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.第1章 煩悩まみれの願望

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 翠に悪意はなかったにしろ、そのランチは菜摘の不安をあおる結果になった。
 翠の口ぶりは、嵐志が女とつき合うときの姿を知っているようだったからだ。
 となると、今つき合っているわけでなくても、元カノ、という可能性は捨てきれない。
 今まで菜摘が見てきた嵐志は、プライベートであっても職場とかけ離れた要素がない。
 紳士的で、理性的で、スマートで、理想的な恋人。
 けれど翠は、そうではない嵐志の姿を知っているようだった。
 つき合いが長いから? そうかもしれない。
 けれど、もし、翠が元カノなんだとしたら。
 もしかしたらあの夜、菜摘を翠と比べて萎えてしまったのでは――
 また胸に広がり始めた不安を抱えて、うつむきがちに会社を出た菜摘は、帰路にばったり光治と会った。
 おう、と気さくに声をかけられて、思わずうろたえる。

「営業は、残業してるんじゃ……?」

 二度目のデートが流れたとき、仕事が落ち着いたら自分から連絡すると嵐志に言われている。今日も連絡はなかったはずだ。
 思わずスマホを確認しようと懐を探った菜摘に、光治は肩をすくめた。
 
「もうあらかた収束してるよ。じゃないと昼もランチで外出たりしないだろ。まー、課長なんかは最終確認で残ったりしてるみたいだけど」

 あっさりそう答えて、菜摘の顔を覗き込んできた。
 かと思えば、ニヤリと意地悪に笑う。

「なに、もしかして、放っとかれてすねてんの?」
「そ、そういうわけじゃ…」

 言い返そうとして、途中でつまった。
 うつむいた菜摘に、光治が首を傾げる。
 胸に広がる暗雲をなだめるように、菜摘は唾を飲み込んだ。
 おずおずと顔を上げると、光治のジャケットの裾をつまむ。

「ちょっと……夕飯行かない?」

 珍しくしおらしい菜摘に困惑したらしい。光治は丸い目を数度瞬いてうなずくと、ドアへ向かって歩き出した。

 ***

「――んで、何か話でもあんの? 俺で分かる話なのか知らないけど」

 それぞれ一杯ずつビールを頼んで、お通しの枝豆をつまみなから光治が問う。
 とりあえず手近な店にと、入ったのは小さな居酒屋だ。机席は全部埋まっていたから、カウンターに並んで座ることにした。
 カウンター席の椅子は脚が高くて、小柄な菜摘はもちろん、百七十に満たない光治も、足置きを使わないと座れない。
 二人してよじ登るように腰掛け、足置きに足を置いてひと息つく。
 菜摘はうんと神妙にうなずいて、ひと呼吸の後、目を上げた。
 ためらいながら、話を切り出す。

「あのさ、こーちゃん。百合岡さんって……やっぱり神南さんの……元カノ、だったりするの?」
「んっ! ぶほっ!? げほっ、ごほっ」

 光治は食べていた枝豆が喉に詰まったらしい。咽せる背中をさすってやると、しばらく目を白黒させた後、思い切りうらたえて目を泳がせる。

「あ、え、マジで? ……マジで? えっ、あ、あの二人って、そ、そうなの?」
「いや、私が聞いてるんだけど」

 翠は長年、青柳家に出入りしている社長秘書だ。だから知っていることもあろうかと聞いてみたのに、そう来るとは予想外だった。
 あまりに反応が初々しすぎて、逆に菜摘の動揺は冷めていく。

「あー、えー、いや、そうなの? マジか……え、いつ? いつの話?」
「だーかーらー、こっちが聞いてるんだってば」

 声が裏返っている光治に、菜摘は呆れ返った。
 社内で昔から聞いた噂を口にしてやると、光治は丸い目をさらに丸くして聞いている。
 なるほど、光治の鈍さもさることながら、社長の息子に社員の噂話を持ちかけるような輩はいないらしい。
 光治の表情を見れば見るほど、説明するのも馬鹿馬鹿しく感じ始めて、菜摘はため息をついた。

「……でも、こーちゃん、ずいぶん気になるみたいだね?」
「えっ!?」

 菜摘が水を向けてみると、光治はまた取り繕いようもないほど声を裏返らせる。
 ははぁー、百合岡さんねぇ。
 光治の女性のタイプは聞いたことがないでもないが、あまりにリアリティがなさすぎて(だからこそ童貞だと分かったのだけれど)、てっきりアイドルか二次元のキャラクターにでも恋をしているのかと思っていた。
 が、百合岡が理想なのだとしたら、確かに分かるような気はする。仕事ではキリッとしていて、オフでは優しい感じの。とか、俺だけに甘えてくれるのがいいよな。とか、かなり妄想が入っていた気はするけれど。
 ともあれ、こうも分かりやすくうろたえられると、逆にイジる気にもならない。
 光治は頬を赤らめながら、勝手に弁明を続けている。

「いや別に! 別にあいつが誰と付き合おうが俺には関係ないっつーか! 好きにしろって感じだし!」
「ふぅん……?」
「別に! 気になんてなってないし! あんな年増女……!」

 そこからも、光治は何やら言っていたが、一瞬にして興味を失った菜摘は聞き流したので覚えていない。
 とりあえず、今回分かったのは、光治に聞いても埒が開かないということだけだ。
 となれば、噂の真偽のほどは、当人に聞くしかないのだろう。
 けれどそれは、同時に自分にもリスクがあった。
 もしも噂が本当で、翠と自分が比べられたら――
 系統が違うと言われそうではあるけれど、翠の存在感を考えれば菜摘など足元にも及ばない。
 そう分かっているからこそ、とてもじゃないが怖くて自分からは聞けそうにはない。
 隣でなおもブツブツ言っている光治は完全に放置して、菜摘は悩ましいため息をついた。
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