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.第9章 穏やかな日々
244 栄太郎の誕生日(4)
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「ーーどうせお前が要らんこと言うたんやろ」
栄太兄の声が、遠くに聞こえる。
夢を、見てるんだろうか。
「するわけないやろ! お前他人事やと思って好きに言うて――」
その声は潜めているけれど、どこかいら立ちと焦りを含んでいる。
私はゆっくりと目を開けた。
カーテン越しに差し込んだ明かりが、部屋の中を照らし出している。天上についた丸い照明。クリーム色の壁。クローゼット。味気ない部屋の中で、吸い込んだ空気には栄太兄の香りがする。
そのことに、たまらない幸福感を抱いて、もう一度タオルケットにもぐりこむ。
けれど、隣にもう、栄太兄のぬくもりはない。
隣の部屋から、栄太兄の声はまだ聞こえている。
「そうやなくて――そんなわけあるか――だから、お前がそういうことを言うたんやないのか? ――違うって嘘やん。そやったら何で急に泊まるなんて言うねん」
その口調から、相手はきっと健人兄だなと察しがついた。また健人兄が私を煽ったと思ってるんだろう。
誤解、解いてあげないと。
思ってゆっくりと身体を起こす。栄太兄がいつも眠っているベッドから降りるのは、なんだかもったいない気がしたけど、仕方ない。
「き、決まってるやんそんな――寝られるか、あんな寝顔が真横にあって」
ドアに手をかけたとき、そんな言葉が聞こえてどきりとする。
……眠れなかったのかな、栄太兄。
私はぐっすり眠ってしまった。なんだか申し訳なくて、ドアを開けるのをためらう。
「――可愛えなんてもんやないで。ほんま天使やわ……無理やし……男の身勝手で好きにできるわけないやろ……あんなすやすや、幸せそうに寝てはって……ときどきすり寄って来たりしはるんやもん、もう一晩中拷問やで……」
え、え、それって、私のこと……だよね?
すり寄って……って、全然覚えてない。夢の中でも栄太兄に抱きしめられていた記憶はあるけど、全然、意識してなかった。
「ほんま可愛えやん……もう……あかんて……悶え死ぬかと思たわ……」
ドアの前に立ったまま、顔が熱くなるのを感じる。栄太兄の声から、本心を口にしていると分かった。羞恥心と喜びに頬が緩む。
栄太兄は、私が起きたことに気づいてないんだろう。知らせてあげた方がいいだろうか。
でも、このまま、聞いていたいような気もした。私のことをどう思っているのか、栄太兄がどういう気持ちでいたのか……
「礼奈? まだ寝てるはずやけど……だから何もしてへんって……」
そう聞こえて、だましているような罪悪感に、私はゆっくりドアを開けた。それに気づいた栄太兄が、はっと驚いた顔をする。
「あ、えと、健人、また電話するわ。――いや、起きて来てん――はぁ? ほんまお前、いい加減にせぇよ。じゃあな」
栄太兄はそう言い捨ててスマホを下ろすと、私に苦笑気味の笑顔を向けた。
「おはよ。眠れたか?」
「うん……」
どうしよう、聞いてたってバレちゃうかな。そう思いながら、おずおずと栄太兄のシャツの裾を指でつまむ。
「……栄太兄は? 眠れた?」
「お、俺か?」
栄太兄は露骨に目を泳がせて、「いや、俺のことはどうでもええねん」とごまかす。私はうつむいた。
「あの……ごめんね。急に、泊めてだなんて……」
冷静になってみれば、ほんとに自分勝手なことをしたなと反省しきりだ。栄太兄は苦笑して、「別にええで」と私の頭を撫でる。
あ、また子ども扱い。
悔しくて、そっちがそのつもりならと、栄太兄の胸に抱き着いた。
栄太兄がうろたえる。
「え、ちょ、礼奈?」
「……起きたら、栄太兄いなかったから」
パジャマの胸に頬を摺り寄せる。栄太兄の汗の匂いがした。
「ちょっと、寂しかった」
まだ、頭がぼんやりしている。じゃなかったら、こんなこと、照れ臭くてできなかっただろう。
でも、いい。今日は特別に、甘えてもいいことにする。だって、初めて栄太兄の隣で眠ったんだから。栄太兄の家に泊まったんだから。
「んー」
「な、何や?」
「……栄太兄の匂い」
私がぐりぐり鼻先を押し付けて言うと、栄太兄は困ったような顔をした。
「く、臭いやろ」
「臭くないよぅ」
私はぐりぐりしながら首を振る。栄太兄がためらいがちに私の頭を撫でた。
その心地よさにふふっと笑う。シャツにぎゅっとしがみついて、小さく言った。
「安心する」
「そ、そうか……?」
「でも、ドキドキする」
「どっちやねん」
「どっちも」
くすくす笑う私に、栄太兄は困り顔だ。それが面白くて、笑いながら栄太兄の顔を見上げた。
「栄太兄はどっちもあるの。だから、特別」
栄太兄はうろたえたように目を泳がせた。「そ、そうか……?」と曖昧なあいづちを打って、私の頭をぽんぽんと叩く。
「ほら、飯にするで。朝、食べるやろ」
「うーん、食べるけど……」
なんか、物足りない。
そう思ってじぃっと見上げていたら、栄太兄は困り果てたように私を見下ろした。
「その顔、反則やで」
「どんな顔?」
「……俺のこと、好きやーって言うてる顔」
言って、自分で恥ずかしくなったらしい。栄太兄は顔を真っ赤にして、「とにかく飯!」と私を引きはがそうとした。
「何でよぅ。もうちょっとくっついてたいよぅ」
「俺は腹が減ったんや! くっついとったら用意できへんやろうが!」
「できるよぅ。じゃあ、背中にくっついとく」
くるりと後ろに回り込んだら、栄太兄は絶句した。
「どんだけくっついてたいんや」
「まだ眠たいから人恋しいの」
適当な言い訳をしながら、今はそういうことにしておこう、と自分でくすくす笑った。
栄太兄の声が、遠くに聞こえる。
夢を、見てるんだろうか。
「するわけないやろ! お前他人事やと思って好きに言うて――」
その声は潜めているけれど、どこかいら立ちと焦りを含んでいる。
私はゆっくりと目を開けた。
カーテン越しに差し込んだ明かりが、部屋の中を照らし出している。天上についた丸い照明。クリーム色の壁。クローゼット。味気ない部屋の中で、吸い込んだ空気には栄太兄の香りがする。
そのことに、たまらない幸福感を抱いて、もう一度タオルケットにもぐりこむ。
けれど、隣にもう、栄太兄のぬくもりはない。
隣の部屋から、栄太兄の声はまだ聞こえている。
「そうやなくて――そんなわけあるか――だから、お前がそういうことを言うたんやないのか? ――違うって嘘やん。そやったら何で急に泊まるなんて言うねん」
その口調から、相手はきっと健人兄だなと察しがついた。また健人兄が私を煽ったと思ってるんだろう。
誤解、解いてあげないと。
思ってゆっくりと身体を起こす。栄太兄がいつも眠っているベッドから降りるのは、なんだかもったいない気がしたけど、仕方ない。
「き、決まってるやんそんな――寝られるか、あんな寝顔が真横にあって」
ドアに手をかけたとき、そんな言葉が聞こえてどきりとする。
……眠れなかったのかな、栄太兄。
私はぐっすり眠ってしまった。なんだか申し訳なくて、ドアを開けるのをためらう。
「――可愛えなんてもんやないで。ほんま天使やわ……無理やし……男の身勝手で好きにできるわけないやろ……あんなすやすや、幸せそうに寝てはって……ときどきすり寄って来たりしはるんやもん、もう一晩中拷問やで……」
え、え、それって、私のこと……だよね?
すり寄って……って、全然覚えてない。夢の中でも栄太兄に抱きしめられていた記憶はあるけど、全然、意識してなかった。
「ほんま可愛えやん……もう……あかんて……悶え死ぬかと思たわ……」
ドアの前に立ったまま、顔が熱くなるのを感じる。栄太兄の声から、本心を口にしていると分かった。羞恥心と喜びに頬が緩む。
栄太兄は、私が起きたことに気づいてないんだろう。知らせてあげた方がいいだろうか。
でも、このまま、聞いていたいような気もした。私のことをどう思っているのか、栄太兄がどういう気持ちでいたのか……
「礼奈? まだ寝てるはずやけど……だから何もしてへんって……」
そう聞こえて、だましているような罪悪感に、私はゆっくりドアを開けた。それに気づいた栄太兄が、はっと驚いた顔をする。
「あ、えと、健人、また電話するわ。――いや、起きて来てん――はぁ? ほんまお前、いい加減にせぇよ。じゃあな」
栄太兄はそう言い捨ててスマホを下ろすと、私に苦笑気味の笑顔を向けた。
「おはよ。眠れたか?」
「うん……」
どうしよう、聞いてたってバレちゃうかな。そう思いながら、おずおずと栄太兄のシャツの裾を指でつまむ。
「……栄太兄は? 眠れた?」
「お、俺か?」
栄太兄は露骨に目を泳がせて、「いや、俺のことはどうでもええねん」とごまかす。私はうつむいた。
「あの……ごめんね。急に、泊めてだなんて……」
冷静になってみれば、ほんとに自分勝手なことをしたなと反省しきりだ。栄太兄は苦笑して、「別にええで」と私の頭を撫でる。
あ、また子ども扱い。
悔しくて、そっちがそのつもりならと、栄太兄の胸に抱き着いた。
栄太兄がうろたえる。
「え、ちょ、礼奈?」
「……起きたら、栄太兄いなかったから」
パジャマの胸に頬を摺り寄せる。栄太兄の汗の匂いがした。
「ちょっと、寂しかった」
まだ、頭がぼんやりしている。じゃなかったら、こんなこと、照れ臭くてできなかっただろう。
でも、いい。今日は特別に、甘えてもいいことにする。だって、初めて栄太兄の隣で眠ったんだから。栄太兄の家に泊まったんだから。
「んー」
「な、何や?」
「……栄太兄の匂い」
私がぐりぐり鼻先を押し付けて言うと、栄太兄は困ったような顔をした。
「く、臭いやろ」
「臭くないよぅ」
私はぐりぐりしながら首を振る。栄太兄がためらいがちに私の頭を撫でた。
その心地よさにふふっと笑う。シャツにぎゅっとしがみついて、小さく言った。
「安心する」
「そ、そうか……?」
「でも、ドキドキする」
「どっちやねん」
「どっちも」
くすくす笑う私に、栄太兄は困り顔だ。それが面白くて、笑いながら栄太兄の顔を見上げた。
「栄太兄はどっちもあるの。だから、特別」
栄太兄はうろたえたように目を泳がせた。「そ、そうか……?」と曖昧なあいづちを打って、私の頭をぽんぽんと叩く。
「ほら、飯にするで。朝、食べるやろ」
「うーん、食べるけど……」
なんか、物足りない。
そう思ってじぃっと見上げていたら、栄太兄は困り果てたように私を見下ろした。
「その顔、反則やで」
「どんな顔?」
「……俺のこと、好きやーって言うてる顔」
言って、自分で恥ずかしくなったらしい。栄太兄は顔を真っ赤にして、「とにかく飯!」と私を引きはがそうとした。
「何でよぅ。もうちょっとくっついてたいよぅ」
「俺は腹が減ったんや! くっついとったら用意できへんやろうが!」
「できるよぅ。じゃあ、背中にくっついとく」
くるりと後ろに回り込んだら、栄太兄は絶句した。
「どんだけくっついてたいんや」
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適当な言い訳をしながら、今はそういうことにしておこう、と自分でくすくす笑った。
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