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.4章 かめは本音をさらけ出す
..30 繋がる心
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突然泣き出した俺に、義両親は驚いたようだった。廊下で泣き崩れる俺を部屋に押し入れるようにして、「少し外すから」と二人しておろおろしながら出て行く。
ああ妙な気を遣わせて悪いなと、思いながらも涙は止まらなかった。ハンカチもすぐに出て来なくて、スーツが汚れるのも構わず袖で拭く。「まって、あの」と慌てた早紀が、上体を起こして自分のカバンからハンカチを出してくれた。
「これ、予備の分だから。使ってないから」
目を上げたら、困ったような早紀がなんかちぐはぐなことを言う。それがあまりに早紀らしくて、たまらなくなって抱きしめてしまった。早紀の左腕に刺さっている点滴が揺れて、二人で「あっ」と声を出す。
「ご、ごめん。大丈夫だった?」
「大丈夫」
慌てて腕を確認すると、早紀が笑った。――笑った。昔みたいに。
それを見たら、また身体の奥からぐわーっていろんな気持ちがこみ上げた。流れる涙をそのまま、もう一度早紀を抱きしめる。
「幸弘くん、ハンカチ」
俺の胸の中でもごもご言う早紀からハンカチを受け取って、雑に顔を拭いて、もう一度抱きしめ直す。「幸弘くん?」と早紀は、戸惑ったように俺を呼んだ。俺はうんとうなずいて、けれどそれ以上何も言えなくて、二人でそのまま、静かに黙り込んでいた。
「……心配させちゃったね。ごめんね」
俺が落ち着いたと見た早紀が、もう一度そう言った。いや、いいんだ、と俺は首を振る。
心配するのが俺の役目なんだ。そう思ったけど、うまく伝わらない気がして言えなかった。
久々に、自分の意思で触れた早紀の身体は、思った以上に華奢だった。昔よりも痩せた気がする。もともとそうたくさん食べる方じゃなかったから、食が細くなったようには思えなかったけれど、倒れたくらいだし、調子がよくなかったのは確かだろう。
それでも――義務のように抱いた夜よりも、早紀は俺に身を任せてくれていた。その重みが心地よくて、愛おしくて、乱れた髪をゆっくり撫でる。
結婚した頃は黒くてつやつやしていた髪も、少しぱさつき始めている。そういえば、最近顔も手足もかさつくと、早紀がときどき言っていたような気がする。
結婚して、十年。二十五歳から三十五歳へ。歳を取った、と早紀は嫌がるけれど、それは別に恥ずかしがるような変化でも、気を病むような変化でもないと俺は思う。がんばって毎日を過ごし、年齢を重ねた結果としての変化だ。それならむしろ、誇らしく思ってもいいはずだ。
そういう、他の友人に言わせればクソポジティブな言葉を、俺は結婚してから何度、早紀にかけて来れただろう。口に出しているつもりで、ちゃんと言わなかったかもしれない。
早紀はなんとなく、分かってくれている気がしていたから。俺がどう思っているのか。何を考えているのか。それがただの甘えだと、最近まで気づきすらしなかった。
「早紀……」
撫でられるがままにしていた早紀が、腕の中でぴくんと震えた。臆病な子兎みたいだ。怖がらせないよう、その頭を撫でながら、静かに、静かに言葉を続ける。
「俺と一緒になってくれて、ありがとう」
心からの言葉だった。心からの想いだった。結婚して、十年も経つ。今さらこんなこと、何で言う必要があるんだろう。いや、今だから言う必要があるんだ。俺の腕の中で、じっと息を潜めている早紀に、届ける言葉を自分の中に探す。
「こないだの週末、ザッキーと会ったって言ったとき……香子とも会った」
俺の腕の中で、早紀が動揺するのが分かった。落ち着かせるよう、背を撫でる。
「結婚前、お前、香子に言ったんだって? ……俺と一緒にいたいって」
早紀が息を詰め、動きを止める。大丈夫。大丈夫だから。華奢な肩に手を回し、ゆっくりと包み込む。
早紀は身を震わせた。震えながら、こくりとうなずく。肩に額が押しつけられるような感覚があって、湿度の高い吐息が首筋に届く。その頭を、優しく抱き寄せた。
早紀はますます震えて、吐息に不規則な嗚咽が混ざった。貸してくれたハンカチの代わりに、俺は肩でそれを受け止める。
「スーツ……汚れちゃう」
嗚咽の合間に、早紀が言った。「どうせもう汚れてるよ」と笑う。
「でも……しみ、なっちゃう」
「いいって、そんなの」
「でも……」
ああ、まただ。気になりだしたら、融通が利かない。そんな早紀を、久々に愛おしく思えた。笑いながら、後ろ頭をホールドして、顔をジャケットに押しつけてやる。
「じゃあ、逆にこのスーツは洗わず取っとくことにしよう」
「……なんで?」
予想外の提案だったのだろう。身体の力の抜けた早紀は、腫れぼったくなった目できょとんと俺を見上げた。
何の遠慮も気遣いもない、まっすぐに俺を見る目。久々に合う視線が、叫び出したくなるくらい嬉しい。
「早紀が久しぶりに、俺に素を見せてくれた記念」
言った声も、我ながらちょっと満足げだった。早紀が数度まばたきをして、困ったように眉尻を下げる。かと思うと、ふっと噴き出した。
「なぁに、それ……変なの」
困ったように笑った、その笑う顔が、また徐々に涙でにじむ。ああ、ようやく繋がった。すっかり隔たっていた心が、俺と早紀の気持ちが、またあったかい何かで繋がった。
それが嬉しくて、たまらなくて、俺と早紀は笑いながら泣いて、泣きながら笑っていた。
ああ妙な気を遣わせて悪いなと、思いながらも涙は止まらなかった。ハンカチもすぐに出て来なくて、スーツが汚れるのも構わず袖で拭く。「まって、あの」と慌てた早紀が、上体を起こして自分のカバンからハンカチを出してくれた。
「これ、予備の分だから。使ってないから」
目を上げたら、困ったような早紀がなんかちぐはぐなことを言う。それがあまりに早紀らしくて、たまらなくなって抱きしめてしまった。早紀の左腕に刺さっている点滴が揺れて、二人で「あっ」と声を出す。
「ご、ごめん。大丈夫だった?」
「大丈夫」
慌てて腕を確認すると、早紀が笑った。――笑った。昔みたいに。
それを見たら、また身体の奥からぐわーっていろんな気持ちがこみ上げた。流れる涙をそのまま、もう一度早紀を抱きしめる。
「幸弘くん、ハンカチ」
俺の胸の中でもごもご言う早紀からハンカチを受け取って、雑に顔を拭いて、もう一度抱きしめ直す。「幸弘くん?」と早紀は、戸惑ったように俺を呼んだ。俺はうんとうなずいて、けれどそれ以上何も言えなくて、二人でそのまま、静かに黙り込んでいた。
「……心配させちゃったね。ごめんね」
俺が落ち着いたと見た早紀が、もう一度そう言った。いや、いいんだ、と俺は首を振る。
心配するのが俺の役目なんだ。そう思ったけど、うまく伝わらない気がして言えなかった。
久々に、自分の意思で触れた早紀の身体は、思った以上に華奢だった。昔よりも痩せた気がする。もともとそうたくさん食べる方じゃなかったから、食が細くなったようには思えなかったけれど、倒れたくらいだし、調子がよくなかったのは確かだろう。
それでも――義務のように抱いた夜よりも、早紀は俺に身を任せてくれていた。その重みが心地よくて、愛おしくて、乱れた髪をゆっくり撫でる。
結婚した頃は黒くてつやつやしていた髪も、少しぱさつき始めている。そういえば、最近顔も手足もかさつくと、早紀がときどき言っていたような気がする。
結婚して、十年。二十五歳から三十五歳へ。歳を取った、と早紀は嫌がるけれど、それは別に恥ずかしがるような変化でも、気を病むような変化でもないと俺は思う。がんばって毎日を過ごし、年齢を重ねた結果としての変化だ。それならむしろ、誇らしく思ってもいいはずだ。
そういう、他の友人に言わせればクソポジティブな言葉を、俺は結婚してから何度、早紀にかけて来れただろう。口に出しているつもりで、ちゃんと言わなかったかもしれない。
早紀はなんとなく、分かってくれている気がしていたから。俺がどう思っているのか。何を考えているのか。それがただの甘えだと、最近まで気づきすらしなかった。
「早紀……」
撫でられるがままにしていた早紀が、腕の中でぴくんと震えた。臆病な子兎みたいだ。怖がらせないよう、その頭を撫でながら、静かに、静かに言葉を続ける。
「俺と一緒になってくれて、ありがとう」
心からの言葉だった。心からの想いだった。結婚して、十年も経つ。今さらこんなこと、何で言う必要があるんだろう。いや、今だから言う必要があるんだ。俺の腕の中で、じっと息を潜めている早紀に、届ける言葉を自分の中に探す。
「こないだの週末、ザッキーと会ったって言ったとき……香子とも会った」
俺の腕の中で、早紀が動揺するのが分かった。落ち着かせるよう、背を撫でる。
「結婚前、お前、香子に言ったんだって? ……俺と一緒にいたいって」
早紀が息を詰め、動きを止める。大丈夫。大丈夫だから。華奢な肩に手を回し、ゆっくりと包み込む。
早紀は身を震わせた。震えながら、こくりとうなずく。肩に額が押しつけられるような感覚があって、湿度の高い吐息が首筋に届く。その頭を、優しく抱き寄せた。
早紀はますます震えて、吐息に不規則な嗚咽が混ざった。貸してくれたハンカチの代わりに、俺は肩でそれを受け止める。
「スーツ……汚れちゃう」
嗚咽の合間に、早紀が言った。「どうせもう汚れてるよ」と笑う。
「でも……しみ、なっちゃう」
「いいって、そんなの」
「でも……」
ああ、まただ。気になりだしたら、融通が利かない。そんな早紀を、久々に愛おしく思えた。笑いながら、後ろ頭をホールドして、顔をジャケットに押しつけてやる。
「じゃあ、逆にこのスーツは洗わず取っとくことにしよう」
「……なんで?」
予想外の提案だったのだろう。身体の力の抜けた早紀は、腫れぼったくなった目できょとんと俺を見上げた。
何の遠慮も気遣いもない、まっすぐに俺を見る目。久々に合う視線が、叫び出したくなるくらい嬉しい。
「早紀が久しぶりに、俺に素を見せてくれた記念」
言った声も、我ながらちょっと満足げだった。早紀が数度まばたきをして、困ったように眉尻を下げる。かと思うと、ふっと噴き出した。
「なぁに、それ……変なの」
困ったように笑った、その笑う顔が、また徐々に涙でにじむ。ああ、ようやく繋がった。すっかり隔たっていた心が、俺と早紀の気持ちが、またあったかい何かで繋がった。
それが嬉しくて、たまらなくて、俺と早紀は笑いながら泣いて、泣きながら笑っていた。
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