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.第12章 親と子
340 対峙(2)
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病室から出て、母の姿を探すと、例の歓談スペースに座っていた。
歩いてきた私たちに気づくと、顔を上げて「お疲れさま」と微笑む。
私がきょろきょろ辺りを見回すと、父を探しているのだと察したらしい。
「政人は車に忘れ物を取りに行ってる。もうすぐ来るわ」と言われて、なるほどと頷く。
「お母さん、どうして急に?」
「退院の説明を聞くのがね、なかなか都合が合わなくて。急遽今日になったのよ」
両親とも、午前中休みを取ったのだと聞いて納得した。
「栄太郎くん、色々ありがとうね。おばあちゃんも、栄太郎くんがいたから心強かったって」
「いえ。俺はただ寝泊まりしとっただけやし、何もしてへんです」
微笑んで返す栄太兄の声は、謙遜の色すらない。祖母のために自分ができることをしただけ、と本当に素直に思っているんだろう。
――そういうところ、好きだなぁ。
ついつい惚れ直してその横顔を見上げていたら、母が苦笑した。
「もう――礼奈ってば」
「へっ?」
慌てて顔を戻すと、母が目を細めて笑っている。
「すっかり隠さなくなったわね。ラブラブしちゃって」
「し、してないよ」
手すら握ってないのに、と思ったら、「そういうんじゃないのよ」と母が笑う。
「顔見てたら分かる。――なるほど、これがノロケってやつなのね」
母がわざとらしく肩をすくめたとき、不意に栄太兄が私の背中に触れた。
そして一歩踏み出しながら、母に呼びかける。
「……彩乃さん」
その声音が真剣みを帯びていて、私は思わずどきりとする。
母も笑いを引っ込めて、栄太兄を見上げた。
「礼奈から、話、いろいろ……聞いてます」
栄太兄の言葉に、母は少し目を伏せた。
「そう」
短く答える声は静かで、私は思わず、自分の手を握る。
沈黙が怖くて、うつむいた私の前に、栄太兄はさらに一歩を踏み出した。
「……すみません」
「……え?」
不意の謝罪に、母が戸惑うように目を上げた。
私も斜め後ろから、栄太兄の横顔を見つめる。
「今から、俺、ずるいこと言います」
「ずるいこと――?」
栄太兄は頷いて、まっすぐに母の目を見つめた。
「彩乃さん。――俺、じいちゃんに、礼奈の花嫁姿、見せてやりたいです」
母が息を飲んだのが分かった。
栄太兄は静かに続ける。
「今回はどうにかしのいだけど、もういつどうなるか分からん。来年を一緒に過ごせるかも……今回、それがよう分かりました。――もちろん、彩乃さんが考えてはることも分かってます。礼奈のために、俺たちのために、あえて言うてくれてはるのも分かってます。――けど、その上で、頼みます」
私は呆気に取られていたから、栄太兄が膝をついたことに気づかなかった。母が慌てて何か言おうと息を吸う。それを遮るように、栄太兄は言った。
「――頼みます。俺たちの結婚を許してください」
床に両膝をついた栄太兄に、母はしばらく言葉を失う。息を吸い、止めて、顔を逸らし、ゆっくり吐き出した。
「……栄太郎くん……それは、あまりに……ずるいわ」
「……すみません。分かってます。でも」
栄太兄は床を見つめたまま静かに言う。
その声からは、今まで聞いたこともないほど力強い、覚悟が感じられた。
「でも、何もせんで後悔したくないんです。もしこのまま、いずれ結婚できたとしても、式にじいちゃんが居ぃへんかったら、たぶん俺たちは二人とも苦い気持ちになる。そうと分かってて黙ってその時を待つやなんて、俺にはできへん。――頼みます。彩乃さん。礼奈の晴れ姿、じいちゃんに見せたってください。俺たちの門出、じいちゃんとばあちゃんにも見て欲しいんです。だって俺たちは――」
「――なぁにやってんだ、こんなとこで」
栄太兄の言葉を遮った声は、父のものだった。身じろぎできずにいた私が振り返ると、やれやれといった面持ちで父が立っている。
「栄太郎、立て。こんなとこで土下座なんてしてんじゃねぇ」
父が乱暴な口調で言うので、栄太兄はしぶしぶ立ち上がった。私は慌てて近寄って、その膝を払ってやる。スーツには、少し埃がついていた。
「おおきに」
「うん……」
顔を上げた先には、さっきの力強い声と不釣り合いなほど優しい微笑みがあって、胸が詰まった。
見つめ合う私たちを見た父が、ため息をついて母を見やる。
「――彩乃。どうだ」
「どうって、何よ」
「気は済んだか?」
「……まるで、私のわがままみたいに」
「わがまま、とは思わないけど」
父は苦笑して、母の肩を叩いた。
「栄太郎、今日はもう行け。また、俺から連絡するから」
「……分かった」
栄太兄は父に頷き、お母さんにお辞儀をすると、エレベーターへと歩き始めた。
私もその横について行く。
エレベーターに乗り込むとき、隣り合って座る両親の背中が見えた。
父が思いやるような目を母に向けて何か話しかけている。
エレベーターのドアが閉まって、その姿は見えなくなった。
私は潜めていた息を吐き出した。
「……信じらんない……土下座なんて」
「そうか?」
栄太兄は私の言葉に微笑んだ。その顔には、見たことのないほどの余裕を感じる。
エレベーターの階をしめす明かりを見上げながら、栄太兄は笑った。
「……母さんに、言われたんや」
「和歌子さんに?」
「せや」
頷いて、栄太兄は私の頭を撫でた。
「『礼奈ちゃんの願いを、叶えてやれるかどうかはあんたの腕の見せどころでしょう。可能な限り彩乃さんを説得しなさい、どうせ失うものなんて何もないんだから』――てな感じやな」
「え……そんな……」
私は思わず、口をぱくぱくする。
「だって……和歌子さん、私には……」
「彩乃さんに従え、て言うたんやろ。ほんまあのおばはん、やることがコスいねん」
栄太兄はどこか挑戦的な目をして笑って、私の肩を叩いた。
「足掻けるだけ、足掻くで。礼奈のためでもあるけど、これは俺のためでもあるんや。……最初からお前の夢を諦めさせといて、幸せにしたる、なんて言えへんわ」
「――もう……」
そう笑う栄太兄の表情は、晴れ晴れとしていた。
ああ、やっぱりこの人は、和歌子さんの子どもなんだな――
優しいだけではない一面が、もっと愛おしく思えて、その手に手を伸ばす。
栄太兄は微笑んで、手を握り返してくれた。
歩いてきた私たちに気づくと、顔を上げて「お疲れさま」と微笑む。
私がきょろきょろ辺りを見回すと、父を探しているのだと察したらしい。
「政人は車に忘れ物を取りに行ってる。もうすぐ来るわ」と言われて、なるほどと頷く。
「お母さん、どうして急に?」
「退院の説明を聞くのがね、なかなか都合が合わなくて。急遽今日になったのよ」
両親とも、午前中休みを取ったのだと聞いて納得した。
「栄太郎くん、色々ありがとうね。おばあちゃんも、栄太郎くんがいたから心強かったって」
「いえ。俺はただ寝泊まりしとっただけやし、何もしてへんです」
微笑んで返す栄太兄の声は、謙遜の色すらない。祖母のために自分ができることをしただけ、と本当に素直に思っているんだろう。
――そういうところ、好きだなぁ。
ついつい惚れ直してその横顔を見上げていたら、母が苦笑した。
「もう――礼奈ってば」
「へっ?」
慌てて顔を戻すと、母が目を細めて笑っている。
「すっかり隠さなくなったわね。ラブラブしちゃって」
「し、してないよ」
手すら握ってないのに、と思ったら、「そういうんじゃないのよ」と母が笑う。
「顔見てたら分かる。――なるほど、これがノロケってやつなのね」
母がわざとらしく肩をすくめたとき、不意に栄太兄が私の背中に触れた。
そして一歩踏み出しながら、母に呼びかける。
「……彩乃さん」
その声音が真剣みを帯びていて、私は思わずどきりとする。
母も笑いを引っ込めて、栄太兄を見上げた。
「礼奈から、話、いろいろ……聞いてます」
栄太兄の言葉に、母は少し目を伏せた。
「そう」
短く答える声は静かで、私は思わず、自分の手を握る。
沈黙が怖くて、うつむいた私の前に、栄太兄はさらに一歩を踏み出した。
「……すみません」
「……え?」
不意の謝罪に、母が戸惑うように目を上げた。
私も斜め後ろから、栄太兄の横顔を見つめる。
「今から、俺、ずるいこと言います」
「ずるいこと――?」
栄太兄は頷いて、まっすぐに母の目を見つめた。
「彩乃さん。――俺、じいちゃんに、礼奈の花嫁姿、見せてやりたいです」
母が息を飲んだのが分かった。
栄太兄は静かに続ける。
「今回はどうにかしのいだけど、もういつどうなるか分からん。来年を一緒に過ごせるかも……今回、それがよう分かりました。――もちろん、彩乃さんが考えてはることも分かってます。礼奈のために、俺たちのために、あえて言うてくれてはるのも分かってます。――けど、その上で、頼みます」
私は呆気に取られていたから、栄太兄が膝をついたことに気づかなかった。母が慌てて何か言おうと息を吸う。それを遮るように、栄太兄は言った。
「――頼みます。俺たちの結婚を許してください」
床に両膝をついた栄太兄に、母はしばらく言葉を失う。息を吸い、止めて、顔を逸らし、ゆっくり吐き出した。
「……栄太郎くん……それは、あまりに……ずるいわ」
「……すみません。分かってます。でも」
栄太兄は床を見つめたまま静かに言う。
その声からは、今まで聞いたこともないほど力強い、覚悟が感じられた。
「でも、何もせんで後悔したくないんです。もしこのまま、いずれ結婚できたとしても、式にじいちゃんが居ぃへんかったら、たぶん俺たちは二人とも苦い気持ちになる。そうと分かってて黙ってその時を待つやなんて、俺にはできへん。――頼みます。彩乃さん。礼奈の晴れ姿、じいちゃんに見せたってください。俺たちの門出、じいちゃんとばあちゃんにも見て欲しいんです。だって俺たちは――」
「――なぁにやってんだ、こんなとこで」
栄太兄の言葉を遮った声は、父のものだった。身じろぎできずにいた私が振り返ると、やれやれといった面持ちで父が立っている。
「栄太郎、立て。こんなとこで土下座なんてしてんじゃねぇ」
父が乱暴な口調で言うので、栄太兄はしぶしぶ立ち上がった。私は慌てて近寄って、その膝を払ってやる。スーツには、少し埃がついていた。
「おおきに」
「うん……」
顔を上げた先には、さっきの力強い声と不釣り合いなほど優しい微笑みがあって、胸が詰まった。
見つめ合う私たちを見た父が、ため息をついて母を見やる。
「――彩乃。どうだ」
「どうって、何よ」
「気は済んだか?」
「……まるで、私のわがままみたいに」
「わがまま、とは思わないけど」
父は苦笑して、母の肩を叩いた。
「栄太郎、今日はもう行け。また、俺から連絡するから」
「……分かった」
栄太兄は父に頷き、お母さんにお辞儀をすると、エレベーターへと歩き始めた。
私もその横について行く。
エレベーターに乗り込むとき、隣り合って座る両親の背中が見えた。
父が思いやるような目を母に向けて何か話しかけている。
エレベーターのドアが閉まって、その姿は見えなくなった。
私は潜めていた息を吐き出した。
「……信じらんない……土下座なんて」
「そうか?」
栄太兄は私の言葉に微笑んだ。その顔には、見たことのないほどの余裕を感じる。
エレベーターの階をしめす明かりを見上げながら、栄太兄は笑った。
「……母さんに、言われたんや」
「和歌子さんに?」
「せや」
頷いて、栄太兄は私の頭を撫でた。
「『礼奈ちゃんの願いを、叶えてやれるかどうかはあんたの腕の見せどころでしょう。可能な限り彩乃さんを説得しなさい、どうせ失うものなんて何もないんだから』――てな感じやな」
「え……そんな……」
私は思わず、口をぱくぱくする。
「だって……和歌子さん、私には……」
「彩乃さんに従え、て言うたんやろ。ほんまあのおばはん、やることがコスいねん」
栄太兄はどこか挑戦的な目をして笑って、私の肩を叩いた。
「足掻けるだけ、足掻くで。礼奈のためでもあるけど、これは俺のためでもあるんや。……最初からお前の夢を諦めさせといて、幸せにしたる、なんて言えへんわ」
「――もう……」
そう笑う栄太兄の表情は、晴れ晴れとしていた。
ああ、やっぱりこの人は、和歌子さんの子どもなんだな――
優しいだけではない一面が、もっと愛おしく思えて、その手に手を伸ばす。
栄太兄は微笑んで、手を握り返してくれた。
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