猫かぶり紳士の癒し方~子リス系OLは疲れた彼に愛でられる~

松丹子

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.第1章 煩悩まみれの願望

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 軽く食事を済ませた菜摘と光治は、連れ立って駅に向かって歩いていた。
 並んで歩きながらも、二人揃って無言なのは、それぞれ似たようなことを、けれど違う都合で考えているからだろう。
 光治とは、幼なじみというよりも、ほとんど姉弟のような関係だ。黙っていても怒っていても、一緒にいて苦になることはない。
 いつか家族になるのなら、こういう関係の人の方が、一緒にいて楽なのかな。
 ふと自問して、光治の横顔を見てみた。
 若手の中では最も人気がある光治の顔立ちは、確かに端正だと思う。その上、お坊ちゃまらしく気立てもいい。
 菜摘の目には、嵐志には遠く及ばないように見えるけれど。
 菜摘の視線に気づいた光治が、こちらを見て首を傾げた。
 ――うん、やっぱり無い。
 菜摘は何でもないと首を振って前を向く。
 光治が自分を女だと見ていないように、自分も光治を男だとは思えない。たぶん二人でどこかに閉じ込められても、緊張もしなければ当然欲情もしないだろう。
 光治とはそういう関係で、今までもこれからもそれでいい。
 そう達観してうなずいた菜摘は、前方を目にして息を止めた。
 目の前を歩いているのは、長身の男女――

「嵐志くん、もう一軒行こうよー。打ち上げってことでさー。おごるから! ね?」
「あのなぁ。飲みたいならひとりで行け」
「冷たーい。ひとりで行って悪い男にナンパでもされたらどうすんのー?」
「適当に食って帰ってこい」
「なにそれー」

 私を何だと思ってるの、と翠はむくれて嵐志の肩をたたく。嵐志は口先では嫌そうにしながらも、ぽんぽん行き来する会話を楽しんでいるのは見て分かった。
 あっ、と思うと、足がすくんだ。身長差を気にして、歩きながら話すことをためらう自分にはできないやりとり。
 硬直した菜摘に気づいて、光治も立ち止まる。
 視線を感じたのか、前を行くふたりも立ち止まって振り向いた。
 嵐志の目が驚きに見開かれていくのを、菜摘は直視できずに目を逸らす。
 微妙な空気を、翠の明るい声が割った。

「あら。二人も食事? ちょーどよかった、一緒に飲み直しにでも――」
「わ、私っ!」

 翠の誘いを聴き終わる前に、菜摘はペコリと頭を下げた。

「お腹痛いので、失礼しますっ!」

 言うなり、くるりと背中を向けて走り出す。
 「腹が痛くて走るかよ」という光治のツッコミが聞こえた気がしたが、例によって無視した。
 菜摘なりに全速力で走ったけれど、チビの速力などたかが知れている。
 追ってくる革靴の音はあっという間に近づいてきて、駅に着く前に、腕を男の手に取られた。

「――待って」

 振り向かずとも、嵐志だと分かる。
 大きな手。節のある指。菜摘よりも高い体温。
 ずっと憧れていた人の手。
 大好きな人の手。
 ――じわりと涙が浮かんだ。

「は、離してください!」

 何か言われるより先にと、菜摘は顔も上げず叫んだ。

「べ、別に、何でもないので! き、気にしないでください! 神南さんの仕事が私より忙しいのはほんとだし、それなのに私じゃなくて百合岡さんとご飯食べるんだーとかそんなこと思ってないし、むしろ私より親しげだなとか、そんなことも、思ってないし!」

 言いながら、子どもじみたことを言っていると自覚する。これでは気にしてますと言っているようなものだ。

「と、とにかく、お、おやすみなさい! また会社で!」

 どうにか笑顔でごまかして、嵐志の反応も見ずにまた走り出した。
 食べたばかりで走ったからか、チリっと、身体の奥が痛む。

 痛い。
 痛い。お腹が痛い。
 違う、胸が、痛い。
 ――痛くて痛くて痛くて、たまらない。

 どうしてこんなに余裕がないんだろう。
 どうしてこんなに、自分は子どもなんだろう。
 情けなくてたまらず、浮かぶ涙を拭いもせずに走った。

 ***

 縁故入社を疑われると分かっていながら、どうして菜摘がこの会社に入ったか――
 実際のところ、業種に惹かれたからでも、就職に失敗したからでもなかった。
 小柄だからか子どもっぽく見られがちだが、菜摘はこれで案外、自立心が強い。
 母子ふたりで暮らしてきた実家も、高校卒業と同時に出たくらいだし、妙なしがらみがある会社など、もちろん選ぶつもりはなかった。
 お世話になっているおじさん――社長直々に「おいで」と言われようが何だろうが、断る気満々だったのだ。
 その考えを変えたのが、百合岡翠と、神南嵐志だった。
 断るにしても、一度は話を聞こう。
 そう思って会社にやって来た菜摘を、他の就活生と共に案内してくれたのが翠だった。
 すらりとした姿は立っているだけでも絵になり、説明は明確で、他の社員と交わすやりとりはスマート。
 菜摘の目には、まさに輝いて見えた。
 ああいう女性になりたい――そう思う姿がそこにあったのだ。
 かわいい、と言われるばかりで、一人前扱いしてもらえないことが多かった菜摘には、翠のその姿は希望にすら見えた。
 ああいう人がいる会社で、働いてみたい。
 説明会を聞き終えたときには、気持ちは見事に揺らいでいた。
 こんなつもりじゃなかったのに――ふらつくようにエレベーターに乗り込んだ。
 時間はちょうど、社員の帰宅と重なったらしい。
 満員状態の箱の中、人波に押されそうになったところで、頭の横に伸びて来た男の手が、突っ張って支えてくれた。
 見上げると、端正な横顔が見えた。まっすぐにエレベーターの文字盤を見つめるアーモンド型の目の横には泣きぼくろ。すっと伸びた首筋に、学生にはない色気があった。
 その端正さに見とれた菜摘は、エレベーターが一階に着く音を聞いて我に返った。
 わらわらと降りて行く流れに乗り遅れ、二人で箱の中に取り残された。
 ぽかんとしたままの菜摘に、男は苦笑する。
 ようやく目が合ったとき初めて、あえて顔を逸らしてくれていたのだと気づいた。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」

 ありがとうございました、と下げかけた頭に、ちりっと痛みが走った。

「あ、待って」

 男が菜摘の肩に触れる。節のある大きな手に、どきんと心臓が高鳴った。

「――髪が絡まった。ちょっと待って、ほどくから……」

 ジャケットの袖のボタンに、菜摘の髪が絡まっていた。エレベーターホールの横に立ち止まり、男は菜摘の髪をほどこうと四苦八苦している。

「す、すみません。あの、切ってもらってもいいですから」

 絡まったのはほんの数本だ。どうせ切っても目立たないし、髪などいずれ伸びるのだからと何気なく言ったつもりが、男は心底驚いたようにかぶりを振った。

「駄目だよ、こんなにきれいな髪なんだから」
「き、きれいなんて……ただの癖っ毛で」

 色素が薄いふわんふわんの髪は、短くしてもくくっても、こうして何かに絡まる。わずらわしいだけだと思っていた菜摘に、男は笑った。

「そんなことないよ。ふわふわでかわいい」

 そのときだった。菜摘が恋に落ちたのは。
 ほとんど瞬間的に、男に心を奪われたのだ。
 「取れたよ」と男に言われて、お礼を言って逃げるようにその場を去った。
 かわいい、という男の声が、頭の中でずっと繰り返されていた。
 駅に向かって走りながら、おじさん、と菜摘は、光治の父に呼びかけていた。
 ――おじさんの会社に行く。おじさんの会社で働きたい。あのひとたちと。
 あのひとたちの見てる世界を私も見たい。
 最初は、ただの憧れだった。
 そんな社会人生活で――まさか自分の想いが実るだなんて、思いもしていなかった。
 自分に振り向いてくれるだなんて、思ってもいなかったのだ。
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