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.第8章 終わりと始まり
206 栄太郎の主張
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両親は予定通りデートに出かけ、ソファで寝落ちしかけた悠人兄を健人兄が部屋まで連れて行くと、ようやく私と栄太兄の二人だけになった。
涙は落ち着いたけど、まだ笑いは止まり切らない。
だって、私と目が合うと、その度に困ったような顔をするものだから。
栄太兄を見るとまた笑いがこみ上げて、顔を上げては背けて笑うことを繰り返していたら、栄太兄が深々とため息をついた。
かと思えば、机に肘をついて額を押さえ、深々と息を吐き出す。
「……久しぶりに見た」
「え?」
「礼奈の笑った顔。久しぶりに見たわ」
言われて、思わず息を止める。栄太兄の言葉には、それまで聞いたことのない、不思議な響きがあった。
年上の従兄として。見守って来た大人として。そんな気配の中に、わずかに――一人の男の人としての感情が見えて。
私は突然、栄太兄がまくし立てていた言葉を思い出して、顔に熱くなるのを感じた。
泳がせた視線を手元に落とせば、健人兄が淹れてくれたコーヒーに、自分の顔が写る。
――本気、なんだ。
不意に、この部屋に、栄太兄と二人だけだということを意識した。さっきまでなんとも思わなかったのに、とたんに気恥ずかしくなって小さくなる。うつむいた先に見える部屋着用のカーディガンの袖に、毛玉がついているのが気になった。
考えてみれば化粧だってしてないし、髪だって適当にひとくくりにしただけだ。
急に自分の恰好が気になりはじめて、ひとりで落ち着かずにそわそわする。
「……急やったし、驚いたよな。ごめんな」
栄太兄は黙り込んだ私を気遣うように、ゆっくり話し始めた。
「でも……先月、健人から聞いててん。彼氏と別れたことと……来月は、もう、会う気はないてこと」
私は目だけで栄太兄を見上げる。栄太兄はコーヒーカップを撫でながら静かに続けた。
「二年間で礼奈が何を経験したんか、何を考えたんか、俺には分からへん。でも……それが礼奈にとって大事な経験やったんやろうな、てことは、新年会のときによう分かった」
栄太兄は顔を上げて苦笑した。
「久々に会うたとき……ぐっと大人に……綺麗になったなぁ思て……でも、礼奈をそうしたんは、二年間一緒にいた彼氏やったんやろうなて……」
私は膝の上で手を握る。
慶次郎のことを思い出し、目を逸らした。栄太兄が息を吸う音が聞こえる。
「どうして、礼奈が彼氏と別れたんかは知らへん。それなのに、どうして、俺と会う気はない、なんて言うたんかも分からへん。けど、このまま何も無かったことにしてええんか、無かったことになんてできるんか、しばらく考えとった」
栄太兄は一息にそう言うと、苦笑を浮かべて首を振った。
「でも、考えても考えても、無理やった。忘れることなんてできへんし、無かったことになんてできへん。そう、思って、腹をくくった。みっともなくても馬鹿にされても、一度ぶつかっておこうて。……礼奈」
呼ばれて、私は栄太兄を見つめる。栄太兄の目もまっすぐに、私を見ていた。
「ずっと、お前のことは妹みたいな、姪っ子みたいな、そういう、庇護すべき女の子として見てきた。せやから、お前に言われたことに戸惑ったんは確かや。けど、今までがそうだったからって、それ以外の関係になれへんわけやない。むしろ……」
栄太兄は言葉を探すように目を泳がせて、困ったように笑った。
いつもよりも肩の力が抜けた、気弱な笑顔。そこには年上のプライドなんかない。優しい――優しすぎる男の人がひとり、微笑んでいるだけだ。
「むしろ、俺にはそれがちょうどいいのかも知れへん、て思い直してん。俺、不器用やから。新しい関係を作るよりも、今の関係を守って行きたいねん。そう考えたら、お前と一緒にいるのは自然な気がした。お前が大事に思うとる人は、俺にとっても大事な人やし、俺にとっても大事な人は、お前にとっても大事な人やし。それは今までと何も変わらない――変える必要がないことやろ。それに、一緒に――」
じ、と見つめる私の視線に照れたように、栄太兄はうつむく。
「……一緒に、暮らすとしても、礼奈なら自然やな、て。むしろ……いて欲しいなと思てん。俺の帰って来る場所に……俺が休む場所に……俺だけやない、礼奈にとっても、俺がそういう場所になればええなって……」
言葉は段々小さくなって、そのまま消えたかと思えば、ぱっと顔を上げた。
「で、でも、そんなん俺の――三十路男の勝手な願望やし。俺はその、結婚を前提に、なんて言うたけど、お前は別に、急いで結婚とか、そんなことも思わへんやろうし。でも……断るなら、今断ってほしいねん。つまりその……一時的な、恋人として、だけなら、俺はお前と一緒にいられへん。いつか別れる思うて一緒にいられるような歳でもないし、む、無理やねん。礼奈が……一度俺のところに来てくれた後、他の男のところに行くとか、たぶん俺耐えられへんくて。だからその……」
栄太兄はまくし立てると、困ったようにため息をついた。
「……ほんま俺、しゃべりが下手やな。ごめん、分かりにくくて」
「ううん」
私は自然と微笑んでいた。栄太兄が一所懸命、自分の気持ちを言葉にしようとしているのが分かるのが嬉しかった。
年下ではなくて、対等な相手として、私に精いっぱい、言葉を尽くしてくれている。
私は答えようと息を吸おうとしたけれど、「あ、まだ言わなあかんことあんねん!」と慌てた栄太兄が手を挙げた。
「じ、実は俺――五月に転職すんねん」
「……てん、しょく?」
私はまばたきする。それと今の話に、何の関係があるというのだろう。
けど、栄太兄はこくこく頷いて、気まずそうに続けた。
「都内やなくて、ばあちゃんちの近くで仕事したいと思うて――少しは家のこと優先させられそうなところを探して、見つかったはええねんけど、給料が……今の半分近くになる」
私はまばたきをすると、栄太兄は慌てたように続けた。
「もちろん、その稼ぎでも一家養っとる人もおるし、元々そんなに遊んでへんから貯金もあるけど、そうは言っても政人や彩乃さんみたいな高給取りには――」
「……私、専業主婦になるつもりないよ?」
私の言葉に、今度は栄太兄がうろたえた顔をした。
「そういう話でしょ? ……私、ずっと働くつもりだよ。お母さんもそうだったし」
むしろ、そういうもんだと思っていたのだ。むしろ、家に入れと言われる方が困る。
「……そ、そうか……な、なら……ええのかな……」
ほっとしたような複雑そうな表情をする栄太兄に、私は首を傾げる。
「何でそんな微妙な顔してるの?」
「いや……なんやちょっと拍子抜けちゅうか……普通、女子てそういうん気にするやん……?」
そうなのかな。よく、分かんないけど。
首を傾げる私に、栄太兄が変な顔をする。「何?」とまばたきすれば、「いや……何でもない」とそっと目を逸らされた。
涙は落ち着いたけど、まだ笑いは止まり切らない。
だって、私と目が合うと、その度に困ったような顔をするものだから。
栄太兄を見るとまた笑いがこみ上げて、顔を上げては背けて笑うことを繰り返していたら、栄太兄が深々とため息をついた。
かと思えば、机に肘をついて額を押さえ、深々と息を吐き出す。
「……久しぶりに見た」
「え?」
「礼奈の笑った顔。久しぶりに見たわ」
言われて、思わず息を止める。栄太兄の言葉には、それまで聞いたことのない、不思議な響きがあった。
年上の従兄として。見守って来た大人として。そんな気配の中に、わずかに――一人の男の人としての感情が見えて。
私は突然、栄太兄がまくし立てていた言葉を思い出して、顔に熱くなるのを感じた。
泳がせた視線を手元に落とせば、健人兄が淹れてくれたコーヒーに、自分の顔が写る。
――本気、なんだ。
不意に、この部屋に、栄太兄と二人だけだということを意識した。さっきまでなんとも思わなかったのに、とたんに気恥ずかしくなって小さくなる。うつむいた先に見える部屋着用のカーディガンの袖に、毛玉がついているのが気になった。
考えてみれば化粧だってしてないし、髪だって適当にひとくくりにしただけだ。
急に自分の恰好が気になりはじめて、ひとりで落ち着かずにそわそわする。
「……急やったし、驚いたよな。ごめんな」
栄太兄は黙り込んだ私を気遣うように、ゆっくり話し始めた。
「でも……先月、健人から聞いててん。彼氏と別れたことと……来月は、もう、会う気はないてこと」
私は目だけで栄太兄を見上げる。栄太兄はコーヒーカップを撫でながら静かに続けた。
「二年間で礼奈が何を経験したんか、何を考えたんか、俺には分からへん。でも……それが礼奈にとって大事な経験やったんやろうな、てことは、新年会のときによう分かった」
栄太兄は顔を上げて苦笑した。
「久々に会うたとき……ぐっと大人に……綺麗になったなぁ思て……でも、礼奈をそうしたんは、二年間一緒にいた彼氏やったんやろうなて……」
私は膝の上で手を握る。
慶次郎のことを思い出し、目を逸らした。栄太兄が息を吸う音が聞こえる。
「どうして、礼奈が彼氏と別れたんかは知らへん。それなのに、どうして、俺と会う気はない、なんて言うたんかも分からへん。けど、このまま何も無かったことにしてええんか、無かったことになんてできるんか、しばらく考えとった」
栄太兄は一息にそう言うと、苦笑を浮かべて首を振った。
「でも、考えても考えても、無理やった。忘れることなんてできへんし、無かったことになんてできへん。そう、思って、腹をくくった。みっともなくても馬鹿にされても、一度ぶつかっておこうて。……礼奈」
呼ばれて、私は栄太兄を見つめる。栄太兄の目もまっすぐに、私を見ていた。
「ずっと、お前のことは妹みたいな、姪っ子みたいな、そういう、庇護すべき女の子として見てきた。せやから、お前に言われたことに戸惑ったんは確かや。けど、今までがそうだったからって、それ以外の関係になれへんわけやない。むしろ……」
栄太兄は言葉を探すように目を泳がせて、困ったように笑った。
いつもよりも肩の力が抜けた、気弱な笑顔。そこには年上のプライドなんかない。優しい――優しすぎる男の人がひとり、微笑んでいるだけだ。
「むしろ、俺にはそれがちょうどいいのかも知れへん、て思い直してん。俺、不器用やから。新しい関係を作るよりも、今の関係を守って行きたいねん。そう考えたら、お前と一緒にいるのは自然な気がした。お前が大事に思うとる人は、俺にとっても大事な人やし、俺にとっても大事な人は、お前にとっても大事な人やし。それは今までと何も変わらない――変える必要がないことやろ。それに、一緒に――」
じ、と見つめる私の視線に照れたように、栄太兄はうつむく。
「……一緒に、暮らすとしても、礼奈なら自然やな、て。むしろ……いて欲しいなと思てん。俺の帰って来る場所に……俺が休む場所に……俺だけやない、礼奈にとっても、俺がそういう場所になればええなって……」
言葉は段々小さくなって、そのまま消えたかと思えば、ぱっと顔を上げた。
「で、でも、そんなん俺の――三十路男の勝手な願望やし。俺はその、結婚を前提に、なんて言うたけど、お前は別に、急いで結婚とか、そんなことも思わへんやろうし。でも……断るなら、今断ってほしいねん。つまりその……一時的な、恋人として、だけなら、俺はお前と一緒にいられへん。いつか別れる思うて一緒にいられるような歳でもないし、む、無理やねん。礼奈が……一度俺のところに来てくれた後、他の男のところに行くとか、たぶん俺耐えられへんくて。だからその……」
栄太兄はまくし立てると、困ったようにため息をついた。
「……ほんま俺、しゃべりが下手やな。ごめん、分かりにくくて」
「ううん」
私は自然と微笑んでいた。栄太兄が一所懸命、自分の気持ちを言葉にしようとしているのが分かるのが嬉しかった。
年下ではなくて、対等な相手として、私に精いっぱい、言葉を尽くしてくれている。
私は答えようと息を吸おうとしたけれど、「あ、まだ言わなあかんことあんねん!」と慌てた栄太兄が手を挙げた。
「じ、実は俺――五月に転職すんねん」
「……てん、しょく?」
私はまばたきする。それと今の話に、何の関係があるというのだろう。
けど、栄太兄はこくこく頷いて、気まずそうに続けた。
「都内やなくて、ばあちゃんちの近くで仕事したいと思うて――少しは家のこと優先させられそうなところを探して、見つかったはええねんけど、給料が……今の半分近くになる」
私はまばたきをすると、栄太兄は慌てたように続けた。
「もちろん、その稼ぎでも一家養っとる人もおるし、元々そんなに遊んでへんから貯金もあるけど、そうは言っても政人や彩乃さんみたいな高給取りには――」
「……私、専業主婦になるつもりないよ?」
私の言葉に、今度は栄太兄がうろたえた顔をした。
「そういう話でしょ? ……私、ずっと働くつもりだよ。お母さんもそうだったし」
むしろ、そういうもんだと思っていたのだ。むしろ、家に入れと言われる方が困る。
「……そ、そうか……な、なら……ええのかな……」
ほっとしたような複雑そうな表情をする栄太兄に、私は首を傾げる。
「何でそんな微妙な顔してるの?」
「いや……なんやちょっと拍子抜けちゅうか……普通、女子てそういうん気にするやん……?」
そうなのかな。よく、分かんないけど。
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