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松田丹子(まつだにこ)

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Jasmine

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 三月がきた。もうすぐ、高校生活最後の一年が始まる。
 その前に、乗り越えなくてはいけない現実がある。

「先輩、東京の大学行くち、ほんとですか」

 久々に部活を覗きにきてくれた先輩たちを囲んでいる同級生の隙間をぬって、小さな声で訊ねると、先輩は奥二重の目を優しく細めた。
 何も言わない。それが答え。
 それだけで泣きそうになる。

「せんぱぁーい! なして東京行くとぉ? 寂しいですよぉ!」

 私たちの会話を聞いたわけでもないだろうけど、横から同級生が絡んできた。先輩はそのわちゃわちゃに溶け込んでいく。私はいつものようにそれを、てのひら一つ分隣で、見つめている。
 笑っている先輩を。心に焼き付けるように。

「大学も女子校いくとですか?」
「ううん、共学」
「えー、教室に男の子がいる生活って想像できんねぇ!」
「中高と、男子と会話する機会なかったっちゃもんねー」
「私らも追いかけて東京行くかね!」
「いいね。そん時には連絡してね」

 先輩は明るい声に柔らかく返して、私に視線を向けて、もう一段階深く、微笑む。
 いつだって、先輩は、私に何も言わない。
 けれど、私がどんなに小さい声で話しかけても、必ず応えてくれる。
 不意に泣きそうになって、慌てて目を逸らす。先輩の視線が少しの間私を見つめて、また他のメンバーの方に向くのがわかる。私と、先輩の距離。ただの部活の先輩と後輩。ただそれだけ。
 ただ、それだけ。

「ちょっと……トイレ」

 小さな宣言を残して、そそくさと教室を出る。みんなは私が出て行くことに気づかない。
 トイレから出てきて手を洗う。ハンカチ、と思って、カバンの中に忘れてきたことに気づく。しまったと思ったら、白い花が刺繍されたハンカチが目の前に差し出された。
 顔を見なくても、誰かわかる。

「まだ使っとらんから」
「……でも」
「返さんでいいけ」

 私は目を上げる。先輩の柔らかい目が私を見ている。唇が震えて、何か言おうとしたけど、出てきたのは震える息だけだった。
 黙ったまま、頭を下げて、ハンカチを受け取る。
 ふわ、と漂った香りは、先輩の匂いだ。
 少し爽やかだけど、甘くて、可憐で。
 手を拭くより前に鼻に持って行ったのは無意識だった。

「どした?」

 先輩の声に我に帰る。

「あ、あの。……先輩の匂い、するけ」

 顔が、今にも破裂しそうなほど赤くなっているのが、自分でも分かる。
 先輩は笑った。

「ジャスミン」

 私はまばたきする。

「ジャスミンの香りが好きなんよ。……あなたみたいやん」

 私?
 なんで、私みたい?
 こんなに、先輩にぴったりな香り、他にないのに。

 目を丸くしている私に、先輩はただ笑った。
 今まで見たことがない、ちょっと照れ臭そうな顔。
 私はまばたきしながら、またハンカチの香りを嗅いで……その、どこかのお姫様と同じ名前の花の匂いを、たぶんこれから先一生忘れないだろうなと思いながら、

「進学……おめでとうございます」

 泣いてしまいそうで言えなかった、ずっと言いたかった言葉を言って、頭を下げた。
 先輩はまた何も言わず、ただ静かに微笑み返してくれた。
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