うさぎはかめの夢を見る

松丹子

文字の大きさ
29 / 39
.4章 かめは本音をさらけ出す

..29 心配

しおりを挟む
 早紀が倒れたという連絡は、仕事終わりに義母から受けた。
 職場で倒れ、近くの総合病院に運ばれたという。
 診断は不眠による立ちくらみだそうだ。頭を打って一時意識を失ったが、脳には異常ない――そんな検査結果を、電話の向こうで義母が説明してくれた。
 救急車で搬送されるとき、職場の同僚がひとり、同乗してくれたそうだ。途中で意識を取り戻し、誰に連絡するか聞かれた早紀は、実家に、と答えた。
 早紀の職場は都内の北方にある。結婚前は埼玉の実家から通っていたくらいだ。義両親にとっても駆けつけやすい場所で、夫の俺より先に連絡を受け、俺より先に病院に着いて、早紀の容態を確認していた。

「ごめんなさいね」

 病院に駆けつけた俺を見つけるなり、義母は早紀に似た困ったような顔をした。

「幸弘くんが心配するだろうから、早く連絡した方がいいって言ったんだけど……命に別状ないんだし、どうせ心配かけるなら、仕事が終わってからでいいって聞かなくて」

 俺より早く連絡を受けたとはいえ、義両親の到着は諸々の検査が終わった後だったそうだ。結果待ちのときには早紀も意識を取り戻していて、俺へ連絡をしようと言う義両親を押しとどめ、連絡は結果結果が全部出てから、と引かなかったらしい。
 早紀にそういう頑固なところがあることは、俺も知っている。
 駅から徒歩十五分の病院までの道のりを、ビジネスバッグ片手にほとんど全力疾走してきた俺は息が荒くて、答えるにも声が出なかった。
 義父が義母の横で難しい顔をしている。

「すまないね、忙しいところ呼びたてて……」
「いえ……」

 その一言だけ、どうにか、口から出た。喉に息が絡まって咽せる俺の背中を、慌てた様子で義母がさする。
 早紀よりも華奢なその手に妙な居心地の悪さを覚えて、大丈夫ですとレクチャーで示すと、義母は「お茶買って来る」とその場を離れた。
 義父との間を、俺の荒い呼吸音だけが行き来している。もう診察時間外になっているから、俺たちの他に行き来するのは、看護師や入院患者らしい人くらいなものだ。
 それを視界の片隅に眺めていたら、義父が軽く咳払いをした。

「今日は……念のため入院してもいいし、自宅に帰ってもいいそうだ。どうするか、早紀と話して決めるといい。必要なら、タクシーも呼んでくれるらしいから」
「ありがとう……ございます」

 義父にそう答えて、喉のいがらっぽさに咳払いした。陸上をしていた頃なら何でもなかったはずの一キロが、こんなにも呼吸器に来るなんて思わなかった。

「幸弘くん、これ」

 ペットボトルを手に戻って来た義母が、お茶を一本渡してくれた。お礼を言って受け取り、その場で数口飲み干す。義父も一本を受け取って口をつけた。口を離すと、どちらからともなくふぅと息をつく。

「……とにかく、大事にいたらなくてよかった」
「……はい」

 義父にそのつもりはないのだろうけど、その呟きに、自分の責任を感じた。
 もっと早紀の体調に気を配れなかったのか、俺が何かしてあげられたんじゃないか――そんな後悔が、脳裏に浮かんでは消える。

「とにかく、早紀のところに行きましょう。入院の件は……お父さんから聞いた?」
「はい、聞きました。……早紀はなんて?」
「考えておくって言ってたけど、幸弘くんが着いたら決めるって……あの子ってば相変わらずね。自分では何も決められないんだから」

 何気ない義母の言葉が、妙に心に引っかかる。
 自分では何も決められない――早紀が? 本当に、そうなんだろうか。
 早紀が自分で何も決められないんなら、今みたいに俺と妙な緊張関係になっただろうか。
 むしろ、早紀は決めてるんだ。いつも。何かを決めてる。それが、ときどきは他人の希望通りにするっていうことだったり、他人を喜ばせるってことだったりすることもあるけど、早紀の中での答えは明確なのだ。
 だけどそれを、早紀はきっと自覚してない。だから、困る。ときどきとてつもなく頑固で、意固地で――話を聞いてくれなくて、困る。
 けど。
 ――そういうところも含めて、早紀だ。
 そういう子だってことは、大学にいた頃から、俺なりに知ってた。柔軟なタイプじゃない。早紀は不器用で、頑固で、融通が利かない。ひとつのことを、一度こうと思ったら修正をするまでに時間がかかる。一度決めたことは揺らがせちゃいけないって、どこかでそう思ってる。――でも、そうじゃなくてもいいんだよって、俺が伝えてあげたいと思ってた。そして、そういう不器用なところ、かわいくて、俺は好きだよって伝えたかった。
 伝えてた、つもりだった。――なのに、知らないうちに俺すら忘れてた。
 早紀の両親を先導に、病院の廊下を進んでいく。
 床には、赤や青や黄色のビニールテープで線が引いてあった。外来の案内に使うんだろう。その線が全て途切れた、真っ白い床の上で義両親が立ち止まる。診察室の並びの端にある、名前も書いていない部屋。
 義父がノックをする。小さい声が中から答えた。引き戸が開く。がら、と予想より大きな音がして、ベッドと、白い寝具が見えた。
 そこに、早紀が寝ていた。真っ白の中に、頭だけがぽかんと埋もれている。
 優しい形の黒い目は、両親ではなくまっすぐに俺を見ていた。

「……幸弘くん」

 ごめんね、と続く早紀の声を聞くより先に、俺は思わず、口を押さえてその場に膝をついた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。 どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。 だけど…何故か気になってしまう。 気がつくと、彼女の姿を目で追っている。 *** 社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。 爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。 そして、華やかな噂。 あまり得意なタイプではない。 どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。

シンデレラは王子様と離婚することになりました。

及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・ なりませんでした!! 【現代版 シンデレラストーリー】 貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。 はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。 しかしながら、その実態は? 離婚前提の結婚生活。 果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。

【完結】指先が触れる距離

山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。 必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。 「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。 手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。 近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

処理中です...