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.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..15 流水
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その夜、帰宅した早紀は青白い顔をしていた。「どうしたの」と聞いても、「別に、なんでもないよ」と言うだけだ。
首をかしげながらも、俺が作った煮崩れた肉じゃがと、しょっぱい味噌汁を一緒に食べた。早紀の食はあいかわらず細くて、ほとんど食べたように見えなかったけれど、それは今に始まったことじゃない。観察していたけど、これといって変なところを指摘できないまま、風呂に入ると言う早紀を見送った。
夕飯の食器を下げ終えた後、トイレに行くかと廊下に出たところで、風呂に向かったはずの早紀を見つけた。
「早紀?」
俺がドアを開けた音に気づいていなかったのだろう。早紀はびくりと身体を震わせた。振り向いた顔はやっぱり蒼白で、乾燥しきった唇から浅い呼吸が漏れている。
「どうした?」
「……なんでも」
ないの、と早紀はうつむいた。その手は、やたらと強い力でトイレのドアノブを握っている。まるで手が張り付いてしまっているみたいだ。
困惑して、トイレの中と早紀の横顔を見比べた。
「……俺、トイレ行きたいんだけど」
「あっ……」
早紀ははっと顔を上げて、俺を見、トイレを見た。その目が何か、すがるような、切ないような色を帯びている。
いったい、なんだ?
トイレの前で夫婦が話している、というこの滑稽な状況に、その表情はふつりあいすぎるけれど、茶化す気にはなれない。
「……入って、いい?」
おずおずと聞いてみたら、早紀は息を飲み、ゆっくりと、息を吐き出しながら顔を作った。
いつもの――笑ってない微笑み。
「……うん。ごめん」
口先では「どうぞ」と言いながらも、早紀はドアから手を離さない。ドアノブを握ったままの手を見やると、早紀はいつもと似つかわしくないほど強い声音で「あの」と言った。
「悪いんだけど、一度、そのまま、流してくれる? そのまま……フタ、開けないで。そのまま、流してね。お願い」
「……? うん」
訳が分からないままにうなずく。俺が納得していないように見えたのだろう、早紀は思い直したようにトイレに戻りかけたけれど、「分かったから。ちゃんと流すよ」と制すると立ち止まった。
「……じゃあ、絶対、フタ開けずに、そのまま流してね」
「分かった」
いったい何なんだろう。思いながらもトイレに入る。早紀の視線を感じながらドアを閉じると、言われたとおり真っ先に排水のボタンを押した。
じゃー、と水の音がたつ。ドアの向こうで、早紀がトイレの前から離れる音がした。俺がちゃんと水を流すか、確認していたんだろう。
俺はもう一度、首を傾げる。
トイレに何か、大事なものでも落としたんだろうか。
少なくとも、俺に見られたくないものであることは確かだ。
昔読んだ推理小説を思い出した。夫を殺そうと手に入れたヒ素をトイレに流す妻。こんな女、ほんとにいたら怖いなと思ったけれど、あながちただのフィクションではないかもしれない。
早紀がトイレに流した、俺に見られたくないもの。俺へ飲ませようとした毒。俺を殺すための何か。
妙な妄想をしていたから、便座のフタを開けるときちょっと緊張した。馬鹿げた妄想だと自覚しているのに、中に何か、恐ろしいものの跡があるんじゃないかと身構える。
けれど、そこには何もなかった。透明な水が、必要なだけ底に沈んでいる。早紀が流した何かを、俺に見られたくなかった何かを、俺は見ずに済んだ。
拍子抜けした反面、二重の意味でほっとした。早紀が隠したいものを暴かずに済んだという安堵と、見たくないものを見ずに済んだという安堵。
見たくないもの。
どうして、見たくないんだろう、と用を足しながらぼんやり考えた。
早紀は見ているもの。俺が見ていないもの。
……早紀は何を、俺に流させたんだろう。
不思議に思っても、それを聞く気は、俺にはなかった。見ないでくれと言うものを、あえて暴くような趣味はない。
それがただ、意気地無しなだけだとしても。
首をかしげながらも、俺が作った煮崩れた肉じゃがと、しょっぱい味噌汁を一緒に食べた。早紀の食はあいかわらず細くて、ほとんど食べたように見えなかったけれど、それは今に始まったことじゃない。観察していたけど、これといって変なところを指摘できないまま、風呂に入ると言う早紀を見送った。
夕飯の食器を下げ終えた後、トイレに行くかと廊下に出たところで、風呂に向かったはずの早紀を見つけた。
「早紀?」
俺がドアを開けた音に気づいていなかったのだろう。早紀はびくりと身体を震わせた。振り向いた顔はやっぱり蒼白で、乾燥しきった唇から浅い呼吸が漏れている。
「どうした?」
「……なんでも」
ないの、と早紀はうつむいた。その手は、やたらと強い力でトイレのドアノブを握っている。まるで手が張り付いてしまっているみたいだ。
困惑して、トイレの中と早紀の横顔を見比べた。
「……俺、トイレ行きたいんだけど」
「あっ……」
早紀ははっと顔を上げて、俺を見、トイレを見た。その目が何か、すがるような、切ないような色を帯びている。
いったい、なんだ?
トイレの前で夫婦が話している、というこの滑稽な状況に、その表情はふつりあいすぎるけれど、茶化す気にはなれない。
「……入って、いい?」
おずおずと聞いてみたら、早紀は息を飲み、ゆっくりと、息を吐き出しながら顔を作った。
いつもの――笑ってない微笑み。
「……うん。ごめん」
口先では「どうぞ」と言いながらも、早紀はドアから手を離さない。ドアノブを握ったままの手を見やると、早紀はいつもと似つかわしくないほど強い声音で「あの」と言った。
「悪いんだけど、一度、そのまま、流してくれる? そのまま……フタ、開けないで。そのまま、流してね。お願い」
「……? うん」
訳が分からないままにうなずく。俺が納得していないように見えたのだろう、早紀は思い直したようにトイレに戻りかけたけれど、「分かったから。ちゃんと流すよ」と制すると立ち止まった。
「……じゃあ、絶対、フタ開けずに、そのまま流してね」
「分かった」
いったい何なんだろう。思いながらもトイレに入る。早紀の視線を感じながらドアを閉じると、言われたとおり真っ先に排水のボタンを押した。
じゃー、と水の音がたつ。ドアの向こうで、早紀がトイレの前から離れる音がした。俺がちゃんと水を流すか、確認していたんだろう。
俺はもう一度、首を傾げる。
トイレに何か、大事なものでも落としたんだろうか。
少なくとも、俺に見られたくないものであることは確かだ。
昔読んだ推理小説を思い出した。夫を殺そうと手に入れたヒ素をトイレに流す妻。こんな女、ほんとにいたら怖いなと思ったけれど、あながちただのフィクションではないかもしれない。
早紀がトイレに流した、俺に見られたくないもの。俺へ飲ませようとした毒。俺を殺すための何か。
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けれど、そこには何もなかった。透明な水が、必要なだけ底に沈んでいる。早紀が流した何かを、俺に見られたくなかった何かを、俺は見ずに済んだ。
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見たくないもの。
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……早紀は何を、俺に流させたんだろう。
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それがただ、意気地無しなだけだとしても。
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