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第参章 想定外のプロポーズ

12 泥試合

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 祖母と最後の夜をと、通夜の番を買って出たわたしだったが、母にあっさり却下された。
「あんたは安田さんとホテルに泊まり。明日の朝、また来や」
「でも……」
 母はそれ以上何も言わない代わりに、私のことを睨むように見つめ返した。何の感情も宿らないその目は、まるでわたしのことを炉端の石ころだとでも思っているようだ。
 わたしはそれ以上食い下がるのをやめた。離れたところからこちらをうかがっている父を見て、頷く。
「分かった。……おやすみ」
「おやすみ」
 父と母が答える。その声が重なったのが不思議なくらいに、二人は距離のある夫婦だった。
 言葉も。身体も。視線も。
 しばらく両親と離れて生活していたからこそ、夫婦というには希薄すぎる関係性に違和感をおぼえる。
 ジョーはどう思っているのだろう。そう思って男を見上げるが、彼はいつもと変わらない丸い目でわたしを見、にこりと微笑むだけだった。
 大丈夫です、一緒にいますよ。
 口にはせずともそう言っているように感じた。
 その表情はまるで、彼にとって重要なのはわたしだけで、その他の人間など興味がないとでも言っているようだ。
 そんなことを口にすれば、きっと彼は否定しないに違いない。「それで問題あります?」と邪気なく笑うに違いない。
 安易に想像がついて苦笑が浮かんだ。
「行こか、ジョー」
「はい。失礼します。また明日」
 ジョーは微笑んで一礼した。わたしと並んで歩き出す。
「……ごめんな」
「何がですか?」
「……あんな親で」
 斎場を出たときわたしが言うと、ジョーは目をまたたかせて笑った。
「でも、あれがヨーコさんのご両親なんでしょ」
 わたしは一瞬意味が分からずぽかんとする。ジョーはただにこにこしている。混乱したが、彼がわたしの両親を否定していないことだけは分かった。
 わたしは何も言えなくなって、ただジョーの肘に手を添える。
 ジョーはすこし驚いた顔をしたが、何も言わずにまた前を向いた。


 告別式は翌日の午前中に行われた。
 斎場のスタッフから受けとった花を、母が無造作に棺に敷き詰めていく。
 わたしは祖母の顔の周りがすこしでも華やかになるようにと、一つ一つ、想いを込めて埋めて行った。
「相変わらず鈍臭いな」
 母がわたしを見て言った。ちくり、と古びた胸の傷が疼く。
 母の方を見ることもできないわたしの目の前に、ひときわ美しい蘭が差し出された。その手の主を目で追うと、ジョーが黙って微笑んでいる。
 わたしは微笑みを返して受け取り、祖母の頬の横に添えた。
 母はふんと鼻息をついて、また黙って棺に花を埋める。
 飾られていた全ての花が、祖母の棺の中におさまった。
 花に囲まれて目を閉じている祖母は、不思議と幸せそうに見えた。


 祖母の棺は火葬場へ移動し、わたしたちもそれを追って移動した。
 祖母が骨になるのを待つ間、手洗いへ立つ。
 用を済ませて個室から出ると、母が鏡越しにわたしを見つめていた。
「遺産目的か何かとちゃうの。あんたのことや、寂しいところをつけ込まれたんやろ」
 吐き捨てるような言葉を聞きながら、わたしは手を洗う。
「そんな面倒なことする人やあらへんよ」
「あんた、相変わらず阿呆やなぁ。あんな若い子、いつ捨てられるか分からへんで」
 わたしの言葉を聞く気があるのかどうか、母は気にせず言葉を投げつけて来る。
 わたしの腹の中で、ふつふつと怒りが沸き立った。
(何も知らんで)
 この女が、ジョーの何を知っているというのだろう。
 わたしの何を知っているというのだろう。
 わたしを産んだというだけで。
 何の義理があって、保護者面をして口を出すのか。
「お母さんには迷惑かけひん」
 言い残して廊下へ出ようとドアに手をかけたとき、母の声が追ってきた。
「結婚いうたら、迷惑かけるかけないの話とちゃうやろ。その歳になって、そんなことも分からんのか。親を親とも思わん、薄情者」
 そのとき、わたしの中で何かが弾けた。
「薄情はどっちや!」
 積年の思いが、つい口をついて出る。
 母はわたしの厳しい声音にたじろいだ。
 とっさに声を荒げた自分の浅ましさに舌打ちした。
(ここでやり合えば、この人と同レベルや)
 成り下がりたくはなかった。
 いつでも、母はわたしの反面教師だ。
 こういう女になりたくはないと思い続けている人だ。
 わたしは言葉を飲み込み、黙ったままドアを押し開けた。
 そこにはジョーが立っていた。
 うっすらと、微笑みすら浮かべて。
「お母さん」
 ジョーの声はひどく落ち着いていた。
「ヨーコさんは素敵な女性です。俺が今まで出会った誰よりも、綺麗で、可愛くて、繊細な人です」
 ジョーはまっすぐに母を見ている。母の目は戸惑いにさまよった。
「俺は年下だし、頼りなく見えるかも知れませんけど、一つだけは誓います」
 ジョーがわたしに目線を移して片手を差し出した。
 おいでと言われたように感じて、わたしはためらいなく彼に近づく。
「俺はお母さんが今まで注いだ以上の愛情を、ヨーコさんに注ぎます。これから死ぬまでの間に」
 ジョーは微笑んだ。
「ご安心ください。必ず、二人で幸せになります」
 わたしはジョーの手を取り、ドアから手を離した。
 支えを失ったドアはゆっくりと閉まっていく。
 母は何も言わなかった。
 これで話は終わりだと、ドアの閉まる音が告げた。
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