色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

文字の大きさ
43 / 64
第一章 旅立ち

04 彼女の空気

しおりを挟む
 そして、3月末日。
 ヨーコさんの勤務最終日だ。
「ヨーコさん、いつでも遊びに来てくださいね!」
 繁忙期を乗り越えた財務部のフロアに足を運んだ俺は、明るい後輩の声を聞いて口の端を上げた。
「せやな。アキちゃんも無理せんようにね」
「だーいじょぶです! 丈夫なのだけが取り柄ですから!」
 次々に挨拶をする後輩たちに囲まれたヨーコさんを、入口から見守る。
 勤務最終日となれば、何かと荷物も多いだろうと足を運んだのだが、彼女の人望を伺い見ることができたのは思わぬ収穫だった。
 彼女のことだから当然だとは思うけれども。
 マーシー絡みでうちとも比較的近しい後輩、アキちゃんが俺に気づいて笑う。
「あっ、安田さん。ボディガードお疲れさまです」
 ぴしりと敬礼する姿に手を挙げて返すと、珍しくほてほてと歩いて来る。
 他のメンツに囲まれたままのヨーコさんを並んで見つめながら、アキちゃんは笑った。
「いやぁ、複雑な心境です」
「何が?」
「安田夫婦のイチャイチャを見られないのが」
 俺は目をまたたかせて、頭一つ下にある後輩の頭を見やった。
 俺を見上げる気のない彼女の、肉付きがよくない肩が見える。豪胆なところがあり、先輩たちを平気で振り回す猛者だが、こうして見ると意外と華奢だ。
「イチャイチャしてたっけ」
「ごふっ」
 後輩は噴き出して口元を手で押さえた。
 見上げて来る目が完全に笑っている。
「そうでした、それが安田夫婦の醍醐味でした」
「え?」
「傍若無人というか。二人の世界というか」
 はははと笑う彼女も、今やもう30代後半のはずだ。
 それでも変わらない関係がありがたい。俺にとってではなく、ヨーコさんにとって。
「アキちゃん」
「なんすか?」
「ありがとうね」
 アキちゃんは途端に表情を失った。唖然とする、というのはこういうことか。
「なに、その反応」
「いや……」
 アキちゃんは眉を寄せ、神妙な顔をしている。
「……安田さんからそういう言葉聞くと、気味が悪いっていうか……微妙」
「ひどいなー」
 俺は笑い、またヨーコさんを見やる。
 もう彼女も俺に気づいていた。目が合い、視線を交わす。それだけで充分な程度に、俺たちは関係を築いている。
「アキちゃんがいるから、がんばれてたんだと思うよ」
 アキちゃんはわざとらしく肩をすくめた。その頬がわずかに赤いのは照れているのだろうか。
「……私だって、ヨーコさんがいたからがんばれました」
 小さく言って、はは、と笑う。それが作った笑いだとは、さすがの俺にも分かった。
 じわりと彼女の目に涙がにじむ。
 が、気丈にヨーコさんの方を見た。
「……もうちょっと、一緒に仕事したかったです。ヨーコさんは私にとって憧れのお姉さんだから」
 アキちゃんの言葉に、俺は微笑む。
「喜ぶよ。ヨーコさんにとっても、アキちゃんは妹みたいなもんだから」
 仕事にてんてこまいのときにも、明るくユーモラスなアキちゃんの話はしょっちゅう家で聞いたものだ。ついついのめり込み、マイナス思考に陥るヨーコさんにとっては救いだったことだろう。
 そんなことを思っていたとき、ばたばたと廊下から音が近づいて来たかと思えば、ドアががちゃがちゃいう音がした。どうもロック解除に失敗してやり直したらしい。
 がちゃ、と開いたドアから顔を出したのは、ヨーコさんのもう一人の“妹分“、アーヤだった。
「あああ、間に合ったぁ、よかったぁ!」
「なんや、アーヤも来たんか」
 ヨーコさんが困ったように笑う。が、その目は嬉しそうだ。
 ヨーコちゃぁんと抱き着くアーヤを受け止めて、ヨーコさんは嬉しそうに笑う。
 アーヤは現在人事課長。子育てが落ち着いたと見られるや忙しい部署に投げ込まれたと嘆いていたが、家のことは夫がやっているらしいので問題ないのだろう。
 その夫たるマーシーも、後ろから現れた。
「落ち着きがねぇなぁ。ドア壊すかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
 苦笑を浮かべる色男に、財務部女子の目がそわそわと落ち着かない。ヨーコさんを囲んでいた人たちは、ゆったりと近づく長身に道を譲るべく一歩下がる。まるで海を割る聖人の姿を見ているようだと笑いが込み上げるが、当人はさして自覚がないのだろう。
「名取さん。お疲れさまでした」
「嫌やわぁ。最後までそう呼びはるん」
 すでに戸籍もビジネスネームも安田にしているヨーコさんを、名取と呼ぶのは彼だけだ。指摘されてマーシーは苦笑する。
「つい癖で」
「直す気もなかったくせしはって」
「安田さんと呼ぶのはなんとなく違和感が」
「じゃあ、ヨーコて呼んで」
 言うヨーコさんの目は笑っている。その腕にしがみついたアーヤもくすくす笑っている。マーシーはあきれた。
「……こういうやりとりも今日で最後ですかね」
「そうやろな」
 マーシーがため息をついて、俺の方を振り返る。
 俺はあえて剽軽な顔つきで、耳を押さえてみせた。マーシーが苦笑して、ヨーコさんに向き合う。
「ヨーコさん。長い間ありがとうございました」
 形だけ塞いだ耳に、美声が流れ込む。
 手で覆っていたからこそ、その響きが耳の中に残った。
 気持ちがこもった言葉は、こんなにも気持ちがいい。
 俺は手を下ろして愛妻を見やる。
「うちこそ、おおきに」
 ヨーコさんは笑いながら泣いていた。

 その顔。
 その、可愛い顔。
 俺だけのものなのになぁ。

 駆け寄って抱きしめたい衝動をこらえる。
 今日は。今日のこの時間だけは。
 俺だけのヨーコさんじゃなくて、みんなのヨーコさんだ。
 ここは、ヨーコさんが、自らの力で築いてきた場所なのだから。
 部屋の空気はあたたかかった。
 心にじわりと、その温もりが伝わる。
 この温かさこそが、妻自身なのだと誇らしくも思える。
「あーやべ」
 俺が笑うと、隣でアキちゃんが首を傾げる。
「泣きそう」
 アキちゃんが笑って、ヨーコさんの方へと足を向ける。
「ヨーコさぁん。あんまり神崎さんと仲良くしてると、安田さんが寂しいって」
 あ、違う。それで泣きそうなんじゃなくて。
 思ったけれど、アキちゃんの声にこちらを見たヨーコさんがふわりと笑って、
「なんや、しょうもないなぁ」
 と言ったのを見て、なんかもう全部どうでもよくなった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー

i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆ 最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡ バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。 数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・

希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!? 『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』 小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。 ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。 しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。 彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!? 過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。 *導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。 <表紙イラスト> 男女:わかめサロンパス様 背景:アート宇都宮様

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちだというのに。 入社して配属一日目。 直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。 中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。 彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。 それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。 「俺が、悪いのか」 人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。 けれど。 「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」 あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちなのに。 星谷桐子 22歳 システム開発会社営業事務 中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手 自分の非はちゃんと認める子 頑張り屋さん × 京塚大介 32歳 システム開発会社営業事務 主任 ツンツンあたまで目つき悪い 態度もでかくて人に恐怖を与えがち 5歳の娘にデレデレな愛妻家 いまでも亡くなった妻を愛している 私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?

ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。 どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。 だけど…何故か気になってしまう。 気がつくと、彼女の姿を目で追っている。 *** 社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。 爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。 そして、華やかな噂。 あまり得意なタイプではない。 どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。

2月31日 ~少しずれている世界~

希花 紀歩
恋愛
プロポーズ予定日に彼氏と親友に裏切られた・・・はずだった 4年に一度やってくる2月29日の誕生日。 日付が変わる瞬間大好きな王子様系彼氏にプロポーズされるはずだった私。 でも彼に告げられたのは結婚の申し込みではなく、別れの言葉だった。 私の親友と結婚するという彼を泊まっていた高級ホテルに置いて自宅に帰り、お酒を浴びるように飲んだ最悪の誕生日。 翌朝。仕事に行こうと目を覚ました私の隣に寝ていたのは別れたはずの彼氏だった。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

出逢いがしらに恋をして 〜一目惚れした超イケメンが今日から上司になりました〜

泉南佳那
恋愛
高橋ひよりは25歳の会社員。 ある朝、遅刻寸前で乗った会社のエレベーターで見知らぬ男性とふたりになる。 モデルと見まごうほど超美形のその人は、その日、本社から移動してきた ひよりの上司だった。 彼、宮沢ジュリアーノは29歳。日伊ハーフの気鋭のプロジェクト・マネージャー。 彼に一目惚れしたひよりだが、彼には本社重役の娘で会社で一番の美人、鈴木亜矢美の花婿候補との噂が……

処理中です...