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.第9章 穏やかな日々

245 栄太郎の誕生日(5)

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 朝食にパンを焼き始めた栄太兄が、冷蔵庫を開けて「あ」と声を出した。「どうかした?」と問えば、「ケーキ、忘れとったわ」と白い箱を見せる。

「食べる食べる!」
「でもパン焼いたで」
「別腹!」

 目を輝かせて両手を叩けば、「好きやなぁ」と苦笑が返ってくる。

「私コーヒー淹れる!」
「ほんなら頼むわ」

 昔から父に憧れている栄太兄だから、もちろん自宅にはコーヒードリッパーもある。冷凍庫を開けてコーヒー豆を出すと、電子ミルを渡された。

「使い方分かるか?」
「うん、たぶん」

 豆を引くと、ガリガリとしばらく大きな音が立ったあと、刃の回るモーター音が響く。引き方で味が変わるので、「こんなもん?」とときどき栄太兄に確認していたら、くすりと笑われた。
 何だろうと見上げれば、優しい笑顔がそこにある。

「なんや不思議な気分やな。礼奈と台所立っとると」
「新婚みたい?」

 冗談めかして言ってから、自分で照れてうつむいた。栄太兄はそっぽを向いて、こほんと咳ばらいをする。

「ベーコンエッグでもするかと思てたけど、ケーキがあるからあんまり食べん方がええか?」
「う、うん。そうだね」

 何となく目を合わせないままやりとりして、朝食の準備を整えた。

 朝食を食べながら、促されて大学の話を始める。

「そろそろテスト期間やろ」
「うん。一昨日から始まって、今月いっぱい」
「レポートもあるんやないの?」
「半々くらいかな」

 取っている講義によっては、夏休み期間中にレポート提出と決まっている。「懐かしいわ。単位落とさんようにがんばってな」と目を細める栄太兄に苦笑を返しながらパンを口に運んだ。

「夏休みもバイト入れてんねやろ」
「うん。でも、8月はゼミの合宿もあるんだよね。二泊三日で新潟」
「酒処やん。よかったな」
「でもゼミ合宿だよ?」

 前期の発表と講評を踏まえて、もう一度発表するのだ。丸一日講義だなんて憂鬱すぎる。

「そこで仲良くなる奴もいるやろ。――あんま飲まんようにな。あと、男子と一緒におったらあかんで」
「分かってるよ」

 一応、大学ではあんまり飲めないことに――しておこう、と思っているんだけど、最初の懇親会で結構飲んでしまったからか、教授が「橘さん、美味しい日本酒たくさんあるから楽しみにね」なんて言われてしまった。
 けど、わざわざ栄太兄を心配させるようなことを言う必要もないだろう。私はパンを食べ終えて、「次はケーキ!」と立ち上がる。冷蔵庫からケーキを出すと、ろうそくを三本さした。
 ケーキはご飯の後に食べるからと、二人で一つ、3号のものを買った。両手に乗るくらいの小さなサイズがまた可愛くてテンションが上がり、自分の誕生日のときのことを思い出すままに話した。

「私の誕生日にね、悠人兄がろうそく準備してくれたんだけど、ほんとに20本さしてるの。健人兄が呆れてて」
「穴だらけやん」
「そうなんだけど。でも、たぶん刺してるうちに楽しくなっちゃったんじゃないかな」

 言いながら、どうやって火を点けようかきょろきょろ見回す。

「栄太兄、ライターかマッチある?」
「あー、ないな。ろうそくで点けよか」
「ろうそくで?」

 栄太兄が立ち上がって、余ったろうそくを一本、コンロへ持って行った。

「危ないからのいとけよ」
「うん」

 栄太兄はコンロでろうそくに火を点けて、小さなケーキに刺した3本のろうそくに火を移す。手元にろうが落ちて来ないよう、手早く火を移し終えると、手元のろうそくを吹き消した。
 ほぅ、と感心して見ていたら、「何呆けてんねん」と頭を小突かれる。私は肩をすくめた。

「いや……なんか、すごいなって」

 ひとり暮らしをしたことのない私には、家の中というものは何でも揃っているもので、もしくは、揃えておくもので、無ければ買って来ようとか、そういう発想になる。けど、栄太兄は当然のように、あるものでうまく済ませようとしたのが、何だか新鮮だった。

「何がや。でも、礼奈はやったらあかんで。ヤケドしたら困るからな」

 ぽんぽんと頭を撫でられて、ケーキを手にした栄太兄が座卓へ戻る。私はその後ろについて行って、正面に腰掛けると誕生日の定番を歌い始めた。

「ハッピバースデートゥーユー」

 両手を叩きながら歌う私に、栄太兄はくすくす笑っている。なんだか気恥ずかしいけど最後まで歌いきって、「栄太兄、おめでと」と笑うと、栄太兄はろうそくに顔を近づけて吹き消した。

「包丁持ってくるで」
「このまま食べようよ。こないだもそうしたの」
「ホール食い? まあええけど」

 栄太兄が笑って、ろうそくを横に除ける。私がフォークを渡すと、「せーの」と二人で逆側から食べ始めた。

「んふ。幸せ」
「ほんま幸せそうに食べるな」

 栄太兄が目を細めて笑う。私も美味しいデザートに口元がゆるゆるだ。

「イチゴは栄太兄、食べていいよ」
「礼奈が食べり」
「だって、栄太兄の誕生日ケーキだもん」
「ええって」

 なかなか食べようとしないから、私のフォークでぷすりとさして、「はい、あーん」と栄太兄の口の前に運んだ。栄太兄はイチゴと私の顔を見比べてうろたえる。何も考えナシだった私は、そこで初めて自分の振る舞いに気づいた。

「あっ、いや、あの、えっと……」

 今さら手を下げることもできず、どうしようとあわあわしていたら、栄太兄がふっと笑って私のフォークからイチゴを咥えた。もぐもぐ、ごっくん、と飲み込んで、唇についたクリームをぺろりと舌で舐める。
 その舌の動きを思わず目で追っている自分に気づいて、思わずうつむいた。

「自分でやっといて何照れてんねん」
「照れてないもん」
「照れてるやん」
「照れてないっ」

 私はむきになって言いながら、大きな一口を削り取った。
 はむっ、と口に咥えたら、思いの外大きすぎて、唇の端からクリームがはみ出た。

「ん、ぅむっ」
「ははははは、ムキになるからや」

 栄太兄が笑って、私の顔に手を伸ばす。
 そこでふと、考えるように手を止めたかと思えば、手を肩に乗せられた。

 ――え?

 私がまばたきをするうちに、唇の端をぺろりと舐められる。

「ついとったで」

 至近距離でにやりと笑われて、火が出るかと思うくらいに頬が熱くなるのを感じた。

「な、何、何っ……!」
「昨晩から翻弄されっぱなしやからな。これくらいええやろ」

 ふふんとどこか得意げに言う栄太兄は、その割に照れ臭いらしく、「残り貰うで」と冗談半分抱え込もうとするから、「だ、駄目、まだ食べる」と私は手を伸ばした。
 栄太兄の耳障りのいい笑い声が、お腹を優しくくすぐっていて、頭はほわほわ熱い。
 ただ二人でケーキを食べるだけなのに、なんでこんなに満たされるんだろう――
 思ってちらりと栄太兄を見れば、ふわりと細めた目が見返してくる。
 私がふにゃ、と緩んだ笑顔を返せば、栄太兄がまたくつくつ笑った。
 ――可愛えな。
 その笑い声が、そう言っているようにも聞こえて、私はまた一人で照れていた。
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