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松田丹子(まつだにこ)

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Sabon

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「づがれだー」
「おかえり」

 デスクに向かったまま答える夫に、息も絶え絶えな私はゾンビのようにズルズルと近づく。

「疲れたからお風呂入って」
「なんだそれ。君が入るんじゃないの」

 夫がへらっと笑い、けれど事情はわかっているから「仕方ないなぁ」とか言いながら立ち上がった。

「まだ6時だよ」
「もう6時だよ」
「君は入らないの?」
「ご飯作って待ってる」
「でも僕、上がったらもう少し書くよ」

 執筆業がメインの夫はそう言って、上に着ていたニットを脱いだ。はずみに生っ白いお腹がチラ見え。

「あらセクシー」
「やめてよ」

 どちらからともなく照れ笑いして、一度解散。私はふんふん鼻歌を歌いながらキッチンへ向かう。
 何作ろうかなぁ。手の込んだものを作る気はないけど「おいしー」って言って食べたい。魚でも買ってくればよかったけど肉しかない。あっ、そういえば昨日解凍したけど気乗りしなかった鶏肉使わなきゃ。唐揚げ……は胃もたれしそう。蒸し鶏……鶏ハム……。
 料理は別に、好きでも嫌いでもない。誰かが準備してくれるなら、いつでも喜んでご相伴に預かりたい程度にはめんどくささも感じている。けどまあ、現実問題、誰かが食事を準備してくれるようなありがたい環境にはないわけで。
 リモート勤務なんて言葉が広がる前からオフィスと家が一緒くたの夫はいる。けれど、適材適所というかなんというか。放っておけば3食うどん、ラーメン、そば、作るおかずは野菜炒め……私の方が参ってしまって、外に働きに出ている私が帰ってきてからもう一働き、となるまでそう時間はかからなかった。

 ーーなんて考えているうちに、ガタゴトと音がして、ホカホカと立ち上る湯気が見えそうな夫、参上。

「ふぅー。気持ちよかっ」
「とぅりゃ!!」
「ぐぇっ!」

 タックルするくらいの勢いで、付き合い始めたころ私がプレゼントしたパジャマ(綿100%)越しに抱きつく。危うく包丁持ったまま行きかけたことは黙っておこう、きっと怖がらせてしまうから。

「ちょっ、勢い」
「疲れてるんだもん!」

 すんは、すんは、夫のパジャマ越しに息を吸う。

「すぅぅぅぅ~~~……すっはぁぁぁぁ……」

 しばらく深い深ぁい呼吸を繰り返していると、夫がなんとも言えない顔で私を見下ろしているのが見えた。

「……まだ?」
「もうちょい……」
「うーん……何度経験しても慣れないな……」
「もういい加減慣れてよ」

 すぅは、すぅは。
 風呂上がりの夫の匂いほど私を癒すものはない。同じシャンプーと同じ石鹸を使って洗いたて、同じ洗剤で洗濯した服を着ても、私の匂いは何かが決定的に違う。兄だってやっぱり違うから、たぶん夫の体臭が関係してるんだろう(汗かいた服はいい匂いとは思わないのが不思議だけど)

「来週の出張これなしで耐えられる気がしないぃぃ~」

 香水とかも探してみた。けどやっぱり違うのだ。100ml5万円の香水を並べても、やっすいシャンプーと石鹸で洗い立てた夫の匂いに勝る癒しはないのだ。
 恨みがましい目を向けた私に、夫は釘をさす。

「行かないよ。いくらパソコン一台あればできる仕事だからって、流石に出張への同伴は」
「ええええぇ~。いいじゃんよぉ、ついでに一緒に観光して帰ろうよぉ」
「行かない」
「うえぇぇん」

 インドア派だから泊まりがけの旅行もほとんどしない。ホテルのアメニティでいつもと違うシャンプーの香りに包まれた夫も非日常の香りで最の高なのに。
 ひとりでふぇふぇ言ってたら、頭にぽんと手が降ってきた。

「帰ってきたら、たっぷり吸わせてあげるから。がんばっておいで」

 ぽむぽむ、優しく頭を撫でられて。
 ぷーっと頬を膨らませた私は、肺が潰れそうなくらい息を吐き出すと、鼻先を夫の胸元にロックオン。
 最後に思い切り、魂を吸い出すくらいの勢いで、そのサボンの匂いを吸ってやった。

 ちなみにその後、夫は仕事に戻る気力がなくなったそうな。
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