うさぎはかめの夢を見る

松丹子

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.2章 かめは甲羅に閉じこもる

..17 甲羅の中の世界

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 早紀が出勤した後、俺ものろのろと家を出た。いつも始業より一時間か、遅くとも三十分早く職場に着いているのに、遅刻すれすれで現れた俺を、後輩が丸い目で見上げてくる。

「小林さん、どうかしたんすか? 珍しいっすね」

 まだ入社して二、三年のその肌は、つるんとしていて健康的だ。元気か、なんて聞かなくとも分かるほどの色艶は、肌だけでなく髪にも、目にも、顕れている。
 これが若さか、と脳裏によぎった。俺にもこんなときがあった。何も恐れず、ただ前向きに、前だけを見て笑っていた時期が。

「小林さん? なんか、顔色、悪いっすよ。疲れ、溜まってるんじゃないすか?」

 おはよう、と言っただけでデスクについた俺を、後輩が心配そうにうかがってきた。
 演技でもなんでもない、心からの気遣いだ。いつもならただありがたく思うはずのそれが、何故か今日は苛立たしい。

「……大丈夫だよ。始業まで、まだ時間あるか……トイレ、行ってくる」

 どうにか口の端を引き上げて答えた。ともすればふらつきそうになる足を意識的に踏ん張りながら、前へ進む。
 腹が、痛い。そういえば、何も食べずに出て来たんだっけ。何も食べずに……早紀は? 早紀も、何も食べずに出かけたんだろうか。
 トイレに向かう廊下で、若い女子社員が二人、ひそひそと話しているのが聞こえた。

「……持ってる? 急に……だったから、持ってなくて」
「うん、あるよ。昼用だけどいい?」
「ありがと、助かる」

 いったい何の話か分からないけれど、考えないようにする。彼女たちの話しぶりから、男が聞いてはいけないものだと察したからだ。
 そういうとき、聞いていないふりをするのが、男のマナーだ。誰に教わったわけでなくともそう知っている。
 そのままトイレのドアに手を伸ばしかけて、一瞬怯んだ。ドアに塗装されたライトグレーが、早紀の顔色と重なったからだ。思わず、トイレ前ですれ違った二人の女子社員と対比する。
 ――そうだ。十年前は早紀だって、もっとつややかな肌をしていたのに。
 くすんだ色から目を逸らしながらドアを押し開ける。額に脂汗がにじんでいる気がした。ふらつく足取りで洗面台に手をつき、息を吐く。
 顔を上げて、鏡に映った自分の顔にぞっとした。そこにはよどんだ目があり、ここ最近の疲れでできた隈がある。後輩を見た後だと、なおさら自分の劣化が目についた。
 確かに、歳を取っている自覚はあった。けれどそれは、充足に向かう経年だと思っていた。まだ、劣化していくほどの年齢ではない。そう思っていた。
 けれどそれはもしかしたら、ただの願望だったのかもしれない。
 額ににじんだ脂汗をてのひらで拭い、水を流す。手を洗いながら思う。歳を取った。早紀も、俺も。
 リミットが近い。それはきっと、早紀だけじゃなくて……

 ――もう、一回分、卵子、流れちゃったんだよ。

 ぞっ、と背中を、悪寒が抜けた。
 ぐがんぐがん、警鐘のような頭痛がする。ふらついた身体を支えようと手を伸ばし、かろうじて洗面台に掴まった。
 開きっぱなしの蛇口から、水が次々溢れ出て流れていく。吐き気がこみ上げる。
 会社では、早紀のことを考えなくていいと思っていた。考えないようにしていた。それなのに、思い出した今朝の早紀の言葉と、声と、そして見かけた女子社員の会話と、ぜんぶが突然、俺の中で一気に繋がった。

 ――一度、そのまま、流してくれる? そのまま……フタ、開けないで。そのまま、流してね。お願い。

 二週間前の、早紀の言葉。

 お願い。

 あのときの、脅迫するような強い目。
 ドアの向こうで、水を流す音を確認する、息を潜めた早紀の気配。
 ――流す。
 俺があのとき、流したのは。
 早紀があのとき、流せなかったのは。

 ――もしかしたら、赤ちゃんになれてたかもしれない卵子、無駄にしちゃったんだよ。

「う、っ……」

 濡れた手を口に押し当てる。口から漏れようとする嗚咽が、いったい何の感情を示すのか、自分でもよく分からない。
 分からないけど、ひとつだけ、分かったことがある。
 あのとき、俺がトイレに流したのは、きっと早紀の経血だったのだ。
 早紀が言う、”赤ちゃんになれていたかもしれない卵”だったのだ。

「う……」

 こみ上げる吐き気に逆らえず、水が流れる洗面台に顔を近づけた。ごぼごぼと音を立てて水を飲み込む排水溝を目前に、胃が引きつってぜん動する。
 出てくるのは唾液だけなのに、そこから顔を離せない。

「う、ぅっ……」

 月経。
 毎月、女性の身体にあるもの。
 ――その度に、早紀は。
 ひとりで、泣いていたのか。

 ”赤ちゃんになれていたかもしれない卵”を、悼んで。

 ごぼごぼごぼ、水音がする。目の前がざらついていた。立っているだけで限界で、動くことができない。どこかで、始業を告げるチャイムが鳴った。少しして、バタバタと足音が近づいてくる。
 ドアが開く音がするや、「こ、小林さん!?」と高い声がした。
 力強い手に身体を支えられ、背中をさすられた。

「だ、大丈夫っすか? 気分悪い? すげーヤバそうじゃないっすか。いや、今日休んだ方がいいっすよ。マジ、無理しない方がいいっす。小林さんのおかげで、次の案件の資料ほとんど終わってるし……課長には俺が言っときますから。もう、帰った方がいいっす」

 タクシー呼びます? 休憩室行きます?
 俺を気遣う後輩の声が遠くで聞こえる。目の前にフィルターがかかったように、その姿が遠い。
 心から心配してくれているのだ。かわいがってやっている後輩だから。
 それなのに、今の俺は、それを素直に受け止められない。
 ザラザラザラザラ、ノイズ音みたいな感情が身体中を巡っている。

「……ああ……」

 かろうじて、声を出した。

「うん、そうするよ……今日は……帰ることにする」

 取りつくろったその声も、自分のものじゃないみたいに遠い。
 返事をする後輩も。
 お大事にと言う上司も。
 すべてが遠く、フィルター越しの世界のことのように見えて――

 ――早紀はずっと、こんな風に、自分の中にこもっているのか?

 そこから家に向かった記憶は曖昧だ。
 身体が覚えている道を、ただただ、辿ったのだろうと思う。
 そして沈み込むように横たわったダブルベッドは――早紀のいないベッドは、やたらと広くて――安心できた。
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