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.第12章 親と子

335 久々のお泊まり(2)

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 駅近くのスーパーで見切り品の総菜を買って、栄太兄の家まで歩いた。
 ご飯は家を出る前に炊飯器をセットしてきたらしい。「ありがと」と言うとはにかんだように「どういたしまして」と笑った。
 こうして2人で歩くのは久々で、何だか気恥ずかしかった。おずおずと手を伸ばすと、栄太兄が繋ぎ返してくれる。顔を上げれば目が合って、それだけで自然と笑顔が浮かんで、それが気恥ずかしくてまた前を向く。

「……えーと……体調、もうええんか?」
「あ……うん、だいたい」
「だいたい?」

 訝し気に顔を覗き込まれて、内心、しまった、と思った。まだ何となく身体が重いところがあるのは確かだけれど、バイトしながらの休息は休むといってもぼちぼちで、なかなか万全とまでは言えない。
 ――けど、ここでそう言ったら、栄太兄のことだ、「帰れ」と言い始めるかもしれない。

「だ、大丈夫。治った、治ったよ」
「ほんとかぁ?」

 すごーく疑わし気な目で、栄太兄が私を見る。「ほんとだって」と言ったけど、栄太兄はため息をついた。

「……まあ、ええけど。どうせこの時間やし、飯食ったら風呂入って寝るで」
「えっ」
「何や。ゲームでもできると思てたんか?」

 栄太兄がにやりと笑う。
 いや、ゲームじゃなくて。ゲームなんてしようと思ってないけど。
 ちょっと、期待して、なくもなかった――こないだみたいな甘いキス――だって、元気になったらって言ったから――

「明日も早いし、お前も病み上がりやしな。とっとと寝るに限るで」
「……何時に家出るの?」
「うーんと、面会時間9時からやから、8時には家出よか」

 ……ということは、起床は遅くとも7時だ。確かにのんびりする余裕はなさそう。
 そう気づいてしゅんとうなだれた私に、栄太兄は笑った。

「逆に、朝、外で食おか。駅前のどっか、モーニングやってたはずやし。……どうや?」

 デートできないことで、私が落ち込んでいるんだと思ったらしい。私は「うん」と微笑んで、握った手に少しだけ力を込めた。
 キスはお預けになりそうだけど――いいや。
 栄太兄と一緒にいられるこの時間が、私には何より、大切なんだから。
 ひとりでそう納得すると、顔を上げて栄太兄の顔を見る。栄太兄がそれに気づいて微笑み返した。いつでも私を見守っていてくれた、優しい笑顔。今はそれだけじゃなくて、照れ臭くなるような甘さが漂っている。
 そのことが嬉しくて、私はふふっと笑うと空を見上げた。
 街中の明かりのせいで、星はあんまり見えないけれど、月はくっきりと浮き上がっている。

「満月かな」
「いや――あと2、3日やないか」

 月を見上げながら、前にもこうして、2人で月を見たことを思い出していた。

「綺麗な月やな」

 栄太兄がぽつりと言う。
 私は思わず、笑いそうになった。
 だって、やっぱり、あのときと同じく、あんまり深い意味なく言っているみたいだったから。
 でも、それでいい。それが、栄太兄らしい。
 思いながら、私は頷く。

「そうだね」

 私は月から栄太兄に視線を向けて、めいっぱい、想いを込めて言った。

「月が綺麗だね」

 栄太兄が私の視線に気づいて、不思議そうに目を覗き込んで来る。
 次いで、はっとしたように顔を赤らめた。

「えっ――あっ――いや――俺、そんなつもりは」

 あ、気づいたみたい。

「知ってるよ。――知ってたんだ、その話」
「あれやろ、夏目漱石やろ。――そんな洒落たこと、俺できへんわ」
「あはははは、うん、知ってる」

 うろたえる栄太兄の横で笑いながら、私はようやく、そのエピソードの意味が本当の意味で理解できたような気がする。
 アイラブユーを、「月が綺麗ですね」と訳させた理由。
 もしかしたら、それは月じゃなくてもよかったのかもしれない。
 ふくらみかけた桜のつぼみでも、空に浮かぶ羊雲でも、開きすぎたチューリップでも――
 あなたと一緒に見れば何でも、綺麗に見える。優しくて美しくて、尊い風景に思える。
 ――そういうこと、なんだろうな。

 ふふっと笑った私の横顔を、栄太兄が困ったように見下ろす。

「……えらい、ご機嫌やん」

 なんだかちょっと拗ねたような声に、「うん」と笑い返した。

「ご機嫌だよ。――栄太兄と一緒だから」

 栄太兄は私の言葉に、なんとも言えない変な顔をして、そっぽを向いた。

「……人たらしの子は、やっぱり人たらしや……」
「何のこと?」

 私は首を傾げたけれど、栄太兄は「何でもない」と唇を尖らせて、ちょっとだけ歩幅を広げた。私はそれについて行きながら、もう一度、月を見上げた。
 あともうちょっとで満ちる月は、夜空に青白く笑っていた。
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