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.第8章 終わりと始まり
207 礼奈の主張
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「で、栄太兄が言いたいことは、それだけ?」
私が訊くと、栄太兄はちょっと考えるように目を泳がせて頷いた。
「まあ……そうやな。俺からは、それだけやな」
そう答えがあって、私も頷く。
一瞬、沈黙が訪れた。
ゆらゆらと、二つのコップの上で湯気が揺れている。
両手でコップを包み込むと、その丸みを撫でながら息を吸った。
何からどう、話そうかと思って、数度口を開きかけては閉じ、数度目でゆっくりと言葉を吐き出す。
「……私ね、元カレのこと、好きだったの」
私の言葉に、栄太兄はどこか傷ついたような顔をした。
私はその反応に苦笑して、慎重に言葉を選びながら続ける。
「でも、違った。……恋人としてなら、彼でよかった。楽しかったし、ドキドキもしたよ。けど……どこか違う、ってずっと思ってて」
私は静かに息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
目を閉じて、そのときの 感情を思い出す。
慶次郎に感じていた罪悪感。ときめきの影にある困惑。うまく想いきれない葛藤。
それを一気にかき消した――久しぶりに、栄太兄と会ったときの胸の高鳴り。
「それが、新年会のとき……栄太兄の顔を見て、あっという間に上書きされちゃった。少しずつ少しずつ、彼が埋めて行ってくれていた気持ちが――栄太兄に会った瞬間、無かったことになっちゃった」
それが、悔しくて。
そう言って、一度言葉を止める。
栄太兄は戸惑ったような表情で私を見つめていた。
私は呆れたような、苦笑のような笑いを浮かべながら息を吐き出す。
「だってさ――ほんと、大切にしてくれたんだよ――不器用なのに――彼なりに、思いやってくれて――」
だから、私もそれに、応えたかった。応えようとしていた。
それなのに、応えきれなかった。そこには、どうしても、嘘ができてしまった。そしてそれを感じる度に、罪悪感に苛まれたーー
「そうやろな」
栄太兄が静かに言う。見やるとそこには、少しだけ、自嘲気味の笑顔があった。
「そうやろうと――俺も、思った。だから、礼奈がいい顔しとんやろうなって。――だから俺も、なんや悔しかってん。自分勝手なんは分かっとるけど、礼奈を溺愛してええんは俺だけや、て――」
「何それ」
栄太兄の言葉に、思わずあきれた。「そんなこと思ってたの?」と笑うと、栄太兄は気恥ずかしそうに頬を掻いて続けた。
「いや……今考えたら、そういう悔しさもあったかも知れへんなーて。久々に礼奈の顔見て、えらい焦ったし、なんや苦しかってん。どこかで俺は、二十歳になっても、礼奈は俺のこと想うてくれるやろ、て思とったんやなって気づいて――さも、大人ぶって、いろいろ経験すればええ、て言うといて、その実何も覚悟できてへんかったんやなって――」
――なんだ。
不意に、納得する。
栄太兄にフラれてから、私が失恋を受け止めるのに時間がかかった理由が、少し分かったような気がした。
栄太兄も、同じだったんだ。
二年間。そう示された期限の先に、私は私と栄太兄の未来を見ていた。栄太兄も、私との未来を見ていた。二人とも、結局何も、変わらなかった。
――あのときから、何も変わらなかった。
「なんや、えらい遠回りしたったわ」
「うん」
栄太兄の言葉に、私は頷く。
「でも……無駄じゃなかったよ」
無駄な二年じゃなかった。
過ぎた今となっては、健人兄の言ってたことも、栄太兄の言ってたことも、よく分かる。
慶次郎と過ごした時間は、私にとって大事な思い出になるだろう。
私は手を伸ばした。
「栄太兄」
「何や」
「手、握っていい?」
栄太兄は絶句して、伸ばした手と私の顔を見比べて、顔を赤らめたまま手を重ねる。
緊張していたんだろうその手は、冷たいのに汗ばんで、強張っていた。
「あはは」
私が笑うと、栄太兄が「何やねん」とまた強がる。
私は首を横に振って、「何でもない」とその手を両手で引き寄せた。
大きい手。慶次郎とは違う手。
ちょっと指先ががさついていたけど、それでも、私の好きな人の手だ。
歳の割に、ちょっと頼り甲斐がなくて、でも優しくて、不器用な人の手だ。
「……傍にいてあげる」
その手に額を寄せて、小さく答える。
栄太兄はじっと、私を見つめている。
「ずっと、傍にいてあげる。だって、想像できないもん。私が他の男の人と一緒に生活することも――栄太兄が、他の女の人と一緒にいるとこも」
「そうか」
栄太兄は苦笑した。
「まったく、人生何があるか分からんな。――あの、小さかったおひいさまが」
伸びてきたもう片方の手が、私の頬に触れる。私は目をつぶった。
「……綺麗になったもんや」
目を開くと、そこには栄太兄の笑顔があった。
その目が少し潤んでいるように見えて、戸惑う。
「栄太兄?」
「ああ――いや、すまん」
栄太兄は私の頬から手を離すと、自分のまぶたに添えた。
「あかん……なんや、感動してもうて……」
じわじわ、実感が湧いてきたらしい。栄太兄はしばらくそのままでいたけれど、すがるような目で私を見つめた。
「あの、ほんまにええんか? 俺で……礼奈やったら、きっともっと――」
「いないよ、そんなの」
私は笑って、握った栄太兄の手に頬を寄せた。
「栄太兄以外にいないよ。こんな気持ちになるのは――栄太兄にだけだから」
栄太兄は真っ赤な顔のまま、私の頬を撫で、ふにゃりと情けない笑顔を浮かべた。
――かと思うと、机にぐしゃりとつぶれる。
「……あかん」
「何が?」
「……可愛すぎて死にそうや」
私は思わず噴き出した。
心臓は心配になるくらいドキドキ言っていたけど、それは私だけじゃないみたいだ。
目が合うと、互いに困ったような笑顔を交わした。
私が訊くと、栄太兄はちょっと考えるように目を泳がせて頷いた。
「まあ……そうやな。俺からは、それだけやな」
そう答えがあって、私も頷く。
一瞬、沈黙が訪れた。
ゆらゆらと、二つのコップの上で湯気が揺れている。
両手でコップを包み込むと、その丸みを撫でながら息を吸った。
何からどう、話そうかと思って、数度口を開きかけては閉じ、数度目でゆっくりと言葉を吐き出す。
「……私ね、元カレのこと、好きだったの」
私の言葉に、栄太兄はどこか傷ついたような顔をした。
私はその反応に苦笑して、慎重に言葉を選びながら続ける。
「でも、違った。……恋人としてなら、彼でよかった。楽しかったし、ドキドキもしたよ。けど……どこか違う、ってずっと思ってて」
私は静かに息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
目を閉じて、そのときの 感情を思い出す。
慶次郎に感じていた罪悪感。ときめきの影にある困惑。うまく想いきれない葛藤。
それを一気にかき消した――久しぶりに、栄太兄と会ったときの胸の高鳴り。
「それが、新年会のとき……栄太兄の顔を見て、あっという間に上書きされちゃった。少しずつ少しずつ、彼が埋めて行ってくれていた気持ちが――栄太兄に会った瞬間、無かったことになっちゃった」
それが、悔しくて。
そう言って、一度言葉を止める。
栄太兄は戸惑ったような表情で私を見つめていた。
私は呆れたような、苦笑のような笑いを浮かべながら息を吐き出す。
「だってさ――ほんと、大切にしてくれたんだよ――不器用なのに――彼なりに、思いやってくれて――」
だから、私もそれに、応えたかった。応えようとしていた。
それなのに、応えきれなかった。そこには、どうしても、嘘ができてしまった。そしてそれを感じる度に、罪悪感に苛まれたーー
「そうやろな」
栄太兄が静かに言う。見やるとそこには、少しだけ、自嘲気味の笑顔があった。
「そうやろうと――俺も、思った。だから、礼奈がいい顔しとんやろうなって。――だから俺も、なんや悔しかってん。自分勝手なんは分かっとるけど、礼奈を溺愛してええんは俺だけや、て――」
「何それ」
栄太兄の言葉に、思わずあきれた。「そんなこと思ってたの?」と笑うと、栄太兄は気恥ずかしそうに頬を掻いて続けた。
「いや……今考えたら、そういう悔しさもあったかも知れへんなーて。久々に礼奈の顔見て、えらい焦ったし、なんや苦しかってん。どこかで俺は、二十歳になっても、礼奈は俺のこと想うてくれるやろ、て思とったんやなって気づいて――さも、大人ぶって、いろいろ経験すればええ、て言うといて、その実何も覚悟できてへんかったんやなって――」
――なんだ。
不意に、納得する。
栄太兄にフラれてから、私が失恋を受け止めるのに時間がかかった理由が、少し分かったような気がした。
栄太兄も、同じだったんだ。
二年間。そう示された期限の先に、私は私と栄太兄の未来を見ていた。栄太兄も、私との未来を見ていた。二人とも、結局何も、変わらなかった。
――あのときから、何も変わらなかった。
「なんや、えらい遠回りしたったわ」
「うん」
栄太兄の言葉に、私は頷く。
「でも……無駄じゃなかったよ」
無駄な二年じゃなかった。
過ぎた今となっては、健人兄の言ってたことも、栄太兄の言ってたことも、よく分かる。
慶次郎と過ごした時間は、私にとって大事な思い出になるだろう。
私は手を伸ばした。
「栄太兄」
「何や」
「手、握っていい?」
栄太兄は絶句して、伸ばした手と私の顔を見比べて、顔を赤らめたまま手を重ねる。
緊張していたんだろうその手は、冷たいのに汗ばんで、強張っていた。
「あはは」
私が笑うと、栄太兄が「何やねん」とまた強がる。
私は首を横に振って、「何でもない」とその手を両手で引き寄せた。
大きい手。慶次郎とは違う手。
ちょっと指先ががさついていたけど、それでも、私の好きな人の手だ。
歳の割に、ちょっと頼り甲斐がなくて、でも優しくて、不器用な人の手だ。
「……傍にいてあげる」
その手に額を寄せて、小さく答える。
栄太兄はじっと、私を見つめている。
「ずっと、傍にいてあげる。だって、想像できないもん。私が他の男の人と一緒に生活することも――栄太兄が、他の女の人と一緒にいるとこも」
「そうか」
栄太兄は苦笑した。
「まったく、人生何があるか分からんな。――あの、小さかったおひいさまが」
伸びてきたもう片方の手が、私の頬に触れる。私は目をつぶった。
「……綺麗になったもんや」
目を開くと、そこには栄太兄の笑顔があった。
その目が少し潤んでいるように見えて、戸惑う。
「栄太兄?」
「ああ――いや、すまん」
栄太兄は私の頬から手を離すと、自分のまぶたに添えた。
「あかん……なんや、感動してもうて……」
じわじわ、実感が湧いてきたらしい。栄太兄はしばらくそのままでいたけれど、すがるような目で私を見つめた。
「あの、ほんまにええんか? 俺で……礼奈やったら、きっともっと――」
「いないよ、そんなの」
私は笑って、握った栄太兄の手に頬を寄せた。
「栄太兄以外にいないよ。こんな気持ちになるのは――栄太兄にだけだから」
栄太兄は真っ赤な顔のまま、私の頬を撫で、ふにゃりと情けない笑顔を浮かべた。
――かと思うと、机にぐしゃりとつぶれる。
「……あかん」
「何が?」
「……可愛すぎて死にそうや」
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目が合うと、互いに困ったような笑顔を交わした。
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