16 / 39
.2章 かめは甲羅に閉じこもる
..16 主体性
しおりを挟む
それから二週間ほどした頃だった。外気はもう夏を忘れ始め、公園のイチョウが少しずつ色づき始めている。
朝、鏡の前でネクタイを結んでいると、早紀はゆっくり、近づいてきた。
「幸弘くん……今日」
「ああ、うん。早く帰る」
いつものことだと、あえて目を合わせずに答えた。早紀が俺を求めるのは、種が必要なとき。そう決まっている。聞かずともそう思っていた。けれど。
「違うの」
早紀は珍しく、はっきりそう言った。珍しく強い声音に、鏡から顔を外し、頭ひとつ下にある早紀の顔を見下ろす。
蝋人形のように血の気を失った早紀の顔の中で、丸い目はギラギラと、やたらと強く輝いて俺を捉えていた。
「違うの。……話、したいの。……ステップアップの件」
低い、低い声で告げられた最後の言葉に、俺はネクタイを力一杯締め上げられたような息苦しさに襲われた。
結ぶ途中だったネクタイを、あえて、緩いままに留める。「ああ……」と言葉を探して目を泳がせて、鏡の中のネクタイを見つめた。
「……もうちょっと、考えさせてくんない?」
答えながら、そこに映る自分の手が震えていないことを確認していた。見栄えは悪くないように、けれど喉は締め付けないように、ネクタイを整える。こう言えば、早紀は食い下がらない。そう思ったのに、
「あったよね?」
その鋭い声がどこから聞こえたのか、一瞬分からなかった。この家には俺と早紀しかいない。それなのに、まるで香子みたいに強い、はっきりした意思を孕んだ声がした。
俺よりも高い声。女の声。女の――
この家にいるのは、早紀だけだ。
ごくり、と喉が鳴った。
怯む内心を押し隠し、早紀を見下ろす。早紀はじっと、俺を見上げていた。その目が、まるで俺を飲み込もうとしているように大きく見える。確かに、早紀の目は元々、くるりと丸い。けれど、こんなに、くっきりしていなかったはずだ。
ぞわっ、と、悪寒が背中を抜けた。
「考える時間、あったよね? だって最初に話したの、もう一ヶ月前だよ。あれから……もう、一回分、卵子、流れちゃったんだよ。もしかしたら、赤ちゃんになれてたかもしれない卵子、無駄にしちゃったんだよ?」
早紀は告げる。淡々とした声は、俺の心臓を刺してくる。遠慮なく。殴ってくる。俺の良心と、防衛本能を、同時に揺さぶり、脅かす。
「私の赤ちゃんが、流れちゃったんだよ。私たちの、赤ちゃん、かわいそうに」
早紀が息を継ぎ継ぎ、言葉を紡いだ。乾燥のせいか、その口の周りが白く見える。黒々したまつげのせいで、血走った白目の部分が一層目に焼き付く。
「私、これ以上、かわいそうな卵子、増やしたくない。できるならもう、全部、私の身体の中の卵子全部、取り出して凍結しておきたい。だって、可能性……赤ちゃんになれる可能性、高い方がきっと、その子たちのためになる。そうでしょ?」
浅い呼吸で言う早紀が、俺に詰め寄る。俺はまばたきすらできないまま、そんな早紀を見下ろしている。
――誰だ、この女は?
真っ白になった頭の中に浮かんだのは、そんな問いだった。
悪寒と恐怖で、全身が強張っている。
この女は――誰だ?
これが早紀だと、思えなかった。思うことを、脳が拒否していた。
もしかしたら、早紀は――俺が愛した人は、俺が妻にした人は、妖怪にでも喰われてしまったんじゃないだろうか。そして俺は、妖怪の子作りを手伝わされてるんじゃないか? またしても馬鹿げた空想が、本気で脳裏を巡り、頭痛のような警鐘を鳴らす。
「幸弘くん。聞いてる?」
有無を言わせぬ早紀の声が、割れて聞こえる。聞いたこともない、苛立ちを帯びた低い声。俺を憎んでいるような声。
これは本当に、早紀なのか? あの、穏やかで引っ込み思案で、少しのことではにかんだり困ったりする、あの早紀なのか?
血の気のひいた肌、笑うことを忘れ痩けた頬、血走った目……目の前の妻の姿が、恐ろしいものに見え始める。
「お、俺は……」
声が喉につっかえた。早紀はためらいなく、俺を見上げている。確固とした意志を持った目が、俺を貫かんとするばかりに見据えている。
なんだ、これは。
分からない。
早紀のことが――妻のことが――分からない。
足首を何かに掴まれたように、その場から動けなかった。泥沼に引き込まれていく――そんな恐怖に込み上げる悲鳴を、どうにか、喉の奥で噛み殺す。
「言ったじゃない」と早紀は言った。静かな、けれど早い口調で、一気に言い切った。
「子ども、欲しいって。四人いたらリレーさせるんだって、幸弘くん、言ってたじゃない。四人――今から四人なんて、できるかどうか――もう、時間がないんだよ。時間が――ないの」
早紀は身もだえるようにかぶりを振った。乱れた髪が、視界に広がる。いつからか、艶のあった髪はぱさついて、肩甲骨を覆う長さから肩までの長さに変わった。乱れる髪を見て、逆に俺の心は少しだけ、落ち着く。
「落ち着けよ、早紀……落ち着けって」
「逆だよ。なんでそんな――なんでそんなに、幸弘くんは落ち着いていられるの!? 私たちの赤ちゃんのことなのに! ふたりの、赤ちゃんのことなのに!!」
フタリノアカチャンノコトナノニ。
香子のセリフが、また脳裏によみがえる。
――だって子どもって女ひとりでできるもんじゃないでしょ。男の人がいないとできないでしょ。
続いて、ザッキーの言葉。
――いろいろ言っても……そういうことは結局、女性側の気持ち次第だからね。
それじゃあ、俺の意思はどうなる?
――男は無力だね。支えることはできても……どうしても、当事者にまではなれない。
当事者には、なれない。当事者には……
ぐらんぐらん、地面が揺れている。
俺は早紀がいなくなったことにも気づかず、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。
朝、鏡の前でネクタイを結んでいると、早紀はゆっくり、近づいてきた。
「幸弘くん……今日」
「ああ、うん。早く帰る」
いつものことだと、あえて目を合わせずに答えた。早紀が俺を求めるのは、種が必要なとき。そう決まっている。聞かずともそう思っていた。けれど。
「違うの」
早紀は珍しく、はっきりそう言った。珍しく強い声音に、鏡から顔を外し、頭ひとつ下にある早紀の顔を見下ろす。
蝋人形のように血の気を失った早紀の顔の中で、丸い目はギラギラと、やたらと強く輝いて俺を捉えていた。
「違うの。……話、したいの。……ステップアップの件」
低い、低い声で告げられた最後の言葉に、俺はネクタイを力一杯締め上げられたような息苦しさに襲われた。
結ぶ途中だったネクタイを、あえて、緩いままに留める。「ああ……」と言葉を探して目を泳がせて、鏡の中のネクタイを見つめた。
「……もうちょっと、考えさせてくんない?」
答えながら、そこに映る自分の手が震えていないことを確認していた。見栄えは悪くないように、けれど喉は締め付けないように、ネクタイを整える。こう言えば、早紀は食い下がらない。そう思ったのに、
「あったよね?」
その鋭い声がどこから聞こえたのか、一瞬分からなかった。この家には俺と早紀しかいない。それなのに、まるで香子みたいに強い、はっきりした意思を孕んだ声がした。
俺よりも高い声。女の声。女の――
この家にいるのは、早紀だけだ。
ごくり、と喉が鳴った。
怯む内心を押し隠し、早紀を見下ろす。早紀はじっと、俺を見上げていた。その目が、まるで俺を飲み込もうとしているように大きく見える。確かに、早紀の目は元々、くるりと丸い。けれど、こんなに、くっきりしていなかったはずだ。
ぞわっ、と、悪寒が背中を抜けた。
「考える時間、あったよね? だって最初に話したの、もう一ヶ月前だよ。あれから……もう、一回分、卵子、流れちゃったんだよ。もしかしたら、赤ちゃんになれてたかもしれない卵子、無駄にしちゃったんだよ?」
早紀は告げる。淡々とした声は、俺の心臓を刺してくる。遠慮なく。殴ってくる。俺の良心と、防衛本能を、同時に揺さぶり、脅かす。
「私の赤ちゃんが、流れちゃったんだよ。私たちの、赤ちゃん、かわいそうに」
早紀が息を継ぎ継ぎ、言葉を紡いだ。乾燥のせいか、その口の周りが白く見える。黒々したまつげのせいで、血走った白目の部分が一層目に焼き付く。
「私、これ以上、かわいそうな卵子、増やしたくない。できるならもう、全部、私の身体の中の卵子全部、取り出して凍結しておきたい。だって、可能性……赤ちゃんになれる可能性、高い方がきっと、その子たちのためになる。そうでしょ?」
浅い呼吸で言う早紀が、俺に詰め寄る。俺はまばたきすらできないまま、そんな早紀を見下ろしている。
――誰だ、この女は?
真っ白になった頭の中に浮かんだのは、そんな問いだった。
悪寒と恐怖で、全身が強張っている。
この女は――誰だ?
これが早紀だと、思えなかった。思うことを、脳が拒否していた。
もしかしたら、早紀は――俺が愛した人は、俺が妻にした人は、妖怪にでも喰われてしまったんじゃないだろうか。そして俺は、妖怪の子作りを手伝わされてるんじゃないか? またしても馬鹿げた空想が、本気で脳裏を巡り、頭痛のような警鐘を鳴らす。
「幸弘くん。聞いてる?」
有無を言わせぬ早紀の声が、割れて聞こえる。聞いたこともない、苛立ちを帯びた低い声。俺を憎んでいるような声。
これは本当に、早紀なのか? あの、穏やかで引っ込み思案で、少しのことではにかんだり困ったりする、あの早紀なのか?
血の気のひいた肌、笑うことを忘れ痩けた頬、血走った目……目の前の妻の姿が、恐ろしいものに見え始める。
「お、俺は……」
声が喉につっかえた。早紀はためらいなく、俺を見上げている。確固とした意志を持った目が、俺を貫かんとするばかりに見据えている。
なんだ、これは。
分からない。
早紀のことが――妻のことが――分からない。
足首を何かに掴まれたように、その場から動けなかった。泥沼に引き込まれていく――そんな恐怖に込み上げる悲鳴を、どうにか、喉の奥で噛み殺す。
「言ったじゃない」と早紀は言った。静かな、けれど早い口調で、一気に言い切った。
「子ども、欲しいって。四人いたらリレーさせるんだって、幸弘くん、言ってたじゃない。四人――今から四人なんて、できるかどうか――もう、時間がないんだよ。時間が――ないの」
早紀は身もだえるようにかぶりを振った。乱れた髪が、視界に広がる。いつからか、艶のあった髪はぱさついて、肩甲骨を覆う長さから肩までの長さに変わった。乱れる髪を見て、逆に俺の心は少しだけ、落ち着く。
「落ち着けよ、早紀……落ち着けって」
「逆だよ。なんでそんな――なんでそんなに、幸弘くんは落ち着いていられるの!? 私たちの赤ちゃんのことなのに! ふたりの、赤ちゃんのことなのに!!」
フタリノアカチャンノコトナノニ。
香子のセリフが、また脳裏によみがえる。
――だって子どもって女ひとりでできるもんじゃないでしょ。男の人がいないとできないでしょ。
続いて、ザッキーの言葉。
――いろいろ言っても……そういうことは結局、女性側の気持ち次第だからね。
それじゃあ、俺の意思はどうなる?
――男は無力だね。支えることはできても……どうしても、当事者にまではなれない。
当事者には、なれない。当事者には……
ぐらんぐらん、地面が揺れている。
俺は早紀がいなくなったことにも気づかず、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。
0
あなたにおすすめの小説
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
【完結】指先が触れる距離
山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。
必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。
「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。
手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。
近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる