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.4章 かめは本音をさらけ出す
..31 うさぎの本音
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互いを抱きしめたまま、泣いて、笑って、泣いて、泣いて、落ち着くと、穏やかな沈黙が部屋を満たした。
ゆっくり、ゆっくりと、早紀のさらさらな髪を撫でながら、思う。今ならきちんと、伝わる気がする。伝えられる、気がする。
ずっと、口にする勇気がなかったこと。――無責任に思われるんじゃないかと、傷つけてしまうんじゃないかと思って、怖くて口にできなかったこと。
早紀、と静かに名を呼ぶと、うん、と小さな声が答えた。
泣いたからか、自分の心音が大きく感じる。とくん、とくん、とくん……早紀からもそれを感じられる気がして、手をそっと、頬へ滑らせた。
早紀の黒い目が俺を見上げる。
じっと、互いの顔を――目を、見つめて。
俺はゆっくりと、口を開いた。
「もう……やめよう?」
とたん、早紀の顔が強ばった。そこに恐怖に似た感情が広がる。
何を、と言わずとも伝わったのは、その反応だけで分かった。慌てて、俺は首を横に振る。
「違うんだ。早紀が悪いわけじゃない。早紀のせいじゃない。俺の問題なんだ」
どっどっどっど、心臓が早鐘を打ち始めた。伝わる、と思った。今ならちゃんと伝わる、と。けれどそれは本当だろうか。俺の声は、俺の言葉は、ちゃんと届くだろうか。早紀の耳に、心に、届くだろうか。
「早紀は、よくがんばってくれた。ありがとう。俺のために――俺たちのために、がんばってくれて、ありがとう。ほんとに、ありがとう。でも、俺がもう、無理だ。無理なんだ。俺は、今の、今みたいな早紀を見ていられない」
伝えなくてはいけない。伝わらなくては、これで終わってしまう。足らなくてもいい、下手くそでもいい、とにかく俺が、俺の中にある言葉を総動員して、早紀に届けなくちゃいけない。ずっと逃げていたこと。ずっと避けていたこと。けど今こそ、ちゃんと向き合わないといけない。
「早紀ががんばってくれたのに――すげぇキツいの我慢して、これだけがんばってくれてたのに、こんな俺でごめん。弱くてごめん。支えられなくてごめん。応援できなくてごめん。でも俺、もう限界だよ。早紀の苦しさは分かってあげられないけど、早紀を見てると俺が苦しくて仕方ないんだ」
早紀は震える唇を、開いて、息を吐き出した。は……と吐息の漏れる間に、またしても目から涙が伝い落ちる。
あの日の、慟哭した夜の涙とは違う、静かな涙。
俺はその頭に手を伸ばし、胸の中に抱き寄せる。
「ごめん……早紀。早紀がどうしても欲しいと思ったものを、あげられなくてごめん。一緒に、最後まで、がんばれなくてごめん。でも……これからもずっと、今みたいに毎月泣いてる早紀を見続けるのは嫌だ。どれだけ待てばいいかも分からないその日までに、早紀が何度泣くことになるのか、考えるのも嫌だ」
伝われ。伝われ。全力で祈る。
この震えは、俺のだろうか。それとも、抱きしめた早紀の? 分からない。けど、それでもいい。いや、それでいい。俺は早紀で、早紀は俺で、それでいい。
そうなりたいと思って、俺は早紀と夫婦になった。
「早紀に、笑ってほしい。笑って……俺の隣に、いてほしい。今はなんだか……隣にいるのに隣にいなくて、早紀がどこか遠くて、俺の近くからいなくなりそうで……それが怖いよ。俺は早紀と一緒にいたくて、早紀と一緒に笑っていたくて、夫婦になったのに。それなのに、遠いんだ。それが寂しくて……怖い」
早紀は俺の胸に顔を押しつけ、泣いている。俺の頬に何かが伝った。涙。一度止まったはずのそれが、また頬を揺らして首筋へと落ちていく。
「早紀。……早紀。ごめんな……こんな夫で……頼りがいのない男で……ごめん」
ごめん、ごめんな。ごめん。
何度も何度も、そう伝える。俺でごめん。俺なんかでごめん。
ザッキーなら、こういうときにも、きっともっとうまく伝えられるんだろう。穏やかなあの空気で妻を包んで、こんなにたどたどしい言葉じゃなくて、相手の気持ちを聞き出しながら、上手に伝えられるんだろう。
でも、これが今の俺にできる精一杯だった。精一杯の告白だった。ぼろぼろ泣いて鼻水も出て、言葉も子どもじみててみっともないけど、これが俺の心からの言葉だ。
早紀はときどきしゃくりあげながら、静かに泣いていた。嗚咽を噛み殺す姿に、今まで繰り返してきた絶望の日を想う。俺の涙は、ますます止まらなくなる。
「もっと……泣いていいよ」
俺は早紀の頭をくしゃくしゃに撫でる。俺の方こそ、声が震えて嗚咽みたいだ。
「声なんて我慢するなよ。思いっきり泣いていいんだ。今日は……今までだって……これからも」
そうだ、俺の前では、我慢なんてしなくていいんだ。
文化祭の準備中、倒れた早紀を医務室に抱えて行ったことを思い出す。
あのとき俺は、何も考えてなくて……ただただ心配で、体調の悪さを伝えてもらえなかったことが悔しかったのだ。
けれど、体調不良の早紀に、自分の感情を押しつけるように怒鳴ってしまったことを、俺は結構、後悔していた。自己嫌悪に陥って、次に会うとき、早紀の顔をうまく見れなかった。
だけど早紀は、開口一番「ありがとう」と言った。
「本当に心配してくれてるんだなって、嬉しかった」
そう言った、はにかんだような早紀の笑顔。
まだ、二十歳にもならなかったあの日。
――ああ、そうか。
あのときから、俺はもう早紀のことを、特別な女の子だと思っていたんだ。
香子に鈍いと笑われたのを思い出して、苦笑する。他人の気持ちだけじゃない、自分の気持ちにも、俺はとにかく、鈍いのだ。
腕の中で、早紀が震えている。華奢な肩。押し殺すような声。ずっと守ろうと思っていた。守りたいと思っていた、大切な人。
――愛している。
不意にそんな言葉が脳裏をよぎって、胸に広がって、収まりきらなくなった。
俺はたまらず、早紀の華奢な身体を強く抱き締める。
強く。強く。――絶対に、離したりなんてするものか。
「愛してる、早紀」
早紀は俺の言葉を聞くや、ふ、と息を吐き出して、それが引き金になったかのように声をあげて泣き始めた。
ゆっくり、ゆっくりと、早紀のさらさらな髪を撫でながら、思う。今ならきちんと、伝わる気がする。伝えられる、気がする。
ずっと、口にする勇気がなかったこと。――無責任に思われるんじゃないかと、傷つけてしまうんじゃないかと思って、怖くて口にできなかったこと。
早紀、と静かに名を呼ぶと、うん、と小さな声が答えた。
泣いたからか、自分の心音が大きく感じる。とくん、とくん、とくん……早紀からもそれを感じられる気がして、手をそっと、頬へ滑らせた。
早紀の黒い目が俺を見上げる。
じっと、互いの顔を――目を、見つめて。
俺はゆっくりと、口を開いた。
「もう……やめよう?」
とたん、早紀の顔が強ばった。そこに恐怖に似た感情が広がる。
何を、と言わずとも伝わったのは、その反応だけで分かった。慌てて、俺は首を横に振る。
「違うんだ。早紀が悪いわけじゃない。早紀のせいじゃない。俺の問題なんだ」
どっどっどっど、心臓が早鐘を打ち始めた。伝わる、と思った。今ならちゃんと伝わる、と。けれどそれは本当だろうか。俺の声は、俺の言葉は、ちゃんと届くだろうか。早紀の耳に、心に、届くだろうか。
「早紀は、よくがんばってくれた。ありがとう。俺のために――俺たちのために、がんばってくれて、ありがとう。ほんとに、ありがとう。でも、俺がもう、無理だ。無理なんだ。俺は、今の、今みたいな早紀を見ていられない」
伝えなくてはいけない。伝わらなくては、これで終わってしまう。足らなくてもいい、下手くそでもいい、とにかく俺が、俺の中にある言葉を総動員して、早紀に届けなくちゃいけない。ずっと逃げていたこと。ずっと避けていたこと。けど今こそ、ちゃんと向き合わないといけない。
「早紀ががんばってくれたのに――すげぇキツいの我慢して、これだけがんばってくれてたのに、こんな俺でごめん。弱くてごめん。支えられなくてごめん。応援できなくてごめん。でも俺、もう限界だよ。早紀の苦しさは分かってあげられないけど、早紀を見てると俺が苦しくて仕方ないんだ」
早紀は震える唇を、開いて、息を吐き出した。は……と吐息の漏れる間に、またしても目から涙が伝い落ちる。
あの日の、慟哭した夜の涙とは違う、静かな涙。
俺はその頭に手を伸ばし、胸の中に抱き寄せる。
「ごめん……早紀。早紀がどうしても欲しいと思ったものを、あげられなくてごめん。一緒に、最後まで、がんばれなくてごめん。でも……これからもずっと、今みたいに毎月泣いてる早紀を見続けるのは嫌だ。どれだけ待てばいいかも分からないその日までに、早紀が何度泣くことになるのか、考えるのも嫌だ」
伝われ。伝われ。全力で祈る。
この震えは、俺のだろうか。それとも、抱きしめた早紀の? 分からない。けど、それでもいい。いや、それでいい。俺は早紀で、早紀は俺で、それでいい。
そうなりたいと思って、俺は早紀と夫婦になった。
「早紀に、笑ってほしい。笑って……俺の隣に、いてほしい。今はなんだか……隣にいるのに隣にいなくて、早紀がどこか遠くて、俺の近くからいなくなりそうで……それが怖いよ。俺は早紀と一緒にいたくて、早紀と一緒に笑っていたくて、夫婦になったのに。それなのに、遠いんだ。それが寂しくて……怖い」
早紀は俺の胸に顔を押しつけ、泣いている。俺の頬に何かが伝った。涙。一度止まったはずのそれが、また頬を揺らして首筋へと落ちていく。
「早紀。……早紀。ごめんな……こんな夫で……頼りがいのない男で……ごめん」
ごめん、ごめんな。ごめん。
何度も何度も、そう伝える。俺でごめん。俺なんかでごめん。
ザッキーなら、こういうときにも、きっともっとうまく伝えられるんだろう。穏やかなあの空気で妻を包んで、こんなにたどたどしい言葉じゃなくて、相手の気持ちを聞き出しながら、上手に伝えられるんだろう。
でも、これが今の俺にできる精一杯だった。精一杯の告白だった。ぼろぼろ泣いて鼻水も出て、言葉も子どもじみててみっともないけど、これが俺の心からの言葉だ。
早紀はときどきしゃくりあげながら、静かに泣いていた。嗚咽を噛み殺す姿に、今まで繰り返してきた絶望の日を想う。俺の涙は、ますます止まらなくなる。
「もっと……泣いていいよ」
俺は早紀の頭をくしゃくしゃに撫でる。俺の方こそ、声が震えて嗚咽みたいだ。
「声なんて我慢するなよ。思いっきり泣いていいんだ。今日は……今までだって……これからも」
そうだ、俺の前では、我慢なんてしなくていいんだ。
文化祭の準備中、倒れた早紀を医務室に抱えて行ったことを思い出す。
あのとき俺は、何も考えてなくて……ただただ心配で、体調の悪さを伝えてもらえなかったことが悔しかったのだ。
けれど、体調不良の早紀に、自分の感情を押しつけるように怒鳴ってしまったことを、俺は結構、後悔していた。自己嫌悪に陥って、次に会うとき、早紀の顔をうまく見れなかった。
だけど早紀は、開口一番「ありがとう」と言った。
「本当に心配してくれてるんだなって、嬉しかった」
そう言った、はにかんだような早紀の笑顔。
まだ、二十歳にもならなかったあの日。
――ああ、そうか。
あのときから、俺はもう早紀のことを、特別な女の子だと思っていたんだ。
香子に鈍いと笑われたのを思い出して、苦笑する。他人の気持ちだけじゃない、自分の気持ちにも、俺はとにかく、鈍いのだ。
腕の中で、早紀が震えている。華奢な肩。押し殺すような声。ずっと守ろうと思っていた。守りたいと思っていた、大切な人。
――愛している。
不意にそんな言葉が脳裏をよぎって、胸に広がって、収まりきらなくなった。
俺はたまらず、早紀の華奢な身体を強く抱き締める。
強く。強く。――絶対に、離したりなんてするものか。
「愛してる、早紀」
早紀は俺の言葉を聞くや、ふ、と息を吐き出して、それが引き金になったかのように声をあげて泣き始めた。
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