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第参章 想定外のプロポーズ

24 残されたもの

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 すっかりジョーに懐いた悠人くんは、わたしたちが帰ると言うと泣き出した。
「じゃあ、バイバイの前にぎゅうってしてもらえば」
 アーヤの言葉に素直に頷き、ジョーの首に手を回してぎゅうとしがみつく。
「ぎゅー」
 ジョーは笑いながら、ぽんぽんと背中を叩いた。
 ジョーから離れた悠人くんは、次いでわたしの前で手を広げた。ためらったが、その小さな腕の中に入り、背に手を回す。
 柔らかくて小さい温もりが、腕の中に満ちる。
「また遊ぼうな」
 悠人くんはこくこくと頷いた。わたしがゆっくりと悠人くんから離れると、名残惜しげにジョーを見上げ、涙をためた丸い目を向けて健気に手を振る。
「ばいばい」
「うん、バイバイ」
 ジョーは破顔してその頭を撫でた。
 じゃあ、とその親に声をかけると、また来てねとアーヤが言った。わたしは頷いて手を振る。
 マーシーに抱き上げられた悠人くんは、わたしたちが見えなくなるまで手を振っていた。

 三人の姿が見えなくなると、不意に心細さが心中を覆う。わたしは手を伸ばして、隣を歩くジョーの手を取った。
 手を握り返したジョーは、ちらりとわたしを一瞥して、また前を向く。
「……ジョー」
 小さく呼びかけると、何ですか、と声が返ってきた。
 続く言葉を探していると、ジョーはいつも通り話し始める。
「やっぱ子どもいると賑やかっすね。二人でゆっくり話せないから平日は一緒にランチしてるって、何の惚気かと思ってましたけど、マジだなと思いました」
 放っておくとぺらぺらとしゃべりつづける彼のこと。言葉でそれを止める気にならず、わたしが歩くペースを緩めると、それに気づいて振り返った。
「どうかしました?」
 いつもと変わらぬ笑顔。
 きゅうと胸が締め付けられる。
 腕の内側には、別れ際に抱いた小さな温もりの感覚が残っている。
 鼻先に触れた柔らかい髪。すこしだけすっぱい汗の臭い。
 残酷なほどに温かく、か弱い存在。
 抱きしめたときに感じたのは、物理的な温もりだけではなかった。
「ヨーコさん?」
 ジョーの丸い目がわたしを見つめる。
 わたしは込み上げた想いに、口を開きかけ、閉じた。
 うつむくと、自分の黒いブーツが見える。
 その黒が足元に広がっていくように見えて、思わず目を閉じる。
「……ヨーコさん」
 困惑したようなジョーの声が、わたしを呼ぶ。わたしは息を吐き出し、目を開く。ジョーは心配そうに、それでも無理に近づこうとはせず、わたしを見つめていた。
 微笑もうとしたわたしの表情は、変に歪む。
 柔らかくて小さな、温もりを抱き留めたあのとき。
 わたしは初めて、知ったのだ。
 気づいてしまったのだ。
 自分にも、確かに「母」になり得るこころが、あったことを。
 そして、ジョーが悠人くんと戯れる姿に、わたしは見てしまった。
「……ジョー」
 風が心に運んだ幻想。
 もう、存在しえない未来。
 なにか言葉を口に出そうとして、出たのは震える息だけだった。
 ジョーが気遣わしげに、わたしを見つめてくる。
 丸い目で。
 子どものような目で。
 もしも。
 言葉がすべてぶつ切りになって、脳裏に、心中に、浮かんでは消える。
「ーーあんたに、子どもができたら、どんな子やろな」
 か細いわたしの声が、ほろりとこぼれた瞬間、ジョーの表情が凍りつく。
 ああ、彼も思ったに違いない。
 わたしはそれを見て、確信した。

 わたしたちには二度と、おとずれない「IF」。

「ヨーコさん」
 わたしの肩を、ジョーが掴む。

 嫌や。
 もっと、強く掴んで。
 痛いほどに。
 骨が、音をたてて軋むほどに。
 そんな弱い力ではーーよほど、胸の方が痛い。

「ジョーの」
 わたしの顔は、笑うように変に歪む。
「あんたの子どもは、どんな目ぇしてはるんやろ」
 見上げた先のジョーの顔からは、表情が抜け落ちている。
 言葉を失ったジョーの顔。

 知っている。
 知っていた。
 分かっていた。
 わたしは、彼を、
 ほんとうの意味で幸せにすることなど、できない。

 吐き出す息が震える。
 視界が、目の前に広がるこわばったジョーの顔が、ゆらゆらと歪む。

 あきらめていたのだ。
 幸せになることなど、とうの昔に。
 誰かを愛することなど。
 誰かに愛されることなど。
 とうの昔に諦めていたのだ。

 なのに彼は、わたしにそれを、与えた。

 もっと早くに、出会っていたなら。
 一縷の望みは、あっただろうか。
 出会えていたなら。

 わたしは。
 彼は。
 そうだ、彼にはまだ。
 望みがーー

「ヨーコさん」

 ジョーがわたしを呼ぶ。肩を引き寄せ、抱きしめる。
 強い力でわたしを包む。息が苦しいほどに強く。
 いっそそのまま、抱き潰して欲しい。
 粉々に。
 心の痛みなど、もう感じないで済むのなら。
 最期を彼の腕の中で迎えられるのなら。
 それ以上のしあわせなど、きっとない。

 曖昧にぼやけた視界。足元がぐらつくのは身体の震えのせいか、気づかないふりをしていた二つのことに気づいてしまったからか。
 もうこの腕に抱けない「わが子」への愛情。
 わたしを選んだ彼が失う、一つの未来。

 わたしはジョーのコートの衿元にしがみつく。
 涙が溢れて頬を濡らした。
「ふ……ぅ」
 愛している人の子。
 愛された証。
 会いたかった、会えたかもしれない、二度と会うことのない、小さな命。
 ジョーは黙ってわたしを抱きしめる。わたしは嗚咽とともに、ジョーにしがみつく。
「ジョー。ジョー」
「なんですか」
「嫌や」
 子どものように、わたしはかぶりを振る。
「あんたを道連れになんてできひん」
「なにをーー」
「他の女やったら、あんたも親になれる」
 温もり。小さな。愛情の証。希望。夢。将来。笑顔。
 残像のようなぶつ切りの言葉が、わたしの中をぐるぐると掻き回す。
 ジョーがこじ開けたわたしの胸の箱の中。
 神話では、汚い全てが出きった後、パンドラの箱にあるのは、希望ではなかったのか。
 わたしに残されていたのは、希望と両面になった絶望だったなんて。
「うちを選んだらあかん」
 見てみたい。見てみたかった。彼の子どもが、笑い、怒り、泣き、照れ、成長していく姿をーー
 それが、ただの他人としてでも。
「要りません」
 強い語気に、わたしは動きを止める。見上げるとこわい顔をしたジョーがいた。
「要りません。俺が欲しいのはヨーコさんだけです。他の女でも子どもでもない」
 ジョーの声が、優しく残酷な幻想を追いやっていく。胸を掻きむしりたくなるほどの衝動が、少しずつ落ち着いていく。
「俺には貴女だけだ。俺はヨーコさんがいい」
 ジョーはわたしの耳元で、はっきりと言う。
「何度でも言います。俺は、ヨーコさんじゃないと嫌だ」
 ぎしぎしと、身体が軋むような気がするのは、ジョーの抱擁のせいか、砕けそうになった心のせいか。
(あんたは、ほんとに)
 わたしはジョーを見上げる。
「愛してます、ヨーコさん。貴女が俺の唯一のひとだ」
 ジョーの曇りないまっすぐな目に、思わず笑いそうになる。
「阿呆、やなぁ……」
 引き攣った呼吸の合間にかろうじて彼を笑うと、ジョーは困ったような笑顔を浮かべた。
「俺も必死なんですよ」
「せやろな」
 答えて、わたしはジョーの肩に額を寄せた。
 ジョーは少しだけ抱擁の力を緩める。
 わたしの震えがおさまるまで、そのままじっとしていた。
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