方は直接的ではないが。
 翌日どちらかが仕事のときには、それを理由に断るときもあるが、そうではないときはだいたい泊まりになる。そして泊まると、朝晩一度ずつはお決まりのコースだ。
 今は別に暮らしているからそれも分かる。ーーが、これが毎日一緒となれば、一体どうなるか分からない。
 ヒメ自身、セックスは嫌いではなかったが、こんなに好きだと思わなかった、と言っていた「光彦さんとするのはすごくいいの」と照れ臭そうに微笑まれれば、それはそれで、ありがたいことなのだが、しかし。
「まあなぁ。しようと言われて勃たないってのは、男にとっては結構辛いわなぁ」
 マーシーは苦笑しながらビールを飲む。隣でジョーが嘆息した。
「うらやましい悩みですけどねぇ、俺からすれば」
「そんなにヨーコさんいやがるの?」
「そんなこともないですけど、毎回一度だけって、釘刺されるから。……お願いして二回することもあるけど」
 その表情がでろりと緩む。俺はあきれて嘆息した。
「まあ、それぞれか」
「みたいだな」
 マーシーは苦笑して、俺の肩を叩いた。
「そういうのも含めて、夫婦になるってことだろ。うまく折り合いつけろよ」
「善処します」
 言うと、マーシーはまた軽く肩をたたいて、空いた俺のジョッキを示した。
「もう一杯行くか」
「そうする」
「俺も行きまーす」
 ジョーが言って残りのビールを煽った。
しおりを挟む

処理中です...