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.4章 かめは本音をさらけ出す
..29 心配
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早紀が倒れたという連絡は、仕事終わりに義母から受けた。
職場で倒れ、近くの総合病院に運ばれたという。
診断は不眠による立ちくらみだそうだ。頭を打って一時意識を失ったが、脳には異常ない――そんな検査結果を、電話の向こうで義母が説明してくれた。
救急車で搬送されるとき、職場の同僚がひとり、同乗してくれたそうだ。途中で意識を取り戻し、誰に連絡するか聞かれた早紀は、実家に、と答えた。
早紀の職場は都内の北方にある。結婚前は埼玉の実家から通っていたくらいだ。義両親にとっても駆けつけやすい場所で、夫の俺より先に連絡を受け、俺より先に病院に着いて、早紀の容態を確認していた。
「ごめんなさいね」
病院に駆けつけた俺を見つけるなり、義母は早紀に似た困ったような顔をした。
「幸弘くんが心配するだろうから、早く連絡した方がいいって言ったんだけど……命に別状ないんだし、どうせ心配かけるなら、仕事が終わってからでいいって聞かなくて」
俺より早く連絡を受けたとはいえ、義両親の到着は諸々の検査が終わった後だったそうだ。結果待ちのときには早紀も意識を取り戻していて、俺へ連絡をしようと言う義両親を押しとどめ、連絡は結果結果が全部出てから、と引かなかったらしい。
早紀にそういう頑固なところがあることは、俺も知っている。
駅から徒歩十五分の病院までの道のりを、ビジネスバッグ片手にほとんど全力疾走してきた俺は息が荒くて、答えるにも声が出なかった。
義父が義母の横で難しい顔をしている。
「すまないね、忙しいところ呼びたてて……」
「いえ……」
その一言だけ、どうにか、口から出た。喉に息が絡まって咽せる俺の背中を、慌てた様子で義母がさする。
早紀よりも華奢なその手に妙な居心地の悪さを覚えて、大丈夫ですとレクチャーで示すと、義母は「お茶買って来る」とその場を離れた。
義父との間を、俺の荒い呼吸音だけが行き来している。もう診察時間外になっているから、俺たちの他に行き来するのは、看護師や入院患者らしい人くらいなものだ。
それを視界の片隅に眺めていたら、義父が軽く咳払いをした。
「今日は……念のため入院してもいいし、自宅に帰ってもいいそうだ。どうするか、早紀と話して決めるといい。必要なら、タクシーも呼んでくれるらしいから」
「ありがとう……ございます」
義父にそう答えて、喉のいがらっぽさに咳払いした。陸上をしていた頃なら何でもなかったはずの一キロが、こんなにも呼吸器に来るなんて思わなかった。
「幸弘くん、これ」
ペットボトルを手に戻って来た義母が、お茶を一本渡してくれた。お礼を言って受け取り、その場で数口飲み干す。義父も一本を受け取って口をつけた。口を離すと、どちらからともなくふぅと息をつく。
「……とにかく、大事にいたらなくてよかった」
「……はい」
義父にそのつもりはないのだろうけど、その呟きに、自分の責任を感じた。
もっと早紀の体調に気を配れなかったのか、俺が何かしてあげられたんじゃないか――そんな後悔が、脳裏に浮かんでは消える。
「とにかく、早紀のところに行きましょう。入院の件は……お父さんから聞いた?」
「はい、聞きました。……早紀はなんて?」
「考えておくって言ってたけど、幸弘くんが着いたら決めるって……あの子ってば相変わらずね。自分では何も決められないんだから」
何気ない義母の言葉が、妙に心に引っかかる。
自分では何も決められない――早紀が? 本当に、そうなんだろうか。
早紀が自分で何も決められないんなら、今みたいに俺と妙な緊張関係になっただろうか。
むしろ、早紀は決めてるんだ。いつも。何かを決めてる。それが、ときどきは他人の希望通りにするっていうことだったり、他人を喜ばせるってことだったりすることもあるけど、早紀の中での答えは明確なのだ。
だけどそれを、早紀はきっと自覚してない。だから、困る。ときどきとてつもなく頑固で、意固地で――話を聞いてくれなくて、困る。
けど。
――そういうところも含めて、早紀だ。
そういう子だってことは、大学にいた頃から、俺なりに知ってた。柔軟なタイプじゃない。早紀は不器用で、頑固で、融通が利かない。ひとつのことを、一度こうと思ったら修正をするまでに時間がかかる。一度決めたことは揺らがせちゃいけないって、どこかでそう思ってる。――でも、そうじゃなくてもいいんだよって、俺が伝えてあげたいと思ってた。そして、そういう不器用なところ、かわいくて、俺は好きだよって伝えたかった。
伝えてた、つもりだった。――なのに、知らないうちに俺すら忘れてた。
早紀の両親を先導に、病院の廊下を進んでいく。
床には、赤や青や黄色のビニールテープで線が引いてあった。外来の案内に使うんだろう。その線が全て途切れた、真っ白い床の上で義両親が立ち止まる。診察室の並びの端にある、名前も書いていない部屋。
義父がノックをする。小さい声が中から答えた。引き戸が開く。がら、と予想より大きな音がして、ベッドと、白い寝具が見えた。
そこに、早紀が寝ていた。真っ白の中に、頭だけがぽかんと埋もれている。
優しい形の黒い目は、両親ではなくまっすぐに俺を見ていた。
「……幸弘くん」
ごめんね、と続く早紀の声を聞くより先に、俺は思わず、口を押さえてその場に膝をついた。
職場で倒れ、近くの総合病院に運ばれたという。
診断は不眠による立ちくらみだそうだ。頭を打って一時意識を失ったが、脳には異常ない――そんな検査結果を、電話の向こうで義母が説明してくれた。
救急車で搬送されるとき、職場の同僚がひとり、同乗してくれたそうだ。途中で意識を取り戻し、誰に連絡するか聞かれた早紀は、実家に、と答えた。
早紀の職場は都内の北方にある。結婚前は埼玉の実家から通っていたくらいだ。義両親にとっても駆けつけやすい場所で、夫の俺より先に連絡を受け、俺より先に病院に着いて、早紀の容態を確認していた。
「ごめんなさいね」
病院に駆けつけた俺を見つけるなり、義母は早紀に似た困ったような顔をした。
「幸弘くんが心配するだろうから、早く連絡した方がいいって言ったんだけど……命に別状ないんだし、どうせ心配かけるなら、仕事が終わってからでいいって聞かなくて」
俺より早く連絡を受けたとはいえ、義両親の到着は諸々の検査が終わった後だったそうだ。結果待ちのときには早紀も意識を取り戻していて、俺へ連絡をしようと言う義両親を押しとどめ、連絡は結果結果が全部出てから、と引かなかったらしい。
早紀にそういう頑固なところがあることは、俺も知っている。
駅から徒歩十五分の病院までの道のりを、ビジネスバッグ片手にほとんど全力疾走してきた俺は息が荒くて、答えるにも声が出なかった。
義父が義母の横で難しい顔をしている。
「すまないね、忙しいところ呼びたてて……」
「いえ……」
その一言だけ、どうにか、口から出た。喉に息が絡まって咽せる俺の背中を、慌てた様子で義母がさする。
早紀よりも華奢なその手に妙な居心地の悪さを覚えて、大丈夫ですとレクチャーで示すと、義母は「お茶買って来る」とその場を離れた。
義父との間を、俺の荒い呼吸音だけが行き来している。もう診察時間外になっているから、俺たちの他に行き来するのは、看護師や入院患者らしい人くらいなものだ。
それを視界の片隅に眺めていたら、義父が軽く咳払いをした。
「今日は……念のため入院してもいいし、自宅に帰ってもいいそうだ。どうするか、早紀と話して決めるといい。必要なら、タクシーも呼んでくれるらしいから」
「ありがとう……ございます」
義父にそう答えて、喉のいがらっぽさに咳払いした。陸上をしていた頃なら何でもなかったはずの一キロが、こんなにも呼吸器に来るなんて思わなかった。
「幸弘くん、これ」
ペットボトルを手に戻って来た義母が、お茶を一本渡してくれた。お礼を言って受け取り、その場で数口飲み干す。義父も一本を受け取って口をつけた。口を離すと、どちらからともなくふぅと息をつく。
「……とにかく、大事にいたらなくてよかった」
「……はい」
義父にそのつもりはないのだろうけど、その呟きに、自分の責任を感じた。
もっと早紀の体調に気を配れなかったのか、俺が何かしてあげられたんじゃないか――そんな後悔が、脳裏に浮かんでは消える。
「とにかく、早紀のところに行きましょう。入院の件は……お父さんから聞いた?」
「はい、聞きました。……早紀はなんて?」
「考えておくって言ってたけど、幸弘くんが着いたら決めるって……あの子ってば相変わらずね。自分では何も決められないんだから」
何気ない義母の言葉が、妙に心に引っかかる。
自分では何も決められない――早紀が? 本当に、そうなんだろうか。
早紀が自分で何も決められないんなら、今みたいに俺と妙な緊張関係になっただろうか。
むしろ、早紀は決めてるんだ。いつも。何かを決めてる。それが、ときどきは他人の希望通りにするっていうことだったり、他人を喜ばせるってことだったりすることもあるけど、早紀の中での答えは明確なのだ。
だけどそれを、早紀はきっと自覚してない。だから、困る。ときどきとてつもなく頑固で、意固地で――話を聞いてくれなくて、困る。
けど。
――そういうところも含めて、早紀だ。
そういう子だってことは、大学にいた頃から、俺なりに知ってた。柔軟なタイプじゃない。早紀は不器用で、頑固で、融通が利かない。ひとつのことを、一度こうと思ったら修正をするまでに時間がかかる。一度決めたことは揺らがせちゃいけないって、どこかでそう思ってる。――でも、そうじゃなくてもいいんだよって、俺が伝えてあげたいと思ってた。そして、そういう不器用なところ、かわいくて、俺は好きだよって伝えたかった。
伝えてた、つもりだった。――なのに、知らないうちに俺すら忘れてた。
早紀の両親を先導に、病院の廊下を進んでいく。
床には、赤や青や黄色のビニールテープで線が引いてあった。外来の案内に使うんだろう。その線が全て途切れた、真っ白い床の上で義両親が立ち止まる。診察室の並びの端にある、名前も書いていない部屋。
義父がノックをする。小さい声が中から答えた。引き戸が開く。がら、と予想より大きな音がして、ベッドと、白い寝具が見えた。
そこに、早紀が寝ていた。真っ白の中に、頭だけがぽかんと埋もれている。
優しい形の黒い目は、両親ではなくまっすぐに俺を見ていた。
「……幸弘くん」
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