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.第5章 ふたりのこれから
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ヴヴヴヴヴ……
帰宅するなり、部屋の電気も点けずにベッドに倒れ込んだ菜摘は、手にしたスマホが揺れるのに気づいて顔を向けた。
暗い部屋の中、青白く浮かび上がった画面には、愛しい人の名前が表示されている。
――嵐志さん。
条件反射のように、頬が緩む。スマホを引き寄せる。
受話ボタンを押そうとしたところで、ふと、手が止まった。
――自分に、出る権利はあるんだろうか。
不意に、息が詰まった。画面からあと三センチのところで止まった指が、かすかに震える。
画面上には嵐志の名前が、変わらず表示されている。
ヴヴヴヴヴ……
――出なくちゃ。
そう思うのに、指は動かなかった。出ればいい。嵐志の声を聞けば、少しは安心するはずだ――それなのに、菜摘には出れない。出ていいのか、分からない。
切れてくれ、と菜摘が願うかどうかのところで、コールは途切れた。安堵と寂しさ、罪悪感がめまぐるしく胸を巡る。
震える手をそのまま、膝の上に落とした。息をついたところに、今度は短いバイブ音がした。
【もう寝てるかな? 起こしちゃったらごめん。おやすみ】
届いたメッセージにはそう書かれていた。
うつろな目で、スマホの右端に記された時刻を見る。もう日付が変わろうとしている――今ようやく帰宅するところなのだろうか。
菜摘はスマホを額に押しつけるようにして、静かに息を吐き出した。
――この会社に入ったことを、今ほど後悔したことはない。
頭の片隅には、光治の話がこびりついている。
菜摘と嵐志の関係を応援していたはずの社長が、身体のつき合いに気づくや嵐志を試すようなことをし始めた――
それは菜摘と嵐志の関係だけでなく、嵐志自身の今後をも左右するかもしれない。
そう思うと、たまらなく不安だった。
こうなりたいな、と思う人がいたから。
かっこいいな、と思う人がいたから。
少しでも、近づけたら嬉しいと思った。近づきたいと思った。
だから入社を決めた会社だった。
――そのせいで、妙なことに嵐志を巻き込んでしまった。
光治の父――青柳社長が、自分に甘いことは知っている。
小学生の頃から、自分ももう一人、女の子が欲しかったのだと、何度も菜摘に語って聞かされたから。
「おじさんきっと、なっちゃんの花嫁衣装見たら泣いちゃうよ」とも、何度も言っていた。
嵐志に近づいたのは、自分のわがままだ。
光治にお願いをして、嵐志と会話するチャンスを作ってもらった。
光治が入社するまでの二年間、ただ見てるしかできなかったのに――いや、だからこそ、一度だけでいいからと、無理を言ったのだ。
見ているだけで満足していたのに、それでは足りないと思い始めたのは、光治の入社がきっかけだったと思う。
光治と二人で飲みに行くたび、漏れ聞く上司としての嵐志が、あまりにかっこよくて、見ているだけでは物足りなく思えてきてしまった。やっぱりもっと近づきたいと、欲が出た。
光治が「ほんとに見てるだけでいいわけ?」と呆れていたのも一因だけれど、嵐志の視界に入りたいと願ったのは、菜摘自身なのだ。
それが、今、嵐志に思わぬ形の迷惑をかけている――かもしれない。
菜摘にとって「人のいいおじさん」、青柳社長が、社長としてどういう采配をふるっているのか、菜摘には分かっているようで分かっていない。
もちろん、経営者という立場なのだから私情に振り回されることはないだろう。嵐志は優秀な部下であって、菜摘との関係のせいでクビになるということもないだろう――とは、思うのだけれど、社長の個人的な感情が、嵐志の今後のキャリアに全く影響しないのか、菜摘には分からない。
ぐるぐると、考えは前に進むことなく堂々巡りを繰り返している。
――やっぱり、入社るんじゃなかった。
今さらといえば今さらの後悔を抱いて、菜摘の目には涙が浮かんだ。
嵐志のキャリアに、自分が泥を塗ってしまったかもしれない。噂によれば、社長自らスカウトしたという嵐志との関係は、本来そう悪くはなさそうだった。
それなのに、その関係を、自分が崩してしまったのかもしれない――
新年会のとき、隣の席にならなければ。
あのとき、話をしなければ。
バレンタインデーに、デートをしなければ。
告白をしなければ。恋人にならなければ――嵐志に今のような災難は、降りかからなかった、かも、しれない。
考えれば考えるほど、どん底に落ちていくような感覚がある。
それからは、嵐志からの電話に、出る勇気がなくなった。メッセージのやりとりも、段々と苦痛になった。
声を聞けば、甘えたくなる。すがりたくなる。もしかしたら、菜摘との関係は、嵐志のキャリアに不利になるかもしれない――
そう分かっていても、返すメッセージは健気なカノジョづらを止めない。
そんな自分の優柔不断さに、ますます落ち込んでいく。
***
不眠気味になった菜摘のデスクに、アイスティー持参で光治がやってきたのは、それからさらに二週間が経とうとする頃だった。
コツン、と突然置かれたペットボトルに、ゆっくりと顔を上げれば、なんとも言えない顔をした光治が「お疲れ」と低い声をかけてくる。
「ああ、こー……青柳くん」
仕事はどうにかこなしていたものの、あまり休められていない頭の動きは鈍い。
パソコンの画面から光治の顔へ目を向けたが、いまいち焦点が合わず数度まばたきをする。
光治は気難しそうな顔で、菜摘の顔を覗き込んできた。
「おい……大丈夫か?」
菜摘は笑った、つもりだった。実際は口の端がうまく上がらず、吐息が漏れただけだったけれど。
「うん……別に、大丈夫だよ」
光治の顔を見たくなくて、心配されたくなくて、またパソコンの画面へ視線を戻した。
ぱちん、ぱちん、といつもに増して遅いタッチでキーボードをたたく。
「翠さんも、なんかあったら連絡するって言ってくれてるし。大丈夫……大丈夫」
自分に言い聞かせるように言葉を繰り返しながら、ぱちん、ぱちん、とキーボードをたたく。
しばらく菜摘を見つめた後、光治は深いため息をついた。
ぽんと肩をたたかれたかと思えば、強引に光治の方を向かされる。
「お前さ……ちゃんと寝てる?」
問われて、菜摘はびくりと肩を震わせた。
再び光治を見上げれば、まっすぐなまなざしに怯んで思わず視線を泳がせる。
何か言わなくては。
気ばかりが焦って、震える唇を開いたが、何を言えばいいのか分からない。
結局、そのまま閉じた。
光治が吐息をつく。
「……分かった」
「分かったって……」
勝手に納得する光治に困惑した。
社長の息子だからといって、妙なことをしないで欲しい。菜摘のためにも、嵐志のためにも――
嵐志の今後に、なにがどう影響するのか、菜摘には分からないのだから。
どう動けば嵐志のためになるのか、菜摘には分からないのだから。
光治を見上げる目が、すがるような目になった自覚はあった。けれど光治は「これでお前が倒れたら元も子もないだろ」と厳しい口調で言い放つ。
「俺がどうにかする。どうにか……親父と話す時間を作ってやる」
社長と話す時間。
それは――菜摘にとって――嵐志にとって、どんな意味になるのだろう。
菜摘は視線の先に迷って、目を伏せた。
光治は小さなため息の後、手の温もりを菜摘の肩に残して、菜摘の前から去った。
帰宅するなり、部屋の電気も点けずにベッドに倒れ込んだ菜摘は、手にしたスマホが揺れるのに気づいて顔を向けた。
暗い部屋の中、青白く浮かび上がった画面には、愛しい人の名前が表示されている。
――嵐志さん。
条件反射のように、頬が緩む。スマホを引き寄せる。
受話ボタンを押そうとしたところで、ふと、手が止まった。
――自分に、出る権利はあるんだろうか。
不意に、息が詰まった。画面からあと三センチのところで止まった指が、かすかに震える。
画面上には嵐志の名前が、変わらず表示されている。
ヴヴヴヴヴ……
――出なくちゃ。
そう思うのに、指は動かなかった。出ればいい。嵐志の声を聞けば、少しは安心するはずだ――それなのに、菜摘には出れない。出ていいのか、分からない。
切れてくれ、と菜摘が願うかどうかのところで、コールは途切れた。安堵と寂しさ、罪悪感がめまぐるしく胸を巡る。
震える手をそのまま、膝の上に落とした。息をついたところに、今度は短いバイブ音がした。
【もう寝てるかな? 起こしちゃったらごめん。おやすみ】
届いたメッセージにはそう書かれていた。
うつろな目で、スマホの右端に記された時刻を見る。もう日付が変わろうとしている――今ようやく帰宅するところなのだろうか。
菜摘はスマホを額に押しつけるようにして、静かに息を吐き出した。
――この会社に入ったことを、今ほど後悔したことはない。
頭の片隅には、光治の話がこびりついている。
菜摘と嵐志の関係を応援していたはずの社長が、身体のつき合いに気づくや嵐志を試すようなことをし始めた――
それは菜摘と嵐志の関係だけでなく、嵐志自身の今後をも左右するかもしれない。
そう思うと、たまらなく不安だった。
こうなりたいな、と思う人がいたから。
かっこいいな、と思う人がいたから。
少しでも、近づけたら嬉しいと思った。近づきたいと思った。
だから入社を決めた会社だった。
――そのせいで、妙なことに嵐志を巻き込んでしまった。
光治の父――青柳社長が、自分に甘いことは知っている。
小学生の頃から、自分ももう一人、女の子が欲しかったのだと、何度も菜摘に語って聞かされたから。
「おじさんきっと、なっちゃんの花嫁衣装見たら泣いちゃうよ」とも、何度も言っていた。
嵐志に近づいたのは、自分のわがままだ。
光治にお願いをして、嵐志と会話するチャンスを作ってもらった。
光治が入社するまでの二年間、ただ見てるしかできなかったのに――いや、だからこそ、一度だけでいいからと、無理を言ったのだ。
見ているだけで満足していたのに、それでは足りないと思い始めたのは、光治の入社がきっかけだったと思う。
光治と二人で飲みに行くたび、漏れ聞く上司としての嵐志が、あまりにかっこよくて、見ているだけでは物足りなく思えてきてしまった。やっぱりもっと近づきたいと、欲が出た。
光治が「ほんとに見てるだけでいいわけ?」と呆れていたのも一因だけれど、嵐志の視界に入りたいと願ったのは、菜摘自身なのだ。
それが、今、嵐志に思わぬ形の迷惑をかけている――かもしれない。
菜摘にとって「人のいいおじさん」、青柳社長が、社長としてどういう采配をふるっているのか、菜摘には分かっているようで分かっていない。
もちろん、経営者という立場なのだから私情に振り回されることはないだろう。嵐志は優秀な部下であって、菜摘との関係のせいでクビになるということもないだろう――とは、思うのだけれど、社長の個人的な感情が、嵐志の今後のキャリアに全く影響しないのか、菜摘には分からない。
ぐるぐると、考えは前に進むことなく堂々巡りを繰り返している。
――やっぱり、入社るんじゃなかった。
今さらといえば今さらの後悔を抱いて、菜摘の目には涙が浮かんだ。
嵐志のキャリアに、自分が泥を塗ってしまったかもしれない。噂によれば、社長自らスカウトしたという嵐志との関係は、本来そう悪くはなさそうだった。
それなのに、その関係を、自分が崩してしまったのかもしれない――
新年会のとき、隣の席にならなければ。
あのとき、話をしなければ。
バレンタインデーに、デートをしなければ。
告白をしなければ。恋人にならなければ――嵐志に今のような災難は、降りかからなかった、かも、しれない。
考えれば考えるほど、どん底に落ちていくような感覚がある。
それからは、嵐志からの電話に、出る勇気がなくなった。メッセージのやりとりも、段々と苦痛になった。
声を聞けば、甘えたくなる。すがりたくなる。もしかしたら、菜摘との関係は、嵐志のキャリアに不利になるかもしれない――
そう分かっていても、返すメッセージは健気なカノジョづらを止めない。
そんな自分の優柔不断さに、ますます落ち込んでいく。
***
不眠気味になった菜摘のデスクに、アイスティー持参で光治がやってきたのは、それからさらに二週間が経とうとする頃だった。
コツン、と突然置かれたペットボトルに、ゆっくりと顔を上げれば、なんとも言えない顔をした光治が「お疲れ」と低い声をかけてくる。
「ああ、こー……青柳くん」
仕事はどうにかこなしていたものの、あまり休められていない頭の動きは鈍い。
パソコンの画面から光治の顔へ目を向けたが、いまいち焦点が合わず数度まばたきをする。
光治は気難しそうな顔で、菜摘の顔を覗き込んできた。
「おい……大丈夫か?」
菜摘は笑った、つもりだった。実際は口の端がうまく上がらず、吐息が漏れただけだったけれど。
「うん……別に、大丈夫だよ」
光治の顔を見たくなくて、心配されたくなくて、またパソコンの画面へ視線を戻した。
ぱちん、ぱちん、といつもに増して遅いタッチでキーボードをたたく。
「翠さんも、なんかあったら連絡するって言ってくれてるし。大丈夫……大丈夫」
自分に言い聞かせるように言葉を繰り返しながら、ぱちん、ぱちん、とキーボードをたたく。
しばらく菜摘を見つめた後、光治は深いため息をついた。
ぽんと肩をたたかれたかと思えば、強引に光治の方を向かされる。
「お前さ……ちゃんと寝てる?」
問われて、菜摘はびくりと肩を震わせた。
再び光治を見上げれば、まっすぐなまなざしに怯んで思わず視線を泳がせる。
何か言わなくては。
気ばかりが焦って、震える唇を開いたが、何を言えばいいのか分からない。
結局、そのまま閉じた。
光治が吐息をつく。
「……分かった」
「分かったって……」
勝手に納得する光治に困惑した。
社長の息子だからといって、妙なことをしないで欲しい。菜摘のためにも、嵐志のためにも――
嵐志の今後に、なにがどう影響するのか、菜摘には分からないのだから。
どう動けば嵐志のためになるのか、菜摘には分からないのだから。
光治を見上げる目が、すがるような目になった自覚はあった。けれど光治は「これでお前が倒れたら元も子もないだろ」と厳しい口調で言い放つ。
「俺がどうにかする。どうにか……親父と話す時間を作ってやる」
社長と話す時間。
それは――菜摘にとって――嵐志にとって、どんな意味になるのだろう。
菜摘は視線の先に迷って、目を伏せた。
光治は小さなため息の後、手の温もりを菜摘の肩に残して、菜摘の前から去った。
応援ありがとうございます!
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