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第一章 旅立ち
04 彼女の空気
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そして、3月末日。
ヨーコさんの勤務最終日だ。
「ヨーコさん、いつでも遊びに来てくださいね!」
繁忙期を乗り越えた財務部のフロアに足を運んだ俺は、明るい後輩の声を聞いて口の端を上げた。
「せやな。アキちゃんも無理せんようにね」
「だーいじょぶです! 丈夫なのだけが取り柄ですから!」
次々に挨拶をする後輩たちに囲まれたヨーコさんを、入口から見守る。
勤務最終日となれば、何かと荷物も多いだろうと足を運んだのだが、彼女の人望を伺い見ることができたのは思わぬ収穫だった。
彼女のことだから当然だとは思うけれども。
マーシー絡みでうちとも比較的近しい後輩、アキちゃんが俺に気づいて笑う。
「あっ、安田さん。ボディガードお疲れさまです」
ぴしりと敬礼する姿に手を挙げて返すと、珍しくほてほてと歩いて来る。
他のメンツに囲まれたままのヨーコさんを並んで見つめながら、アキちゃんは笑った。
「いやぁ、複雑な心境です」
「何が?」
「安田夫婦のイチャイチャを見られないのが」
俺は目をまたたかせて、頭一つ下にある後輩の頭を見やった。
俺を見上げる気のない彼女の、肉付きがよくない肩が見える。豪胆なところがあり、先輩たちを平気で振り回す猛者だが、こうして見ると意外と華奢だ。
「イチャイチャしてたっけ」
「ごふっ」
後輩は噴き出して口元を手で押さえた。
見上げて来る目が完全に笑っている。
「そうでした、それが安田夫婦の醍醐味でした」
「え?」
「傍若無人というか。二人の世界というか」
はははと笑う彼女も、今やもう30代後半のはずだ。
それでも変わらない関係がありがたい。俺にとってではなく、ヨーコさんにとって。
「アキちゃん」
「なんすか?」
「ありがとうね」
アキちゃんは途端に表情を失った。唖然とする、というのはこういうことか。
「なに、その反応」
「いや……」
アキちゃんは眉を寄せ、神妙な顔をしている。
「……安田さんからそういう言葉聞くと、気味が悪いっていうか……微妙」
「ひどいなー」
俺は笑い、またヨーコさんを見やる。
もう彼女も俺に気づいていた。目が合い、視線を交わす。それだけで充分な程度に、俺たちは関係を築いている。
「アキちゃんがいるから、がんばれてたんだと思うよ」
アキちゃんはわざとらしく肩をすくめた。その頬がわずかに赤いのは照れているのだろうか。
「……私だって、ヨーコさんがいたからがんばれました」
小さく言って、はは、と笑う。それが作った笑いだとは、さすがの俺にも分かった。
じわりと彼女の目に涙がにじむ。
が、気丈にヨーコさんの方を見た。
「……もうちょっと、一緒に仕事したかったです。ヨーコさんは私にとって憧れのお姉さんだから」
アキちゃんの言葉に、俺は微笑む。
「喜ぶよ。ヨーコさんにとっても、アキちゃんは妹みたいなもんだから」
仕事にてんてこまいのときにも、明るくユーモラスなアキちゃんの話はしょっちゅう家で聞いたものだ。ついついのめり込み、マイナス思考に陥るヨーコさんにとっては救いだったことだろう。
そんなことを思っていたとき、ばたばたと廊下から音が近づいて来たかと思えば、ドアががちゃがちゃいう音がした。どうもロック解除に失敗してやり直したらしい。
がちゃ、と開いたドアから顔を出したのは、ヨーコさんのもう一人の“妹分“、アーヤだった。
「あああ、間に合ったぁ、よかったぁ!」
「なんや、アーヤも来たんか」
ヨーコさんが困ったように笑う。が、その目は嬉しそうだ。
ヨーコちゃぁんと抱き着くアーヤを受け止めて、ヨーコさんは嬉しそうに笑う。
アーヤは現在人事課長。子育てが落ち着いたと見られるや忙しい部署に投げ込まれたと嘆いていたが、家のことは夫がやっているらしいので問題ないのだろう。
その夫たるマーシーも、後ろから現れた。
「落ち着きがねぇなぁ。ドア壊すかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
苦笑を浮かべる色男に、財務部女子の目がそわそわと落ち着かない。ヨーコさんを囲んでいた人たちは、ゆったりと近づく長身に道を譲るべく一歩下がる。まるで海を割る聖人の姿を見ているようだと笑いが込み上げるが、当人はさして自覚がないのだろう。
「名取さん。お疲れさまでした」
「嫌やわぁ。最後までそう呼びはるん」
すでに戸籍もビジネスネームも安田にしているヨーコさんを、名取と呼ぶのは彼だけだ。指摘されてマーシーは苦笑する。
「つい癖で」
「直す気もなかったくせしはって」
「安田さんと呼ぶのはなんとなく違和感が」
「じゃあ、ヨーコて呼んで」
言うヨーコさんの目は笑っている。その腕にしがみついたアーヤもくすくす笑っている。マーシーはあきれた。
「……こういうやりとりも今日で最後ですかね」
「そうやろな」
マーシーがため息をついて、俺の方を振り返る。
俺はあえて剽軽な顔つきで、耳を押さえてみせた。マーシーが苦笑して、ヨーコさんに向き合う。
「ヨーコさん。長い間ありがとうございました」
形だけ塞いだ耳に、美声が流れ込む。
手で覆っていたからこそ、その響きが耳の中に残った。
気持ちがこもった言葉は、こんなにも気持ちがいい。
俺は手を下ろして愛妻を見やる。
「うちこそ、おおきに」
ヨーコさんは笑いながら泣いていた。
その顔。
その、可愛い顔。
俺だけのものなのになぁ。
駆け寄って抱きしめたい衝動をこらえる。
今日は。今日のこの時間だけは。
俺だけのヨーコさんじゃなくて、みんなのヨーコさんだ。
ここは、ヨーコさんが、自らの力で築いてきた場所なのだから。
部屋の空気はあたたかかった。
心にじわりと、その温もりが伝わる。
この温かさこそが、妻自身なのだと誇らしくも思える。
「あーやべ」
俺が笑うと、隣でアキちゃんが首を傾げる。
「泣きそう」
アキちゃんが笑って、ヨーコさんの方へと足を向ける。
「ヨーコさぁん。あんまり神崎さんと仲良くしてると、安田さんが寂しいって」
あ、違う。それで泣きそうなんじゃなくて。
思ったけれど、アキちゃんの声にこちらを見たヨーコさんがふわりと笑って、
「なんや、しょうもないなぁ」
と言ったのを見て、なんかもう全部どうでもよくなった。
ヨーコさんの勤務最終日だ。
「ヨーコさん、いつでも遊びに来てくださいね!」
繁忙期を乗り越えた財務部のフロアに足を運んだ俺は、明るい後輩の声を聞いて口の端を上げた。
「せやな。アキちゃんも無理せんようにね」
「だーいじょぶです! 丈夫なのだけが取り柄ですから!」
次々に挨拶をする後輩たちに囲まれたヨーコさんを、入口から見守る。
勤務最終日となれば、何かと荷物も多いだろうと足を運んだのだが、彼女の人望を伺い見ることができたのは思わぬ収穫だった。
彼女のことだから当然だとは思うけれども。
マーシー絡みでうちとも比較的近しい後輩、アキちゃんが俺に気づいて笑う。
「あっ、安田さん。ボディガードお疲れさまです」
ぴしりと敬礼する姿に手を挙げて返すと、珍しくほてほてと歩いて来る。
他のメンツに囲まれたままのヨーコさんを並んで見つめながら、アキちゃんは笑った。
「いやぁ、複雑な心境です」
「何が?」
「安田夫婦のイチャイチャを見られないのが」
俺は目をまたたかせて、頭一つ下にある後輩の頭を見やった。
俺を見上げる気のない彼女の、肉付きがよくない肩が見える。豪胆なところがあり、先輩たちを平気で振り回す猛者だが、こうして見ると意外と華奢だ。
「イチャイチャしてたっけ」
「ごふっ」
後輩は噴き出して口元を手で押さえた。
見上げて来る目が完全に笑っている。
「そうでした、それが安田夫婦の醍醐味でした」
「え?」
「傍若無人というか。二人の世界というか」
はははと笑う彼女も、今やもう30代後半のはずだ。
それでも変わらない関係がありがたい。俺にとってではなく、ヨーコさんにとって。
「アキちゃん」
「なんすか?」
「ありがとうね」
アキちゃんは途端に表情を失った。唖然とする、というのはこういうことか。
「なに、その反応」
「いや……」
アキちゃんは眉を寄せ、神妙な顔をしている。
「……安田さんからそういう言葉聞くと、気味が悪いっていうか……微妙」
「ひどいなー」
俺は笑い、またヨーコさんを見やる。
もう彼女も俺に気づいていた。目が合い、視線を交わす。それだけで充分な程度に、俺たちは関係を築いている。
「アキちゃんがいるから、がんばれてたんだと思うよ」
アキちゃんはわざとらしく肩をすくめた。その頬がわずかに赤いのは照れているのだろうか。
「……私だって、ヨーコさんがいたからがんばれました」
小さく言って、はは、と笑う。それが作った笑いだとは、さすがの俺にも分かった。
じわりと彼女の目に涙がにじむ。
が、気丈にヨーコさんの方を見た。
「……もうちょっと、一緒に仕事したかったです。ヨーコさんは私にとって憧れのお姉さんだから」
アキちゃんの言葉に、俺は微笑む。
「喜ぶよ。ヨーコさんにとっても、アキちゃんは妹みたいなもんだから」
仕事にてんてこまいのときにも、明るくユーモラスなアキちゃんの話はしょっちゅう家で聞いたものだ。ついついのめり込み、マイナス思考に陥るヨーコさんにとっては救いだったことだろう。
そんなことを思っていたとき、ばたばたと廊下から音が近づいて来たかと思えば、ドアががちゃがちゃいう音がした。どうもロック解除に失敗してやり直したらしい。
がちゃ、と開いたドアから顔を出したのは、ヨーコさんのもう一人の“妹分“、アーヤだった。
「あああ、間に合ったぁ、よかったぁ!」
「なんや、アーヤも来たんか」
ヨーコさんが困ったように笑う。が、その目は嬉しそうだ。
ヨーコちゃぁんと抱き着くアーヤを受け止めて、ヨーコさんは嬉しそうに笑う。
アーヤは現在人事課長。子育てが落ち着いたと見られるや忙しい部署に投げ込まれたと嘆いていたが、家のことは夫がやっているらしいので問題ないのだろう。
その夫たるマーシーも、後ろから現れた。
「落ち着きがねぇなぁ。ドア壊すかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
苦笑を浮かべる色男に、財務部女子の目がそわそわと落ち着かない。ヨーコさんを囲んでいた人たちは、ゆったりと近づく長身に道を譲るべく一歩下がる。まるで海を割る聖人の姿を見ているようだと笑いが込み上げるが、当人はさして自覚がないのだろう。
「名取さん。お疲れさまでした」
「嫌やわぁ。最後までそう呼びはるん」
すでに戸籍もビジネスネームも安田にしているヨーコさんを、名取と呼ぶのは彼だけだ。指摘されてマーシーは苦笑する。
「つい癖で」
「直す気もなかったくせしはって」
「安田さんと呼ぶのはなんとなく違和感が」
「じゃあ、ヨーコて呼んで」
言うヨーコさんの目は笑っている。その腕にしがみついたアーヤもくすくす笑っている。マーシーはあきれた。
「……こういうやりとりも今日で最後ですかね」
「そうやろな」
マーシーがため息をついて、俺の方を振り返る。
俺はあえて剽軽な顔つきで、耳を押さえてみせた。マーシーが苦笑して、ヨーコさんに向き合う。
「ヨーコさん。長い間ありがとうございました」
形だけ塞いだ耳に、美声が流れ込む。
手で覆っていたからこそ、その響きが耳の中に残った。
気持ちがこもった言葉は、こんなにも気持ちがいい。
俺は手を下ろして愛妻を見やる。
「うちこそ、おおきに」
ヨーコさんは笑いながら泣いていた。
その顔。
その、可愛い顔。
俺だけのものなのになぁ。
駆け寄って抱きしめたい衝動をこらえる。
今日は。今日のこの時間だけは。
俺だけのヨーコさんじゃなくて、みんなのヨーコさんだ。
ここは、ヨーコさんが、自らの力で築いてきた場所なのだから。
部屋の空気はあたたかかった。
心にじわりと、その温もりが伝わる。
この温かさこそが、妻自身なのだと誇らしくも思える。
「あーやべ」
俺が笑うと、隣でアキちゃんが首を傾げる。
「泣きそう」
アキちゃんが笑って、ヨーコさんの方へと足を向ける。
「ヨーコさぁん。あんまり神崎さんと仲良くしてると、安田さんが寂しいって」
あ、違う。それで泣きそうなんじゃなくて。
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