もの狂ほしや色と情(改稿版)

松丹子

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序章

08 鎮撫

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 卒業してから数年後、海外勤務から帰国したわたしに、教授から連絡があった。

 ーー学会で東京に行くんや。会えへんか?

 恩師に言われて断れる訳もなく、懐かしい昔話でもするだけだろうと、誘われるままに指定場所へ向かった。
 招かれた先はホテル上層階のレストランだった。卒業生と師が二人で行くには、ずいぶん高級だなとは思った。
 だが、教授はこのホテルに泊まっていて、不慣れな都内で外に出るのが面倒なのだと言われれば、そういうものかと納得する。
 ディナーを前に、互いの近況を話し終わるや、不意に教授は口を開いた。
 その口調は変に硬かった。

「すっかり大人やね。あのときよりも、綺麗になった」

 その言葉を聞いたとき、わたしは瞬間的に察した。
 彼が何を求めてわたしを食事に誘ったのかを。
 同時に、絶望した。
 在学時にわたしを救ってくれたはずの人の裏切りに。
 自分の手が小さく震えているのに気づき、手をつかんだ。
 わたしは教授を睨みつけ、口を開こうとした。
 貴方の思う通りにはならない。
 もう在学当時のわたしではない。
 そう言おうとした決意は、あっけなく砕かれた。

「篠原くんがね。君の連絡先を教えてほしいと言うてはるんや。君に謝りたい言うてな」

 わたしは目を見開いた。
 次いで、込み上げてきたのは笑いだった。

(この人も、男やった)
 馬鹿だったのは、男を信じたわたしの方だ。

 笑いが収まったあと、わたしはワイングラスに手を伸ばした。
「一つだけ、お願いしても?」
「何や?」
 その目は一見優しさを感じさせたが、奥に潜む欲情は隠しようもない。

「美味しいボトルワインを一本」

 わたしは微笑んで、グラスの残りを喉に流し込んだ。

(今夜のことを、鮮明に覚えてるやなんて真っ平や)

 それが初めて彼に抱かれた日だった。


 その夜、帰宅したわたしは、トイレに駆け込んで嘔吐した。
 学生時代、篠原とつき合った頃と同じように。
 当時の自分をそこから助け出してくれた人が、忘れた頃に同じ目に陥れるなど、在学中には想像もしていなかった。

 * * *

 そのときでも、わたしは自分の感情が麻痺していると思っていた。
 しかし今思い返せば、遥かに健全に残っていたらしい。
 今のわたしと比べれば、遥かに。
 わたしは自嘲気味に笑う。

 浴室を出ると、とっくに零時を回っていた。
 このまま眠っても凌辱される夢を見るだけだ。
 そう分かっているので、クラシックのCDをオーディオにセットした。
 ソファに腰掛けて目を閉じると、壁際に置かれたステレオから、静かに音楽が流れはじめる。
 ーーいまだに、僕は君のことがわからへん。
 不意に男の声が蘇った。
 分かって、どうするというのだろう。
(うちの気持ちをわからんようにしたのは、あの人たちやのに)
 クラシックは静かに、わたしの鼓膜を震わせ、流れ込んで来る。
 催眠術のように、ゆったりとした睡魔をもたらし、ざわついていた心を鎮めていった。
 苛立ちも皮膚の粟立ちも、バイオリンの音色で包み込んで。
 まろやかなヴェールに押し隠し。
 心の中の、箱の中へ。
 できるだけ、奥底へと。
 しまっていく。しまいこんでいく。
 暗く、閉ざされた箱の中へ。
 音色がわたしの感情を運んでいく。
 それが箱に入るや、その蓋は閉められる。
 重い蓋は、多少のことでは開くこともない。
 鬱屈した気持ちを詰め込んだそれは、パンドラの箱のようだ。

 一曲を聞き終わる頃には、心は安静になっていた。
 うっすらと目を開く。
 スタンドライトの明かりが、ぼんやりと室内を照らし出していた。
 ベッドに行こうかとも思ったが、心をさらって行った音楽が代わりに運んできた睡魔に身を任せ、目を閉じる。
 ベッドへは少し眠ってからーー
 思うや、意識は深く沈んで行った。
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