fragrance

松田丹子(まつだにこ)

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Tonka

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「すみません課長、来週の会議資料なんですけど……」

 手にした紙に目を落としたままだったのと、数年前の感染症の影響でパーテーションが残ってたせいで、デスクの横に立つまでそこが空席であることに気づかなかった。
 無人の椅子を目にして眉をしかめる。

「……またか」

 課長は推定40代前半。痩せ型でヒョロっと背が高い、全体的にカサカサした印象の人で、極度のヘビースモーカー。
 いわゆる枯れたオジサンて感じ。
 ため息の代わりに思わずぼやく。

「タバコ休憩って午前午後1回ずつって決まってませんでしたっけぇ?」
「トイレの回数減らしてもタバコの本数は減らせないって豪語してたよ」

 笑いながら同僚が答えてくれた。まったく面倒くさいことこの上ない。

「喫煙所にいると思うよ」
「行きませんよあんなタバコ臭いところ」

 タバコの匂いは嫌いだ。父と離婚する直前、ストレスフルな母が吐き出すもうもうとした煙の中で生活したことを思い出すから。
 吸う人にも吸わない人にも有害。あんなもの、この世に存在しなくていいのに。
 こと、タバコについては、私はかなりの過激派だ。日本から、いや地球上から消滅してほしい嗜好品。

「もういいや」

 確認お願いします。ふせんを貼ってしれっとデスクに置いておく。
 私はやるべき仕事はしました。あなたの個人的な事情にまで配慮する義理はありません。
 心の中でそんな線引きをして、また自分のデスクに戻る。
 結局昼休みになるまで課長は戻ってこなくて、私は顔を合わせないまま外に出た。

 雨じゃなければ、昼休みは必ず外に出ることにしている。
 一日中オフィスの中にいると、空気が薄まっていく気がするから。
 そんなことを思うこと自体が、あんまり人付き合いが得意じゃない証拠かもしれない。世の中にはどんな人とも平気で仲良くなれる人もいるけど、私の場合そんなことはできそうにもない。
 一方で他人の存在に完全に無関心でいられるほど図太くもない、中途半端な人間性という自覚もある。
 けどまあ、多かれ少なかれだいたいの人は似たようなもんだろう。
 オフィス近くにある、公園というには小さなちょっとした広場。そこには同類が集まるのか、ほどほどに他人でいられる距離を開けて並んだ3つのベンチはちょっとでも出遅れると埋まってしまう。
 よかった、今日は空いてる。
 一番端のベンチの一番端に腰かけて、握ってきたおにぎりにかぶりつく。
 空は晴れでも曇りでもない。青い空にうっすらと白がかかっているような感じ。ある意味いちばんちょうどいい天気かもしれない。黙々とおにぎりを咀嚼していく。
 持ってきたおにぎりを食べ終わる頃、隣のベンチに座っていたサラリーマンがおもむろにタバコを取り出した。しかも電子じゃないやつ。
 ありえない。香害と健康被害を被る前にさっさと退散せねば。丸めたサランラップをランチバッグに雑に突っ込んで立ち上がる。
 まだ昼休みの終わりまでは時間がある。いつもならあのままベンチで電子書籍を読んで過ごすのにどうしたもんか。まだあの空気の薄いオフィスに戻る気にはなれない。ぷらぷらその辺りを歩く。
 コンビニの前に、タバコを吸ってるサラリーマン。あーやだやた。呼吸を止めて横を通ろうと息を吸い込んだ時、タバコの火を消して私を見てきた。

「おつかれ」
「……おつかれさまです」

 やば、課長じゃん。手にしたゼリー飲料を開ける姿に、思わずまた眉を寄せる。

「それ、昼ごはんですか」
「あー。時間も食欲もなくて」

 へー、タバコは吸えるけどご飯は食べられないんですね。
 タバコを嗜まない私には理解できない感覚だ。

「会議の資料、ちょっと俺の意図とずれてた。悪いけど後で説明しなおす」
「げ、マジっすか」

 思い切り歪んだ私の顔を見て、課長が吹き出した。

「マジ。悪いな」

 さすがに上司の前で口にする言葉じゃなかったなと反省したとき、不意にビル風が吹いた。バッグに雑にいれていまサランラップの塊がぽろりと落ちる。

「あ」
「おっと」

 2人して手を伸ばした。課長の胸元が目の前にくる。
 とたん、タバコの匂いとは違う香りが鼻に届いた。
 なんだろ、これ。甘い香り。今まで嗅いだことがない。
 甘いけど、花とか食べ物の香りじゃない。タバコの煙っぽさと混ざって大人っぽい……言うなら、セクシー……?

「はい」
「あっ。アリガトゴザイマス」
「なんだそのたどたどしい日本語」

 課長は奥二重の目を細めて、懐に伸ばしかけた手を止めた。

「……吸わないんですか」
「だって、タバコ、嫌いだろ」

 嫌いなやつの前で平気で吸うほど図太くないんでね。
 そう言って笑った顔は、なんというか、改めて見れば、整っていなくもない、ような気がする。

「じゃあまた後ほど」
「おう、よろしく」

 逃げるようにその場を離れる。鼓動がなんとなく浮ついている。
 一瞬嗅いだあの甘さを、もう一度確認したい。そう思っている自分に気づいて、わざと眉を寄せてみた。
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